ふしぎな英和辞典
「お母さん。ちょっと、辞書を買いに行きたいんだけど」
母親は、台所で夕飯の支度をしていた。
「辞書?」
薫は答えた。
「英和辞典さ。やっぱり、辞書がないと予習がはかどらないんだ。二年生にもなると、むずかしい単語がどんどん出てきて、まいっちまうよ」
それは本当だった。学校から帰宅して、夕飯までの空き時間に、明日の英語の予習をしていたのだが――教科書の英文を書き写し、いざ和訳しようとすると、意味がとれない単語がたくさんあるのだ。
「お金をくれない? 駅前の本屋に行きたいんだ」
へいぜい、比較的まじめに勉学に励んでいる薫の言葉を、母親は別に疑いもしなかった。母親は、鍋の火をとめると、居間に行き、なにかごそごそしていたが、じきに紙幣を三枚もってきて、薫に手渡した。
「これで足りるでしょ」
「ありがとう」
「もう暗いんだから、辞書だけ買ったらすぐ帰ってくるのよ」
「わかった」
「寄り道しちゃだめよ」
「わかったって」
薫は、三枚の紙幣をポケットにつっこんで、表へ出た。
表はすっかり暗くなっている。その書店は、家から歩いて一〇分ほどの、駅前商店街にある。あそこなら、まだやっているはずだ。
そうして、薫はしばらく歩を進めた。
と。
薫は、ふいに足を止めた。
いま立っている場所の、すぐ目の前。
商店街の、ほんの入口に、ひっそりとたたずむ古書店の明かりが見える。
そうだ。
薫は考えた。――辞書なら、古いも新しいも、あんまり関係ないだろう。別に、この古書店で安く辞書が手に入れば、それでいいのではあるまいか。いま、紙幣は三枚ある。できるだけ安くすませて、あまりはいただいてしまおう。もちろん、無駄づかいするわけじゃない。あまったお金は、また文房具や、文庫本なんかを買うために残しておけばいいのだ。そうだ。別に、くすねるとか、そういうことではないのだ。
その古書店には、推理小説の好きな父親に連れられて、いままで何回か訪れたことがある。薫が古書店に入ったとき、いらっしゃい、とぼそっとつぶやいた店主のおじさんの顔も、知っていた。
「君」
おじさんが薫を呼び止めた。
「なにか探し物かい?」
不慣れだろうと思ったのか、おじさんが要件を訊いてきてくれた。
「英和辞典がほしいんです」
「英和辞典?」
「ええ。ありませんか」
「あるよ。辞書なら、全部あっちの本棚にあるよ。よかったら見ていって」
あっちさ、と指をさされた書棚は、店の、だいぶ奥のほうにあった。
こんな奥にあるなんて、古書店では、あまり辞書は売れないんだろうか。ただでさえ狭い通路を、両側にうず高く積まれた文庫本が、さらに狭めている。それらを崩さないように、慎重に、慎重に、薫は辞書の棚へと歩いて行った。
なるほど、いろんな辞書があった。
英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語はもちろん、ラテン語だの梵語辞典だの、書名すら薫には読めない古めかしい本などが、ぎっちり詰まっているのだ。
肝心の英和辞典の品ぞろえは、まあまあだった。
何冊か手に取ってみたが、どれも紙幣二枚くらいの金額だった。それでも、元の値段に比べれば半額かそれ以下の値付けなのだが……しかし、安ければ安いほど、お金が余って後日の資金になると考える薫は、手当たり次第に、値段だけを見ていく。
おや。
いいぞいいぞ。
これは安い。
文庫本くらいの大きさの、少し古ぼけた『ディスカバリー英和辞典』というやつ。これは、紙幣1枚よりも安い。半分はおつりがくる安値なのだ。
薫は、ぱらぱらと辞書をめくった。
別に、ページの汚損がはなはだしいとか、折れが多いとかはなさそうだ。
きっと、少し小さな判型だから安いのだ。小さいということは、掲載単語が多少は減るのかもしれないが、中学校の英語で習う単語が漏れているなどとは考えられない。
薫は、『ディスカバリー英和辞典』を棚から引っ張り出すと、おじさんのところへ持って行った。
「決まったかい」
「ええ。これください」
「はいよ」
そのとき、おじさんの目が、ぴくりと動いたような気がした。
なにか、内心の、感情の動きがあったようだった。しかし、薫は、深くは考えなかった。ああ、また安いものを買いおってくらいに思ったのかもしれない。
薫は辞書を小脇に抱えて、家へと急いだ。
さて。
夕食をとった薫は、学習机の上に、教科書とノート、それと、さっき買ってきた辞書とを広げた。これがあれば、予習もはかどるだろう。
そうしてカリカリやっていると、さっそく、わからない単語がでてきた。
require ――。
はて。動詞なのはわかる。だが意味がわからない。
薫は、辞書を開いた。そこで、単語を探す。R……、Re……、Req……。
だが、薫はそこで舌打ちした。requireという単語が見当たらないのだ。ああ、スペルを間違っているんだ。そう思って、教科書のrequireという綴りをあらためて確認してみた。そして、もういちど探してみたのだが――。
ない。
載っていないのだ。
ばかな! 薫は腹が立った。こんな、中学二年の教科書に載っている単語がないなんて。
ほかの単語を見てみると、日本語のことばの意味すらわからない、むずかしい英単語が、びっしりと載っている。だが、requireは載っていないのだ。
待て。
もしかしたら、reというのが接頭語で、じつはquireとかいう単語があるのではないか?
薫は、ダメもとで、quireを探した。
キュイーレ。
キュイーレ。
発音なんかわからない。わからないままに、薫はquireを探した――だが、そんな単語はみつからなかった。
けれど、もしかしたら、たまたま編集の精度の悪い辞書で、うっかりrequireが落ちていたということは考えられないだろうか?
薫は、environmental、protect、proofと、立て続けに知らない単語を引いた。
そのどれもが、辞書には載っていなかった。
薫は、憤懣やるかたないというようすで、大きなため息をついた。
これでは、使いものにならない。
今日のところは仕方がない。こうなったら、意味がわからないままに、前後の文脈から推測して、訳をとるほかない。
だが、明日は、必ず別の英和辞典を買いに行かなければいけないぞ。
安物買いの銭失いだ。薫は、まだ腹が立っていた。
といって、予習をおろそかにしては、明日、先生にどやされるのは目に見えているので――ここはひとつ冷静になって、英文にかじりついたのだった。
しかし、翌日、思いもしないほど、薫は先生にほめられたのである。
というのも、あの、意味がわからないなりに推測で訳した文章が、非常によくできた和訳だというのである。
先生の弁はこうだった。
いわく、辞書を開いて機械的に訳した文章と違って、薫君の和訳は「生きた日本語」で非常によろしい。いわく、一つの英単語には、複数の対応する日本語が考えられるわけだが、辞書に頼らず、その英単語が本来もっている意味を、最も適切な日本語に表現した文章であるウンヌン。
クラスメイトは、みな、感心したようすで先生の話を聞いていた。
いっぽうの薫は、ポカンと口を開けていたが――
授業のあと、薫は、先生にだけこっそり事情を打ち明けた。
「先生、じつは、あれは単語の意味がろくすっぽわからないままに、意味を推測してつくった和訳だったんです」
「え」
それから、薫は、くわしく説明した。
「ふん、ふん」
先生はうなずき、そしてニッコリと笑った。
「それはね、実はとてもよい学習法なんだよ。スキムリーディングというんだがね。英語の文章を、とにかく、あたまからおしりまで、ざっと読んじゃうんだな。すると、まだ君たちには知らない単語がたくさんでてくる――しかし、意外と推測で読めてしまうものだよ。むしろ、いちいち立ち止まって読むよりは、概要をつかんで、文章の構成を理解する力のほうが、単語の知識よりも、ずっと大切なのさ」
先生はつづけた。
「これから、高校、大学と、英文はどんどん難しくなるし、長くなるし、専門的にもなる。どだい、わからない単語なんて今後も必ず出てくる。先生にだって、わからない単語はまだまだたくさんある――だからこそ意味を推測する力、これを、ぜひ身につけていきたまえ」
かくのごときお墨付きを与えられた薫は、その日の夜も、あの、ひどく出来の悪い『ディスカバリー英和辞典』を開いて予習にとりかかった。
そのとき、たまたま教科書の中で、dogという単語にぶつかった。
dogは、むろん犬である。犬であるが――
さっき、薫が二階へ上がるときに、父親が居間で観ていた洋画のことを思い出したのだ。
そのアクション映画の中で、サングラスをかけたいかつい俳優が、ゴロツキに拳銃を突きつけて、こう吐き捨てたのだ。
「ヘイ! ヨーアー・ドッグ!」
この出来損ない!
字幕にはそう出ていた。しかし、ドッグは犬だろう。それで、出来損ないとは? 日本語でいう負け犬とか、そういった意味合いが英語にもあるのだろうか。
息抜きというか、ほんの興味本位で、薫はdogを引いてみた。
――しかし。
ないのだ。
dogが載っていないのである。そんな馬鹿な話があるだろうか?
薫は、自分が誤って、bogを探していないかたしかめた。
当然、そんなへまはしていない。
そうなのだ。
この『ディスカバリー英和辞典』とやらには、dogが掲載されていないのだ!
そこで、薫は、あることに気が付いてしまった。
自分はこの辞書を買ってから、まだ一度も、調べたい単語を引けていない。
それはつまり――はなはだ荒唐無稽な話だが――この辞書は、使う人が、自発的に調べようと思った単語には、絶対にたどりつけない辞書なのだ!
薫は、次々にページをめくった。
めくって、見ていると、いかにもふつうの辞書である。単語がある。意味が書いてある。だが、あらためて探してみても、dogは載っていないままだった。
薫は、おもわず悲鳴を上げそうになった。
I という、あの、小学生でもわかる主語を引いてみたのだが――
Iはなかった。
「私は」が、掲載されていないのだ!
古書店には、まだ明かりがついていた。
「いらっしゃい。どうしたんだい、こんな時間に」
薫は、何も言わずに、『ディスカバリー英和辞典』をレジの机に置いた。
おじさんは、そのとき、口元を少しゆるませた。それは悪意のない、やさしげなほほえみに薫には見えた。
「この辞書は――」
「言わんでもいいさ」
おじさんはうなずいた。
「君の言いたいことはわかる。この本を、前にここへ売りにきた人も、その前の人も、いまの君と同じような表情を浮かべていたよ」
おじさんは、その辞書を手に取って、やさしくなでながら続けた。
「だれか、この本を最後まで使い切ってくれる人が、出てくるかね。その人は、きっと英語の達人になれるんだろうがね。まあ、この先も、出てこないかもしれんなあ」
この本は、また書棚に入れておくよ。
おじさんはそう言って、薫が昨日はらった代金を、そっくり返してくれた。
了
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