雨宿り


 図書館で調べものをしていた辰夫は、午後五時の鐘を合図に、帰り支度をはじめた。

 いまから家へ帰れば、じきに夕食だ。それなりに成果はあったし、必要な本も借りられたし、そろそろ帰るとしよう。

 ところが、玄関まで出てみて、気がついた。

 雨が降っているのだ。

 調べものに熱中していて、窓の外など、ろくに見なかった。

 今日は、運の悪いことに、傘をもっていない。

 走って帰るか?

 だが、ここから辰夫の家までは、走っても二〇分はかかる。

 風邪をひいたらいやだし、ずぶ濡れになれば母親もうるさいだろう。

 しばらくここで待ってみるのが得策だ。

 そう考えた辰夫は、玄関のひさしの下に立ち、雨宿りをはじめた。

 何人か、図書館の中から出てきたが、みんな折りたたみの傘や雨ガッパを持っていた人々で、雨の中へ、悠々と飛び出していった。

 辰夫だけが、置き去りにされるようである。

 だんだん、じりじりしてきた。

 こんなことなら、中に戻って、もうすこし本を読んでいるか?

 いやしかし、夕飯までには帰らないと――

 逡巡していると、ふいに、となりに人の気配を感じた。

 見ると、女性である。

 白いブラウスに、紺色のスカートを履いた、若い女性が立っているのだ。

 この人も、雨宿りだろうか?

 あまりじろじろ見るのもはばかられるので、辰夫は、すぐに真正面を向き……

 また、さりげなく女性のほうを向いた。

 ――女性は、辰夫をじっと見ていた。

 目が合ってしまった。

「……きみ、雨宿りしているの?」

 彼女は言った。

「え、ええ」

 辰夫は、ぎこちない愛想笑いを返した。

「傘が必要なのね?」

「ええ。まあ――」

「それなら、傘立てを見てごらん。柄の白い、空色の傘があるから」

「はあ」

「それ、使ってちょうだい」

 傘だと?

 辰夫は、きびすを返した。

 ちょうど、二人の背後に傘立てがあるのだ。

 見てみると、女性の言うとおり、柄が白く、空色をした傘が立てかけてある。

「これですか?」

 振り向いた。

 だが、女性はいなかった。

 こんなわずかな間に。

 妙だ。

 まるで、消えてしまったようだ。

「その傘よ……」

 声がした。

 さっきの、あの女性の声だった。

「その傘を差して……連れていって」

 あたりを見渡しても、だれもいない。声だけが、頭の中に響くようだ。

「連れていくって、どこにです」

「案内するわ」

 声だけが答えた。

「おねがい……」

 辰夫は、傘立てから水色の傘を取り上げると、傘を開いて、玄関のひさしから向こうに歩み出た。

「どこへ行けばいいんです」

「図書館の東門を抜けて、旭町南の交差点を右へ……」

 辰夫は、言われるままに歩を進めた。

「その細い路地を、しばらくまっすぐに行ってちょうだい」

 住宅街に入った。

 雨脚が、次第に強くなってきた。

 雨つぶが、激しく傘をたたく。

 だが、声ははっきりと、辰夫の頭の中で響くのである。

「辻に出たら、左に進んで。じきに三叉路に出るから、右へ行ってね……」

 辰夫は、住宅街の中を、どんどん歩いていった。

 雨は、さっきよりも、さらに強まってきた。

「立ち止まって」

 声の言うとおり、辰夫は足を止めた。

「赤い屋根の家が見えないかしら」

 女性の声は言った。

 なるほど、辰夫の前方二〇メートルほどの場所に、赤屋根の、小さな家が見える。

「その家まで行ってちょうだい」

「わかりました」

 言われるままに、辰夫は、また歩を進めた。

 家の、目の前まできた。

 辰夫は目をみはった。

 その家の玄関扉に――

 白い半紙に、黒縁を施した、忌中札が貼ってあるのだ。

 忌中だと?

 どういうことだ?

 そのとき、ガラガラガラと音がした。

 家の、玄関の引き戸が開いたのだ。

 そこから、中年女性が顔だけ出して、軒先に立っている辰夫を見た。

 見たと思うと、ハッと目を大きくして、こちらへ駆け寄ってきた。

「その傘!」

 女性は叫び、傘の中にとびこんできた。

「どうして……。この傘、娘のものなんです。あの子、ずっと大切にしていたのに、どこかに忘れてきて……結局、見つからなかったんです」

 そう言うと、女性は、白い傘の柄を、いとおしそうに指でなぞった。

 いままで気がつかなかったが、そこには、サインペンでイニシャルが書いてあるのだ。

 きっと、辰夫がみた女性の名前だろう。

「おかえり、おかえり」

 女性は、何度も何度も、泣きながら繰り返すのだった。



 了

 

 

 

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