Brave〈ナオト・インティライミ〉

 無理をしても前を向かなければならない日──というのは誰しもあるもので、そんなときに星住ほしずみ一徹かずゆきなんぞは、アップマフラーでハンターカブ風にカスタマイズした愛車のC90で、真夜中に都会を抜け出して街外れの海までかっ飛ばしてみせる。


 スロットルを回しアクセルを開いていくと、ビルやマンションの風景が後ろへ飛んでゆく。


 そうして。


 行けるところまで行った先に、真っ暗な海岸はあった。


 夜明けの白んでいく海を見てぼんやりとすると、一徹は次第に仕事の煩わしい関係が瑣末なものに感じられて、ややこしい感情を波に洗い流したあと、再びビルやマンションの並ぶ街へと戻っていく。





 さて。


 その日は昼間から少しくイライラしていたからか、まだ明るかった夕方の仕事帰りに海へ向かった。


 あまりないことではある。


 少しだけ渋滞にハマったがそれはすぐ抜けて、工場や倉庫の並ぶ運河沿いの道を突き当たりで左に折れると、いつもの海へ抜ける道へ出た。


 秋の終わりで、季節外れの浜昼顔が咲く砂浜沿いの道を真っ直ぐ転がしてゆくと、海へ注ぐ小さな川に橋がかかっていて、その橋から見える海辺の景色が、いつものポイントである。


 薄暗くなって来たので街灯のない道を引き返し、海岸の入り口にある小さな浜茶屋の角を折れようとタイミングをはかっていたとき、


「あの…」


 女の声がした。


「あの、すいません」


 制服姿の女子高校生である。


「駅までどのぐらい歩きますか?」


「ここから? 20分は歩くで」


 関西弁の一徹は答えた。


「そうですか…ありがとうございます」


 女子高校生は歩き始めた。


「しゃあないなぁ…ほんなら、駅までなら乗せたるわ」


 夕暮れの海辺にうら若い女の子をひとり置いて行くのは、一徹でも気が引けたものであったらしい。





 駅までは、C90なら5分とかからなかった。


「ありがとうございます」


 女子高校生は深々と頭を下げた。


「それよか、あんた女子高やのに何であんな海に一人でおったん? …まぁ言いたくないなら言わんでもえぇけど」


 彼女は黙ったままである。


「…ま、今度からは気をつけや。彼氏さんに要らん心配さしたらアカンで」


 とだけ笑いながら言うと、一徹は彼女が駅へ消えるのをバックミラーで見届けてから駅のロータリーを出た。


 そこからしばらく、会うことがなかった。


 それもそうで接点もなかったからであるが、一徹が彼女に再会したのは、意外なことに自宅のアパートのすぐ近くにあるコンビニであった。


「…あ」


 彼女が一徹に軽く会釈をすると一徹も返した。


「あのときの…何でこないなところに?」


「いや、近所なので」


「ワイかてそやで」


 一徹は缶コーヒーを二つ買い、一本を彼女に渡した。





 彼女は白瀬しらせせつ菜と名乗った。


 歳も20歳で、


「なんちゃって制服の方が、男子に受けるんだよね」


 仕事も、いわゆるデリヘル嬢なのだと話した。


「だってさ、そうでもしないとお金稼げないじゃん」


 一徹は頷きながら聞いていた。


「あ、ワイはホンマはカズユキって言うんやけど、字が頑固一徹の一徹って字やから、みんなイッテツって呼んどる」


「…ふふふ、やっぱ関西の人って面白いんだ?」


「そんなんでもないけどなぁ」


 一徹は首を傾げた。


 特に理由もなく、せつ菜は気に入った様子であった。





 それからせつ菜と一徹は時間が合うと、一緒に遊ぶようになった。


 といっても。


 せつ菜がよく行っているというカフェにタンデムで行ったり、二人が出会った海岸へプチツーリングをしたり──というぐらいのことではあるのだが、それでもライダーの知り合いがいないというせつ菜にすれば、一徹の背中にしがみついてバイクに乗る行為そのものが新鮮で刺激的でもあったらしい。


 一徹は無駄なことは語らない。


 しかし話すと必ずオチがあって、せつ菜は関西弁でいうところのゲラであったのか、涙を流すほどよく笑った。


 そうした帰り、集合場所にしてあるコンビニでせつ菜を降ろすと、


「ありがと」


 せつ菜は一徹の頬にキスをした。


「一徹って、不器用だけど優しいよね」


 どうやらせつ菜は、一徹に淡い好意を持ち始めていたようであった。





 二人に変化があったのは、半年ほど過ぎた春先のことである。


「あのね…一徹?」


「今、金ならないで」


 一徹はこうしたちょっとしたところでもせつ菜を笑わせてみせるようになっていた。


「そうじゃなくて…あのね」


「あ、マジな話やね」


 一徹は真顔になった。


「あのね…私、仕事変えようかなって思ってて」


「それはせつ菜ちゃんの人生なんやし、ワイは何も干渉せんで」


「そうじゃなくて。一徹は、私の仕事ってどう思う?」


「うーん」


 一徹はしばらく考え込んでいたが、


「どんな仕事やってようが、せつ菜ちゃんはせつ菜ちゃんやろ?」


 ちゃうの?──というような顔をして、一徹はうつむいていたせつ菜の顔を覗き込んだ。


「…ゴメンね、何か変なこと訊いて」


「いや、ワイはえぇんやけど…何ぞ遭ったんか?」


 一徹は眉を寄せて心配そうに見つめた。




 せつ菜は訥々と語り始めた。


「こっちこそゴメンね…一徹のこと、誤解してた」


 せつ菜は笑顔になったが、瞳は潤んでいた。


「一徹は違うんだって。他の男みたいに私のことをただの汚れた女だなんて思ってなくて、ちゃんと私のことをありのまま見ている人なんだって」


「あのなぁ」


 途端に一徹は弾けるように笑い出し、


「ワイらライダーはな、そりゃまぁメンテナンスは機械相手やけど、あとは転がしたり、かっ飛ばしたりするときは雨だの風だの坂道だの急カーブだのが相手で、要は自然と戦いながら、ひたすら前に進んでかなあかんねん」


 そんな自然相手だと、人間社会が小さく見える──一徹は言い切った。


「せやから、せつ菜ちゃんがたとえどんな仕事であろうとも、ワイの目の前におるせつ菜ちゃんは、白瀬せつ菜やろ?」


 一徹は穏やかにニコニコ笑っていた。


 せつ菜は逆に、一徹の言葉を聞いて声を放っていていた。


「せつ菜ちゃん、泣いたら幸せ逃げてまうで」


 一徹はせつ菜が泣き止むまで、幼子をあやすように髪をなでてみせた。





 それからしばらく経って。


 せつ菜が街を離れることになり、駅までせつ菜を送り届け、ロータリーで明るく手を振って、二人は別れた。


 その足で一徹はせつ菜と出会った海岸へC90を転がし、どのぐらいの時間が過ぎたのか分からないぐらい季節外れの海を眺めていた。


 砂浜の枯れ枝に、一羽の名も知らない小鳥が止まった。


 小鳥は鳴きもせず小首を動かしながら止まっていたが、風が来ると翼を広げて再び空へ飛び立った。


 立ち上がって砂を払うと、足元の目線の先に、一輪だけ浜昼顔が咲いている。


「…人間社会って、ホンマ小さいよなぁ」


 ヘルメットをかぶり直し、一徹は鍵を回すと、再び砂浜に沿うた一本道を、街へと向けてアクセルを開いて進み始めた。





 

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