ありふれた悲しみの果て〈南條愛乃〉
ミッションのついたバイクに初めて乗ると、ペダルを踏みクラッチを切り替えながら運転をする──というような行為に、戸惑いをおぼえる経験がある。
だがそれは。
すぐに操る楽しさへと変わる。
そうして、
──いやぁ、やっぱりバイクはミッションがないとつまんないでしょ。
などと、いっぱしなことを言うようになる。
街頭のウィンドウにディスプレイされていたC90の、通称を
「一度スロットルを戻さないと、ギアって切り替わらないんだよね」
果林はその苦闘ぶりを、久々に会った親友の酒巻
遥にすれば、
──何の理由で、そんな面倒な乗り物に乗らなければならないのか。
というのが偽らざるところであったのだが、
「だってさ、一人で立つこともできないんだよ? 私がいなきゃダメな訳じゃない?」
まるで彼氏にぞっこんであるかのような顔で果林は語るのである。
果林の角目カブはシャンパンゴールドの珍しい色味のカブで、レッグカバーを黒いカットタイプに変え、シートも黒のダブルシートに変えると、グリップもバレルグリップに変えてある。
見た目だけなら、とても年頃の若い女性が乗っている色には見えないのであるが、少しミステリアスな雰囲気の果林が乗ると妙にサマになるので、
──まるで果林のためにあるようなバイクじゃん。
遥がそう表現したのも、なるほど宜なるかなであった。
ところで。
果林はときに、仕事の帰りに一人でふらりと小さなツーリングを楽しんで帰る日があるのであるが、この夜は月が明るく、高台の公園でぼんやりとベンチに座って、月を眺めていた。
「…果林?」
懐かしい声がしたので振り返ると、
「なんで…ここに?」
この街にいるはずのない、かつて学生時代に恋人であった星
「なんでって…妹の結婚式があるから」
そういえば貴彦には妹がいて、果林は何度か会ったことがある。
「大きくなったんだね」
「そりゃもう今度の週末に挙式だからね」
貴彦は笑いながら答えた。
「変わらないな、笑うとクシャクシャになるところ」
「そういう果林だって、相変わらずミステリアスじゃん」
時が一気に学生時代に戻ってゆくような感覚に果林は包まれた。
──果林と貴彦が出会ったのは果林の女子大学の学園祭で、果林がミスコンのファイナリストとしてキャンパス内でキャンペーンをして歩いていたとき、同じゼミにいた遥の先輩の紹介で知り合ったのがきっかけであった。
当時から貴彦は、どことなく翳がある。
長い睫毛にどこか過去をまとわせたような、他のチャラチャラした学生とは、明らかに違う空気を漂わせていた。
聞けば違う大学の国文科で万葉集を専攻し、休みの日には自らCB125というクラシカルなバイクを運転して奈良まで行ったり、図書館で静かに過ごしたりしているのだという。
気になった果林は、
「ミスコンが片付いたら遊びに行きませんか?」
とアプローチをしてみた。
すると、
「自分には、あなたのようなキラキラした美しい女性は不釣り合いなような気がするけど、それでも良ければ」
と、気遣わしい言い回しをした。
果林は貴彦の控えめな、それでいて素養の深い古武士のような奥ゆかしいたたずまいに惹かれたらしかったが、貴彦はこのとき付き合っていた彼女を亡くしたばかりで、しかし果林を気遣ったのか、それを話せずにいた。
それを後に知った果林は、
「私が無神経なばかりに、貴彦を傷つけてしまっていたのかも知れない」
という後ろ暗さもあって、度々果林が他の男と寝たりするようになって、ときおり浮気をするようになった。
そのたび貴彦は怒るような愚はなかったが、
「果林、ごめんな。寂しかったんだな」
目は穏やかに笑っていたが、口元では泣いていた。
果林はそんな貴彦の複雑な気持ちを知ってか知らずか、男遊びをするようになり、次第に貴彦にあわせる顔がなくなった果林の方から離れていったのであるが、その後は貴彦が街を離れ、研究の道に進んで奈良へ引っ越した──ということまでは遥から聞いていたのである。
話を戻す。
その貴彦が戻ってきたのは昨日で、
「まぁ週末の妹の挙式と披露宴が終わったら、自分は奈良にまた帰るけど、果林はあれから幸せかい?」
貴彦の落ち着いた声を久々に聞いた。
「まぁまぁかな」
「…それなら良かった。随分寂しい思いをさせてしまっていたみたいだから」
貴彦は果林を責める様子もなかった。
しばらく二人は並んで月を眺めていたが、
「…そろそろ帰るよ。気が向いたら奈良に遊びに──」
言いかけて貴彦は、
「──いや、なんでもない。じゃあ、またどこかで」
「…待って」
果林は呼び止めた。
貴彦が振り返ると、
「貴彦はさ、いつもそうして何で私から離れていくの?」
「…それはね、果林と住む世界が違うからだよ」
思わぬ言葉に果林はぐらついた。
「果林はいつもキラキラしていて、輝いていて、周りにはいつも賑々しく友達もいる。──その点、自分は違う」
貴彦が母子家庭で、一時期は生活保護までもらっていた家で、アルバイトをして定時制の高校から大学へ行き、国文科を選んだのも単科で学費が安かった…そんな事情を果林は思い出した。
「果林はいつも笑顔で、周りには高級車に乗るような友達がいて、だから自分のような釣り合わない人間がいたら、果林がどこかで恥をかいたりする」
自分の好きな人が僅かでも辱めを受けるのは耐え難い辛苦だ──貴彦は述べてから、
「単に好きだから一緒になれば幸せなのかというと、それは違う」
内心で貴彦は果林のことを心底から想っていて、だからこそ自己を否定してでも果林のことを考えていた…ということを、果林は思い知らされた。
不器用ながら貴彦の優しい本心に触れた果林は、それまで貴彦に対して働いた数々の行為を自ら恥じ、たまらず泣き出した。
が。
「いいんだよ、もう済んだことなんだから」
誰にだって月は等しく照らすものだから──貴彦は雲の裂け目から輝き出した月を仰いだ。
「生きていれば、いいことはあるさ」
果林が泣き止むまで貴彦は寄り添ったが、
「じゃあ、またどこかで会おうね」
貴彦の乗ってきた車が坂を下り切るのを見届けてから、果林は運転して来た角目カブで、貴彦が下りた同じ坂道を下ってゆくのであった。
それきり、果林は貴彦には会わずじまいである。
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