スミレ〈秦基博〉
一目惚れ、という言葉を辞書で引くと、
──相手を一目見ただけで恋をしてしまうこと。一目見た瞬間に特定の相手に対して、夢中になる体験、もしくはその心的な機能のことを指す。
とあり、日常的に遣われている用語ではあるが、厳密な定義は難しい単語でもある──とされる。
他方で。
する側の物語は多きにあって、よくドラマや映画などにも題材として取り上げられることは多々あるが、される側の物語は存外少ない。
以下この噺の本題は、そうしたところに始まる。
さて。
天王寺
なぜなら望はその日は機嫌が悪く、険しい顔で速歩で歩いていたらしいのであるが、全くと言っていいほど覚えていないのである。
「でも私は、はっきり憶えてるよ」
桜に鷹の図柄が描かれた和柄のパーカーを着こなし、ジョッキーブーツの靴音を響かせ去って行く背中を、絵里はくっきりと目に焼き付けていた。
「だって…そんな人なかなかいないもん」
それから気になっていたらしく、いつかまた逢いたい──と願っていたところに、SNSで偶然イイネをつけてくれたのが、望と会うきっかけでもあった。
「ね、あのバイクさ…望の?」
絵里は訊いてみたくなるとすぐ質問をする。
その代わり、興味が満たされると見向きもしなくなる。
そんな絵里が望に尋ねたのは、望がデートの際に乗ってくる、水色の郵政カブのことであった。
望の郵政カブは払い下げ品の中古で、サスペンションに難があるから──というそれだけの理由で7万円という安値で買い、それを望が1年ほどかけてメンテナンスをし、走れるようにしたものである。
「一回バラして塗り直したときに、水色しか錆止めがなかった」
どうやら錆止めの塗料の色そのままらしいが、立ち上がりの強い水色は、郵政カブに似合っていた。
絵里はてっきり望をバイク屋だと思っていたが、実際の仕事は洋服をキャンバスとして絵を描いて作品として発表し、展覧会を開いたりワークショップを開いたりする変わり種の芸術家で、ニューヨークやパリで展示会を開いたこともあるという、その道ではそこそこ知られた人物でもある。
絵里がまだ片想いであった頃、望は絵里をよくピリオンシートに乗せてタンデムで海へ連れて行ったり、絵里の好きな美術館まで一緒に遠出をしたりしたが、
──全っ然酔わないんだよね。
乗り物酔いの激しい絵里が酔わなかったほどの運転の技術があり、どうやらそれですっかり望にやられてしまったようなところはあったらしい。
また。
生来手先の器用な望は、絵里にことあるごとに髪飾りやらイヤリングやらを、作ってはプレゼントするのである。
「これがね、すごい綺麗なんだ」
よく見ると絵里の誕生石のアメジストが使われたシンプルな物だが、どんなコーディネートでも似合うように計算されて作られてあったようで、絵里はそれが気に入ったのか、いつもアメジストのイヤリングをつけてデートにあらわれた。
しかし。
なぜ日ごろ一目惚れなどしない絵里が望を見てそんな気持ちが芽生えてしまったのかは、望には理解のしようもない。
当の絵里も、
──気づいたら、望が心のなかに住み着いてたんだよね。
と言い、どうしてそんなことになったのか、絵里ですら分からなかったらしい。
が。
それまでのどんな相手にすら感じなかった居心地の良さと、望と奇妙なぐらいなまで波長が合うあたり、
──きっとどこかでつながってたんだね。
珍しく望が言ったロマンチックな言葉に、絵里は何の疑問もなく首肯いた。
いつも穏やかに笑い、絵里が少しわがままを言ってもおおらかに包み込む望ではあるが、ときどき望は、ぼんやりと寂しくも悲しくもあるような、どこか絶望にも似た暗い目をすることがある。
絵里は単に望が疲れているからなのかも知れない──そう感じたのか、
「大丈夫?」
不安にかられて訊いてはみるのだが、
「あぁ、大丈夫だよ」
望はまた、いつもの穏やかな顔に戻る。
しかし。
絵里はそれだけが気になって仕方なかったようであった。
仕事のシフトの関係で一日だけ急に休みが取れた絵里は、望に連絡を入れてみた。
「午後からなら空いてるよ」
というので、少し早めにランチの食材を買って、絵里は望のアトリエに昼前に着いた。
「望、食材買ってきたよ──」
ノックをして入ると、膝を抱えた望がぼんやりと座っていた。
「望…大丈夫?」
「…絵里は心配しなくても大丈夫だよ」
そうは言うが、明らかに何らかの異変がある。
「今まで絵里に言わなかったことが一つだけあって」
真顔の望を絵里は覗き込んだ。
「…前に一回だけ、大きな病気をしててね。今はもう後遺症もないんだけど、もし絵里が泣くようなことになったらどうしようって、ときどきとんでもない恐怖にさいなまれることがあってね」
でも絵里に余計な心配をさせたくなかったらしく、
「黙ってるのは悪かったけど、それでも絵里の幸せそうな顔を見てたら言えなかった」
彫りの深い望の目からは、涙が一筋伝い落ちた。
絵里は覗き込んだ顔を近づけると、
「…ありがと」
優しくそのままふんわりとしたキスをしてから、
「こっちこそ鈍感でゴメンね。でもたまに暗い目をしてたから、何かあるのだけはわかってた」
望を優しく絵里がハグをすると、
「望に惹かれたのは、もしかしたら他の男と違って、自分に自信がなかったからかも知れないね」
絵里が見てきた男は誰もが自信を持った、裏返せば自意識の強い、下手をするとナルシストかもしれないような男ばかりであった。
ところが。
望はそんなところが微塵もなく、
──絵里さんは凄いなあ。
などと素直に口にし、作品が出来ても「完璧に仕上げるのは難しいね」などと、芸術家らしからぬ言葉を発したりもする。
しかし。
それは自分がいつどうなるか分からない恐怖と、それでいて鬱窟と傲慢の間で揺れている、自らの心の振れ幅を、絵里には悪影響を与えまいとして何とか隠し
そんな状態の望にとって唯一、息を抜いて過ごせる時間が例の郵政カブで移動をする時間であったようで、
──絵里があらわれてから、少しだけ気持ちは変わったかな。
とも言った。
「絵里がいると、不思議なぐらいに波立っていた気持ちが凪いできて、納得のいく作品が描ける」
最初は突然あらわれた絵里という存在が、望には善く作用したようで、この頃から作品も有名になり始めた。
ところが。
望が個展の打ち合わせから帰って来ると、絵里の姿がない。
望は例の郵政カブで、絵里がいそうな心当たりを片っ端から探した。
すると。
二人で来たことがあった海岸に、絵里が一人で座っていた。
「…絵里!」
「望…やっぱりわかっちゃったか」
あのね──立ち上がった絵里は切り出した。
「私みたいのなんかがいたら、望の足手まといに…」
言葉を遮るように望が絵里をきつく抱き締め、
「…頼むから、消えないでくれ」
そのまましばらく抱きしめていたが、
「絵里…一緒に帰ろう」
いなきゃ困るから──望は絵里の髪を撫でた。
「…ありがと」
一緒に帰ろう──絵里はそこで、ようやく笑顔になった。
以下、余談である。
望が絵里に支えられながら描いたのは、二羽の鳥が互いに翼を広げながら羽ばたく姿が描かれた一枚のスカジャンで、この作品がアメリカのオークションで一億近い値がついたところから、一気に作品が飛ぶように売れ始めた。
それでも。
「自分には絵里と郵政カブがあればいいから」
と言って、つましい暮らしぶりだけは変えなかった。
絵里もそこは良く出来たところがあったらしく、
──案外一目惚れって、悪くなかったんだね。
などと言い、時折タンデムで出かける姿が、界隈での名物になったほどであった。
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