カブライフ! 2─Super Cub Story 2─

英 蝶眠

青空がいっぱい〈PSY・S〉

 日本へ来たエマ・テイラーが驚いたことは多数あったのであるが、最も驚いたのは広島弁であった。


「習った日本語と違う」


 というのである。


 無理もない。


 海外の日本語学科で習うのはおよそ標準語で、方言なんぞは習わない。


 仮に広島弁で習ってしまおうものなら、


「みんなが『この世界の片隅に』とか『仁義なき戦い』とかになってしまうじゃろ?」


 後に親しくなった鷹崎たかさきしずくが、のんびりした言い回しをしたので、思わずエマは腹を抱えて笑ってしまったことがあった。


 しずくは寺町の古くからの芸州げいしゅう門徒の寺の娘で、境内には原爆で被災した桜の樹がある。


 児童劇団にいたことがあるハキハキとした受け答えのしずくと、ボストン育ちでおっとりしたエマの取り合わせは好対照で、


 ──姫と召使い。


 という陰口を叩く者もないではなかったが、己斐こいにあった同じ高校にいた頃から仲が良かったので、大して気にもならずに過ごしていた。





 今は互いに大学も出て、エマは英語を活かし英会話学校の講師となり、しずくは地元のラジオ局でパーソナリティをしている。


 社会人になっても時々一緒に行動するが、大抵はしずくが運転するC90のカスタムカブでのタンデム移動であった。


「これ、彼氏の乗ってたカブでね」


 しずくには一回り歳の離れた遠距離恋愛の彼氏があって、その彼氏がかつて自分好みにカスタマイズしたカスタムカブを、今はしずくが乗り回している。


 鮮やかなプコブルーのカスタムカブで、カットされたレッグシールドにはホンダのロゴのステッカーが貼られ、ピリオンシートにベトナムキャリアやフロントキャリアで武装され、アップマフラーまで装備されたスマートなカスタムカブなだけに、


 ──撮影に使わせてもらえませんか。


 などと頼まれたことすらある。


 いつも頼んでくるのはラジオ局に出入りをする、紫藤しとう大介という若手の映画監督で、小津安二郎に私淑し横浜の映画の専門学校を出た──というなかなか行動力のある人物でもあった。


「しずくさん、いつも助かります」


「こちらこそ、大介さんはいつも綺麗にして返してくれるので、助かります」


 その紫藤大介から、


「実は外国人のエキストラを探しているんですが、どなたか知り合いにいませんか?」


 と頼まれたのが、そもそもの始まりであった。




 しずくがエマに話を持ち掛けてみると、


「うーん」


 悩みながらも「まぁ人助けみたいなものだろうから」と、興味は示してくれた。


 しずくから簡単なコンテのテキストを渡されると、


「あ、後ろ側で英語で話している人ね?」


 そのぐらいなら訳はない。


 しかもワンシーンだけで、安いながら弁当代ぐらいではあるがギャラも出る。


「たまにはいいかも」


 エマは軽い気持ちで引き受けることにした。


 紫藤大介とは面識もあったので、


「まさかエマちゃんが来るとは思わなかったな」


 少し気恥ずかしそうにしながらも、脚本のコピーをエマに渡してから、


「ここのお好み焼き屋のシーンです」


 と指し示した。


 内容は広島の女子高校生が、スクールバンドの全国大会を目指す青春ストーリーで、溜まり場となっているお好み焼き屋でメンバーが会話をする場面である。


 するとそこで。


「あの…お願いがあるんですが」


 助監督がエマのもとへ駆けて来るなり、


「メンバーと少し話すシーンを撮りたいのですが」


 と言ってきたのである。


 エマは困惑を隠さなかったが、


「メンバーたちの高校の英語の先生という設定なので、会釈ぐらいでOKです」


 ということであったので、エマはその場で引き受けた。




 撮影が無事に終わると、


「いやぁエマちゃん、無理言ってゴメンね」


 紫藤大介はエマに申し訳なさそうな顔をした。


「いや、こっちも滅多にない貴重な体験で楽しかったです」


 確かにエキストラとはいえ、映画出演などという経験はあるものではない。


 大介はしずくに借りたカスタムカブを返す用もあったので、エマをピリオンシートに乗せタンデムで撮影のあった流川町から寺町まで乗ったのであるが、エマはふとローマの休日のベスパでオードリーが街を疾駆する、有名な映像を思い出した。


 明らかにローマではない。


 銀行の角を袋町から右へ折れ、本通を線路に沿うて走ると左手にはビルの合い間に原爆ドームがあり、紙屋町の交差点を折れ相生橋を抜け、横川の駅へ出る通りへ入るとやがて、寺が並ぶしずくの地元の寺町が見えてくる。


 折から時折小雪のちらつく寒い日で、原爆ドームに雪が降る光景を信号待ちで眺めたり、それなりにエマは小さなツーリングを楽しんでもいたらしかった。


 寺町のしずくの寺へ着くと、


「今日でカスタムカブはオールアップです」


 ガソリン代の封筒をしずくに渡すと、


「エマちゃんもオールアップしたので、小さいですが打ち上げをしませんか?」


 と言う大介の誘いもあったので、今度は市電で八丁堀まで出て、天満屋の裏手にあった大介の行きつけのお好み焼き屋まで三人で出かけた。




 お好み焼き屋の暖簾を見て、しずくは驚いた。


 例の彼氏の行きつけの店で、かつてしずくも来たことがあったからである。


「何でここを?」


 しずくが思わず問うた。


「前にしずくさんの彼氏に教えてもらってからかな」


 それから通っているのだ──というのである。


 中に入ると、店員に焼いてもらっている間に、大介はしずくの彼氏の話を語り始めた。


「まぁまさかあんなことになるとは思わなかったけど、でもせめて、形見のバイクは出演させてあげたくてね」


 アレ、まだ買って少ししか乗ってなかったし──大介によると、もともとしずくの彼氏は役者志望であったらしく、知り合ったのも横浜のアルバイト先であった。


「それで、自分が映画学校を出て拠点をどうするか考えてたときに、広島なら割と撮りやすいからって勧めてくれて」


 大介はしずくの彼氏に恩義を感じていたようで、


「だからこのぐらいのことしか恩返しは出来てないけど、せめて作品に残して、生きてた証にはしたいなって」


 どれもしずくの知らない話ばかりであった。





 帰りにエマと二人で市電に乗ると、


「大介さん…いい人だよね」


 エマが言った。


「うん」


「しずくは大介さんのこと…どう思う?」


「どうって…?」


 エマは微笑んでみせてから、


「ああいう人だったら、これからしずくが新しく前に進むのにいいのかなって」


「エマ…」


 でもね──としずくは、


「大介さんは…お兄ちゃんみたいな人かな。少なくとも異性って感じではないし」


 そういうエマはどうなの──しずくが問い返した。


「映画のことになると凄い真剣な眼差しになってね、目がキラキラしてるんだよね」


 何かを言いかけた辺りで、しずくが乗り換える十日町の電停まで着いた。


「しずく、今度また遊ぼう」


「うん」


 しずくが降りると、エマを乗せた市電は己斐の方へと消えて行った。





 何日かした休日、エマは大介を呼び出した。


「しずくのこと、どう思ってますか?」


 直接、訊いてみたのである。


「妹みたいなもんかなぁ。何しろ幸せになって欲しいし」


 大介は偽らずに答えた。


「エマちゃん、しずくさんにいい人紹介して欲しいんだけど」


「うん、分かった」


 エマは二つ返事で承諾した。


 しばらくして、エマはしずくと大介を呼び出すと、


「私が見た限り、しずくは大介さんといたほうがいいような気がする」


 といい、そこからやがてカップル成立となったのであったが、


「エマちゃんは?」


「私は…今度、東京に行くんだ」


 これにはしずくも大介も驚いた。


 理由のきっかけは大介が撮った映画で、ショートフィルムのコンテストにコンペ出品されると、エマのナチュラルな演技が注目されたからであった。


 そのため。


 エマは英会話学校の仕事をしながら、東京の系列校に移って、拠点を東京に芸能活動をすることになったのである。


「それにしずくには、大介さんがそばにいてあげたほうがいいみたいだし」


 それとなく見抜いてもいたようであった。





 そういった経緯で。


 しずくは大介と交際することとなったのであるが、


「私みたいのなんかで…いいのかな?」


「そうかな? 自分はしずくさんが幸せならいいかなって」


 大介の心の柔らかい雰囲気に触れられたような気がしたのか、しずくは少しだけ、自分の決断に自信を持つことができたようであった。


 その日。


 広島駅でエマを見送ると、駅前の駐輪場から出したカスタムカブで、しずくは大介の運転で、宇品の海までタンデムのツーリングをした。


 春先らしい陽射しのやわらかい日で、宇品港のあたりまで来ると雲のない空が高い。


「エマちゃん、大丈夫かなぁ」


 大介が心配そうにつぶやくと、


「あの子なら大丈夫だよ、きっと」


 しずくは潮風を浴び、長く美しい髪をなびかせながら答えた。


 真っ青な晴天をそのとき、一羽の名前のわからない鳥が空を切るように飛び、やがて東の空へと飛び去っていった。


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