第3話 あり得ない予兆

 ファルベン魔族帝国。一千年前に勃発した動乱の折、魔王軍が支配し大本営を置いていた南方大陸の、その残骸に建てられた多民族国家である。


 ここで言う民族とは、多岐に渡る魔族としての種別を示すものではなく、より大きな括りの話だ。千年という長い時間を経て、この国は魔族帝国を名乗りながらも、全国民のおよそ三割が人間となっている。そうなれば必然的に生じる次の世代――魔族と人間の混血という新たな世代も、数を増してきた。


 魔族帝国首都、パッヘルベルにおいてはこれが特に顕著だ。


 衰退戦争の最初期、抵抗を試みたWASPが投入したという、当時の戦略級魔法兵器。今となってはそれこそ伝説に等しい古代兵器によって吹き飛ばされたと語られる、それ以前は霊峰とまで呼ばれていたらしい巨大な山の跡地。現在、周辺より僅かに隆起しただけに過ぎない場所へ、人口四〇〇万からの大都市は息づいている。


 文字通り帝国の中心地。評議会を始めとする政府中枢はむろん、軍事から教育まで、国家が国家として機能する上で必要なあらゆる行政機関が、上空から見ると巨大な六角形を成す外壁の中に、区画分けされ収まっている。


 実を言えば、この象徴的な六角形の壁の方こそ首都そのものより遥かに新しく、建造されたのはちょうど六百年前。一見すると無防備を建国当時から晒し続けていたのは、歴史上、第二の魔王と呼ばれる存在の意向によるものだ。


 曰く、ここは来るもの拒まず、去るもの追わずでなければならない。なればこそ防壁など無粋なのだ、と。


 では、なにがしかの脅威が現れたらどうするか。当然ながら追及した当時の評議員たちへ、彼女はこう返している。


「そうなれば私が太刀を抜くまでだ」


 この言葉を発した頃、すでに魔王は政治の場を退き、象徴としての国家元首ないし外交の道具として己を規定していた。要するに、臣民を統べる存在でなく、臣民に使われるための存在だ。


 もちろん、そうは言っても救世主には違いなく、一定の発言権は常にあった。ただしこの言がそれ以上の反論を封じ込めたのは、政治的権力よりも単に武力という点での話。


 第二の魔王とされるだけあり、彼女は強かった。


 決して順風満帆でなく、それどころか衰退戦争が残した恐怖から、幾度も他国軍に侵略されかけたファルベン魔族帝国。しかし、その戦火はパッヘルベルの明かりが見えるより、ずっと手前で常に防がれたのだ。


 侵略者が現れる度、彼女は直属の守備隊を率いて奔走し、まずは対話で、そして対話が叶わなかった時、ようやく剣を手にした。前者の場合は当然として、後者の際も自軍の被害は恐ろしく少ない。


 初代ほど強力な魔法もなく、面頬を付けた不老不死なだけの華奢な女。言ってしまえばそれだけの存在だったはずの彼女は、歴史上稀に見る熟達の剣士であり、機動力に富んだ独立部隊として帝国の地を駆け回り、守り続けたのだ。


 これほどの英雄はそういない。建国から千年を迎えた現在でも、自国の民のみならず、各国要人からも信頼される。


 そんな彼女は――今。


「授業妨害とは、やってくれるものですね。さすがに困りものですよ、陛下」


「……ごめんなさい」


 パッヘルベルにある教育機関のひとつ。七歳から一八歳まで、幅広い年代の子供たちが過ごす学園区画、中等学部の一室で。


 嘴顔の教諭ことシュナーベルを前に、しゅんと項垂れた姿からは、魔王の風格どころか面影を見つけるのも難しい。


 世界を蘇らせた者。魔族の救世主。――いいや、教師に叱られている女学生の構図そのものだ。


「敬うべき君主が居眠りなど、若人の育成に役立ちますまい。反面教師などというのは結局、責任を棚上げした教育者の言い訳に過ぎないのです」


「別に教育者じゃないし……」


「ええ、それ以上です。あなたは王位に就いておられる身でありましょう、魔王陛下」


「むう……だ、だが予定を組んだのは私でないぞ!? 昨日いきなり言われて――」


「日がな一日ダラダラと過ごされては、臣下の心労推して知るべしですからな。適当な公務に当てるのは最善の処置かと」


「ぐ……っ!」


 ずばずばと容赦ない。親しまれてるのか、侮られてるか。たぶん両方だ。


「時折思うのだが……」


「はい?」


「シュナーベル。お前、私のこと嫌ってない?」


「滅相もございません」


 わざとらしく大袈裟に、教授はかぶりを振った。


「生きた伝説として語られる魔王陛下を、嫌うなどとはとんでもない。常日頃より尊敬しておりますとも。――ただし」


「た、ただし?」


「おそれながら、折に触れて歴史を精査したく思います。過分な脚色が含まれるようなので」


「やっぱり嫌ってるだろ、お前!」


 涙目で訴える魔王。魔が付こうと付くまいと、なるほどこんな王は確かに稀だ。


「だいたい、なぜ授業に参加など? 予定はともかく、言い出したのは陛下ご自身ではありませんか」


「それは! だ、だからさ……衰退戦争後の話だって言うから……じゃあ私も出てくるのかなー、って思うじゃん。最近、みんな視線がちょっと冷たいし、なんか私の扱い雑だし……た、たまにはな!? たまには子供たちから尊敬の眼差し向けられたいって思うじゃないかッ!」


「注目はされましたな。尊敬には程遠いですが」


「う、うるさい! チヤホヤされたいんだ、たまには! だいたい、お前たちは立場わかってるのか!? いつもいつもいつも! 怪物退治の時だけ人を呼びつけて! 私は魔王だぞ、これでも!」


「ご自分で仰るとは」


 涙ながらに訴える姿を、シュナーベルは不憫とは思えなかった。概ねは事実だ。衰退戦争の折、初代魔王が魔人と共に生み出し、あるいは魔人の失敗作として捨てられた種は、大半が野生化して独自の生態系を築いている。


 それらを完全に駆逐するのは不可能だ。そこで今の世界は、魔物との共生関係を選んだ。一部の種は手懐け、畜産や流通、軍事の道具として利用し、これが叶わない種のテリトリーは危険地帯として避けるようになった。


 とはいえ、増えすぎれば飢えるし、飢えれば人里にまで落ちてくる。この辺りの事情は、出自に魔力との関わりがない野生動物と同じだった。


 そういった人の手に負えない事案が発生した時、確かに魔王は自ら狩りへと赴いた。首都パッヘルベルに壁がなかった六百年前。迫り来る諸外国の軍勢を押し返した頃のように。


 ただしこの場合、彼女にとって都合の良い部分だけを切り取ってある。


「お言葉ですが、魔王陛下。立憲君主制と言えば確かに聞こえは良いものの、政策を評議会に丸投げして、ご自分はご公務もそこそこに昼寝をしていれば、自然と敬意も薄れましょう。魔物退治は、陛下に対する期待なのですよ」


「む……つまり?」


「陛下は、やはりお強い。殺される心配もない。それに剣を手にしている時だけは、相応の風格をお持ちではありませんか」


「だけとか言うな!」


 ぐぬぬ、と魔王は睨んでみるが迫力はない。威厳などもってのほかだ。


「全く、どいつもこいつも……! こっちはか弱い乙女なのだぞ! わかってるのか!?」


「ずいぶんと年増な乙女で――」


「シュナーベル!」


 自分の膝を叩いた魔王に、教授は両手を挙げて降伏を表明した。年齢の話はご法度。何しろ相手は乙女である。不老不死という性質上、肉体的には間違っていない。


「失礼、うら若き陛下。ところで、よろしいのですか?」


「良いに決まってる! 本当に若いんだからな!」


「そうではなくて、ご公務についてです、陛下」


「……? 何かあったか?」


 魔王はぽかんと小首を傾げる。半分が面頬で隠れていても、気の抜けようはありありと伝わった。


「今は青羽のターコイズ王太子殿下がいらしているのでは? 明日からの合同演習に先駆けて。そちらに居られなくて、よろしいので?」


 建国以来、幾度となく侵攻されたファルベン魔族帝国だが、現在もなお平穏とは言い難い。前述した魔物の存在もある。


 北に広がるのは、水棲の怪物と魚人種の部族社会がひしめく混沌の海。東にある森林地帯は、討伐不可能として放置されている魔物の住処であり、前述した危険地帯となる。そして南方、巨大な山脈を挟んだ向こう側に、魔族帝国と長年の武力衝突が続く神聖帝国が存在した。


 この内、かろうじて北方の魚人種に関しては、一部の氏族に限ってのみ友好関係にあるが、戦時における援軍としては期待できない。言うまでもなく、悩みの種は南方にあるもう一つの帝国だ。


 神を崇める国家と、魔によって生まれた国家。幾度かの停戦協定が結ばれこそすれ、和平への道は未だ遠い。魔王という強大な武力があってさえ、全面衝突となれば敗北の恐れがある。


 そんな非常事態に陥っていないのは、西方の大国と魔族帝国とが密接に結びついているためだ。


 青羽の王国。文明修復期と称される時期には、魔王と共に復興へ尽力した人間たちの国家。そして衰退戦争を経ても絶えることがなかった、古の王家が治める大国。


 戦乱の時代が去ってすぐ、かの王国との協力関係を結んだことこそ、この魔王にとって最大の功績と呼べただろう。それが無ければ魔族帝国は建つことすらままならず、あるいはもう一つの帝国によって滅んでいたはずだ。


「ジェレミーとは後で合流する」


 と、魔王。挙がった名は、シュナーベルの言う隣国の王子の名だ。


「昔から、あの子は良い子だった。今でもそうだ。私の不在を理由に、不平不満を零したりする、器量の小さい男じゃない。どこかの誰かと違ってな」


「狭隘な学徒風情にはなんとも。どなたのことを仰っているかわかりませんな」


「そういうとこだからな、お前!」


「ご無礼をお許しください、魔王陛下」


 教授は恭しく頭を下げたものの、まるで慇懃無礼のお手本だ。話術の上では魔王も形無しである。


「こいつぅ……! と、ともかくだ! 今頃は、士官学校の視察をしているはずだ。終わるまでには向かう」


 ふむ、とシュナーベルは嘴の下で唸った。


「ということは、先回しにしたい案件があると」


「……まあ、少し。狭隘を自称する割に、察しが良いな」


「時と場合によっては、敏くならざるを得ないのです」


 教授が言い、魔王を促した。数瞬の静寂。運動中の学生たちの喧騒が、いやに遠く聞こえる最中。ひと呼吸を置くかどうかの空白により、両者の間を流れる空気は僅かに変わった。


 今までのような気安い、言ってしまえば軽んじられているようなものではなく、王と臣下のものへ。


「シュナーベル。今回の軍事演習、お前はどう見る?」


「青羽の王国との合同演習は、通例となっております。一方で、近頃は南部の動きが慌ただしい。神聖帝国への牽制も含まれるでしょう。――これまでの尺度で測るならば」


「……」


 魔王は腕を組み、そうしてどこか虚空を見つめた。待つほどもなく、そこに答えはないと悟ったのだろう。伏せた顔に両目を閉じると、重々しく告げる。


「演習を組んだのは軍でも王国側でもない。ビーリングだ」


「……なるほど。ご懸念は評議会議長の目論見ですか」


 魔王は沈黙によって相槌とした。魔族帝国評議会、ビーリング議長。国民から選出された指導者であり、実質的にこの国の行く末を握る人物である。


「この状況で彼の名前が出るというのは、些か穏やかではありませんな。議員時代のビーリング氏は、魔族至上主義者で知られています。近頃は表向き態度を和らげたものの、腹の内はどうであるやら……」


「変わらんよ。二枚舌を学んだに過ぎん。ああいう奴は勉強が出来る。覚えることも苦ではないだろうさ。事実、ここ数年、この国の軍備は増強と拡大とが止まらない」


「とすれば、牽制には神聖帝国のみならず……青羽も含まれましょうな」


 面頬の下で魔王がため息を吐く。


「そうなると思うか、やはり」


「それで済んでくれれば、という願望です、陛下。攻め易しと判断すれば、ビーリング氏は青羽の王国へと侵攻を始めてもおかしくはない。かの王国にも魔族のコミュニティはあり、しかもその大半は貧困層なのです。奴隷解放とは、いかにも氏が好みそうな大義ではありませんか?」


「わかっている。わかっていればこそ、一個人の大義で一千年の盟約が崩れる事態は避けたいのだ」


 政治権力を手放して久しいというのに、こういう発言をしてしまうのは魔王の親心だろうか。本人は複雑な表情をするかもしれないが、老婆心と称するよりはずっといい。


「言って納得する人間ではありませんからな。……ただ、手はあります」


 一拍。薄目を開けた魔王に促され、シュナーベルは続ける。


「あなたです、魔王陛下。あなたが、再び王政を復活させれば良いのです」


「論外だ」


「なぜです?」


 ぴしゃりと一蹴した魔王へ、だが教授は引かなかった。嘴型の仮面の奥、彼の双眸には少なくない熱意が浮かぶ。


「先ほどは言葉が過ぎましたが、しかし大多数の臣民にとって、やはりあなたこそが支えであり王なのです。我々の忠誠は評議会でなく、あなたという個人にある。この国を築き、守り、導いてきたあなたに。事実、以前はあなたが政治権力を握っていた」


 ついさっき、授業で生徒たちに聞かせた歴史である。建国から最初の百年間、魔族帝国は魔王が全権を握る状態だった。


 すると、


「買いかぶりだ、シュナーベル。私には政治的な野心も展望もない。そういう方面には向かないのだ。私は死ねないというだけで、ただ一介の剣士に過ぎない。実質的に国を築き上げたのは、周りにいた友人たちだ。私は彼等の小間使いをしていただけだ。その点だけは今も変わらんな」


「失礼ながら、重箱の隅をつつくような物言いになりますが、変わらぬならば実権を握ってもよろしいかと」


「それでは駄目なのだ。それだけは駄目なのだ」


 魔王は苦々しく遮る。言い直させた憶悩は、おそらく誰とも本当の意味で共有することが出来ないものだった。


「あの百年で、私は二つのことを学んだ。ひとつ、私に統治者としての才能はない。ふたつ、統治者とは有限の存在でなければならない」


 どこか冷然と告げる様は、シュナーベルに語りかけてはいたものの、実際には魔王自身へと言い聞かせていたに違いない。


「仁君が暴君になり得ると? 陛下は、ご自分が二度目の衰退戦争を引き起こすやもしれない、そういう可能性を危惧しておられるので?」


「それもある。あるが、この場合はもっと根本的な問題だ。私のような存在は統治者になるべきではない。ひとつの治世が長すぎると、人々は統治者の姿を見誤る。九百年前の彼等がそうだった。ただ死なずに居座っているというだけで、いつしか誰もが私を王でなく神として信仰していた」


 この世界でただ一人、無限永久に時を刻み続けた存在。不老不死という彼女にとって最大の武器は、同時に彼女を人智を逸した存在へ祀り上げる。


 果たしてどれほどの孤独だろうと、シュナーベルは仮面の下で推し量ろうとした。彼女は他の誰とも同じ時間を共有しながら、他の誰もに取り残される。たとえこの先、何十年かしてシュナーベル自身が死を迎え入れたとしても、魔王だけがまだ居続けるのだ。


 あるいは隠遁者であれば、まだ救いはあったかもしれない。魔王自身が語ったように、ただ一介の剣士であったならば。千年を生きてきた彼女は、しかし国を捨ててそうなるほどの勇気もなく、ここにいる。そもそもからして目の前の人々を助けるために王座へ就いた。


 民衆の視線から眺めると、確かにその輪郭は神にも等しい。


 ――なるほど……。


 結局のところ、同じく永久へ縛りつけられた者でなければ、魔王の苦悩は推し量ることさえ不可能だ。安っぽい同情は、それこそ本当の侮辱になる。


 だからシュナーベルは声とせず、胸裏にだけ呟いた。


 ――陛下、あなたの計画はそのためですか。


 つい先日のこと。やはり今日のように尋ねてきた魔王から、嘴の教授はある相談を持ちかけられた。理論的には可能であると答えて以来、互いに話題とはしないままだ。


 しかし、それこそが魔王の望みなのだと、今ならわかる。


「あんな時代があってはならない。シュナーベル、国を動かすのが議会でないのなら、王家という血筋によって歴史を刻むべきなのだ。断じて永遠なる王などという個人ではない」


 魔王は言う。実権を手放した最大の理由がこれだ。


「彼等が求めるのなら、私は喜んで剣を取ろう。外交の道具として利用され、私兵として使い潰されよう。だが神として崇拝されるわけにはいかない。私の実務能力が足りないのもそうだし、みんながそれを見抜けず信仰したら、疑うことを知らない社会になってしまう。彼等には統治者を選出し、精査し、そして彼等自身が責任を負える国が必要だった。でなければ自分に足があることを忘れてしまうから。だからもう二度と、私が国を動かしてはならないのだ」


 じっと聞き入っていた教授は、やがて背もたれに体重を預けた。仮面の奥に苦笑が浮かぶ。


「乞われるままに使われる。……王というより」


「小間使いだ。もう言っただろう。私には、やはりそれでいい。これが私の思う、魔王としての私の在り方だ」


 そう言ってどこか寂しげに、魔王は面頬の下で微笑んだ。


「……わかりました、陛下。今後、この話題をするのはやめておきましょう」


「すまない。わがままが過ぎた」


「構いませんよ。他でもない陛下の頼みです。ただ、今少し現実の問題にも目を向けたままで。お気をつけください、陛下。ビーリング議長の腹の底は、解剖してみても本人にしかわかりませんが、陛下のご懸念が的外れとは思えません。今この国には、ターコイズ王太子殿下がいらしているのです」


 青羽の王国には、代々世継ぎが一人しか生まれない。呪いの類か偶然か、現在も定かではないが、この際それについてはいい。重要なのは議長が青羽と事を構えるつもりだとして、こちらには絶好の人質がいる点だ。


 念押しを受け、魔王は首肯し――けれどまた神妙な顔つきになる。


「どうされました?」


「いや……いや、わかっている。わかってはいるのだが……」


「よもや、いっそ流れに任せるのも悪くない、などとは――」


「いや、そうじゃない。そうではなくて……」


 シュナーベルが疑問符を浮かべ、そこで気付いた。魔王はおそらく、シュナーベルの見解を求めていたのではない。自身の考えをまとめるため、信頼できる誰かが必要だったのだ。ビーリング議長による、青羽の王国との同盟破棄ないし開戦。予期される事態と現実のものとして受け入れる準備が。


 目的は達したかに思われた。心の内に広がる靄は、この話し合いで晴れるはずだった。


「……妙な気配だ」


 やがて、ぽつりと彼女はこぼす。


「陛下?」


「懐かしいような、恐ろしいような……ビーリングが何かを仕組んでいる。これは仮定であっても空論ではない」


「同感です。まだ他に目論見があると?」


「いいや、だが……たとえば私は今まで、事が起きればビーリングが黒幕であると考えてきた。しかし奴が演出家に過ぎなかったとすれば、どうなる?」


 今度こそ、シュナーベルも困惑した。


「評議会議長を操れる存在がいると? お言葉ですが、そんな人物がいるとすれば……」


「当てはまるのは私だ。私以外にはいない。――この魔族帝国には」


 不穏が流れる。魔族帝国のトップを秘密裏に動かせる、外部の存在。他の何者かが口にしたのなら、文字通り一笑に付すところだ。


 だが今回、示唆したのは他でもない魔王である。一千年を生き、数々の戦いを生き延びてきた不老不死の存在。肉体の全盛期のまま時間の止まった彼女には、耄碌という概念がなかった。そんな彼女だからこそ、見えないものが見えている。


「懐かしいと仰いましたが、陛下には思い当たる節が?」


「……わからんな。単に考え過ぎということもあり得る。ひとまず警戒はしておこう。この演習が終わるまでは、近衛を動かす」


 とは、魔王直属の守備隊。形式的には魔族帝国軍へ属する一個連隊なのだが、事実上の独立部隊として唯一、そして長らく魔王が率いている。


 末端の兵に至るまで、魔王自らが選び抜いている最精鋭の近衛連隊。しかし最大の特徴は武力でない。彼等は往々にして諜報員としての役割を担い、領内における魔物や犯罪組織、果ては諸外国への監視と情報収集も行なっている。魔王の目であり手足だ。


 今しがたシュナーベルが二度と語るまいと誓った王政の復活も、もし彼女の気が変われば容易く実現できる。近衛連隊という、文武両道の配下を用いれば。


 むろん、そんなことはビーリングに渦巻く懸念の現実化よりずっとあり得ない。やらないと告げた言葉以上に、人柄の問題だ。この魔王に計略は似合わなかった。


「長居してしまったな。そろそろ行くとしよう」


「またいつでも、魔王陛下」


 立ち上がった彼女は見送られるまま踵を返し、


「お前も来るか? たまには古巣を眺めるのも悪くはあるまい」


「いえ、遠慮しておきます。今は別に教鞭を振るう場があるのです」


 気持ちだけ受け取り、シュナーベルはかぶりを振った。嘴顔の教授。あるいは一年草の教授とも揶揄される彼は、些か複雑な半生を送っていた。


 以前は魔族帝国軍、参謀本部に身を置いてシュナーベルだが、生来の虚弱体質が災いし、僅か一年の在籍に留まる。その後は士官学校の校長職へと就くものの、ここでもやはり一年で辞職。能力的には優秀であったため、惜しんだ者たちは一年草の教授と呼び始めた。


 そうして現在。一介の教師となったシュナーベルは、ようやく腰を落ち着けることが出来ている。


 ひょっとしたら魔王が相談役として彼を頼るのには、能力や人間性より、こうした境遇に自身を重ねているのかもしれない。高官からただの教師へ。腰かける椅子の座り心地こそ異なれど、シュナーベルの辿った軌跡は魔王が思い描くものだ。


「では仕方ない。私一人で行くとしよう」


「遅刻の言い訳に使われては、たまったものではありませんからな」


「たまには庇ってくれてもいいのだぞ」


 魔王はほくそ笑み、部屋を後にして中庭へ出ると、なんとなしに蒼天を仰いだ。ずっと高いところに飛んでいる影がいくつか。鳥にしては大きすぎる。


 影の正体は民間のグリフォン。すなわち魔物だ。鷹の翼と獅子の肉体を備えるそれは、人懐っこく忠誠心が強い。官民問わず、空の物流に重宝されていた。


「途中まで運んでもらうとするか」


「あまり品の良いものではありませんが」


「仕方ないだろう。私は小間使いに過ぎんのだから」


 なんとも都合のいい表現である。シュナーベルのため息もむべなるかな。すっかりいつもの魔王陛下だ。


「ではまたな、シュナーベル」


「お気をつけて」


 挨拶もそこそこに、魔王は軽く腰を落とした。刹那。


 たったそれだけの予備動作により、彼女は上空のグリフォンめがけて一気に跳んだ。そのまま魔物の後ろ足を掴むと、首尾よく乗り手の真後ろにつく。


 初動はスキルを用いた肉体強化。そこから魔法による風力操作を併用し、速度と針路を微調整したのだ。どちらも基本的な技術であるのだが、だからこそ彼女の実力がよくわかる。


 一挙動で数十メートルを跳んだ後、ピンポイントで飛行中のグリフォンを捕捉。それも衝撃波を生まない速度で、だ。同じことを実践できる者が、果たして何人いるだろう。居たとしても、顔色ひとつ変えず事も無げに出来るわけがない。


 乗られた方は突然現れた王に驚愕こそしたものの、散歩中の魔王がふらりと空の真っ只中に現れるのは、すでに日常茶飯事となっていた。いくつか小言を呟いた後、平謝りする彼女へげんなりして寄り道を決める。


「非凡であるのか、平凡なのか……」


 もう声の届かない遥かな地上で、一連の光景を眺めていたシュナーベルは、やはり呆れながらも人知れずに微笑んだ。


 ああいう王のもとで暮らせるというのも、これはこれで幸福なのかもしれない。胸の内にだけそう呟くと、彼は自室へ向けて歩いて行った。今日はまだ、もう一時間だけ授業がある。

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