第14話 沈む
第五大学都市の南西端、大学附属病院へ車を走らせる。たいして時間はかからないが、デューンは運転しながら堪えきれず泣いていた。
「近所だからって油断しないでね。しっかり運転してよ」
後部座席から、レイヤの手を撫でるグリンが心配そうに声をかける。
〈こいつは小さい頃泣き虫ボウズだったけど、大きくなってから泣くのを見るのはおばあちゃんのお葬式以来だ〉
成人した男が泣くときは、こんなふうに重く、苦悩に満ちた泣き方をするのだな。
レイヤの異変にデューンたちが気づくきっかけとなったのは、車の運転だった。
もともとあまり運転が上手いほうではなくて、一生懸命がんばって車庫入れしても、真っ直ぐに入らない。カーポートの車がご愛敬な角度で停めてあったら、
『あー、かあちゃんが車でどっか行って来たのだな』
と思っていた。
レイヤも、自分がなかなかどんくさいことがわかっていたから、無茶な運転はしなかったし、ゴールド免許だった。
それが、ある時、バンパーに派手な擦り傷を付けて帰ってきた。しかも、前だ。
『どこをどう走ったらこんなところにこのような前衛模様をつけられるのだ?』
グル・クリュソワが問い正しても、レイヤは記憶にないという。
それから数日も経たないうちに、今度は後ろだ。カーポートの車止めを乗り越えて、花壇に突っ込んでしまった。
その時はさすがにグルもヤバいと感じ、レイヤの様子を気にかけるようになった。まもなく、レイヤが運転しないよう、キーを隠した。
慣れているはずの呪文を間違える。モノを片付ける場所がおかしい。同じことを何度も聞く・・・。
坂を転げ落ちるような勢いで、レイヤの認知症的な症状が顕著になっていき、ついに排泄の粗相までしてしまう。
グリンとデューンが両脇からレイヤを連行するような格好で、附属病院の専門科を受診した。
「とりあえず検査をしましょう」
と、医師(呪医じゃなくて普通の医者)は言葉こそ悠長だったが、即入院だ。検査入院というやつだ。
精密検査の結果は、予想通りだった。
グリンは自分にできるあらゆる
レイヤの変化に一番動揺していたのがグリンだ。母と娘は心理的距離が近い分、受け容れるのが辛いのだろう。そのうちに、子育てのあれこれを言い訳に介護から逃げるようになる。
螺旋状に落ちていきながら正気と狂気の間を行き来するレイヤの精神は、〈まだらボケ〉の状態だった。
やがて、正気側へ精神が振れるたび、レイヤは、
『尊厳死カプセルで死なせろ』
と言うようになってきた。懇願するようにそう言うレイヤは、その瞬間、健康な時と変わらない表情になるのが、気味が悪いくらいだ。
若年性認知症なんか初めからなかったみたいに、元のレイヤの姿と言葉で、
『尊厳死カプセルの治験を受けたい』
と言うものだから、グルのほうが困惑する。治ったのかと錯覚しそうになるが、次の瞬間には、辻褄の合わない言動へ戻ってしまう。
レイヤの魂が、死を望むというより、底の知れない深みへ向かってぐるぐると落ちていきながら、細い蜘蛛の糸の先に見えて消えかかっている尊厳を必死に求めているのだとグルは思う。そうだとすれば、いまのレイヤには〈尊厳死カプセル〉は魂の命綱なのだ。
デューンにとっても辛いことだった。身体的には、戸惑いながらも、必要な介護をすることができるし、同じことを何度も聞かれたら何度でも答えるし、そのことでイラつくわけでもない。けれど、ふと、レイヤの人格が壊れていくように感じるとき、デューンの魂の一部が足場を失くしたようにグラグラする。
母親である前にレイヤは呪術師だ。プロフェッションを持つ大人として、デューンの意識の中では対象化できていたはずなのに、母という人格の中から未だ乳離れできていないのかもしれない。
『もう完成してるよね。臨床試験が必要でしょ? だったら私を使いなさいよ。生きてる人間を使わないと実験にならないんでしょ?』
的を射たようにも聞こえる理屈をちらつかせて迫ってくるのが怖い。
実際にはまだまだ臨床試験の段階ではない。その前の薬理関係の試験すら始まっていない。人間の心に作用する薬物が関わる問題であるゆえ、乗り越えるべき高い壁が聳えているのだ。永遠に乗り越えられない壁かもしれない。グルが研究者人生をかけて示したいことは、ひょっとすると〈尊厳死カプセルの実現は不可能〉という結論なのではないか、と思うことすらある。
錬金術師の免許を取った時点で、冠婚葬祭すなわちイニシエーションに必要な小道具を、物理的にも象徴的にも製造する資格を得ている。なにも〈尊厳死カプセル〉なんか目指さなくても、社会の中で穏やかに、淡々と、仕事を続けていくことだってできるのに、なぜ自分はこんなプロジェクトに加わっているのだろう?
母の認知症と父の人生と自分の進路の間で、デューンの頭もぐるぐると螺旋を描いて沈み込んでいく。
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