第21話 偽装善人
夢独特のピンボケしたような境界の曖昧な景色に、懐かしい思い出が浮かんでくる。声が先に響き、その正体はうつらうつらと輪郭を得る。
『誠実であれ鳴乍。篤実であれ。高潔であれ。慈悲と慈愛によって他者と接するのだ』
父は何度でも繰り返す。
『僕たちは他人よりよほど完璧でなければならない。誰にも文句を言わせないように。誰にも付け入られないように』
優しい言葉をかけられたことはない。世間的には厳しい父親なのかもしれない。だが
『決して、後ろ指を差されるようなことをしてはいけない。僕らは祖先が積み上げた誇りと負債を永遠に抱えていかねばならないのだから』
耳が痛くなるくらい聞かされて、けれど耳をふさがなかったのは、それこそ誠実でない行為だと幼いながらに理解したから。
親戚の人間も一様に、父と同じようなことを言う。皆それだけ家のことで苦労してきたということなのだろう。
外から嫁入りしてきた母だけは実感もないようで、
『みんな鳴乍に難しいことばかり言うわねぇ。そんなにたくさん、応えようとしなくていいのよ? お母さんが鳴乍に守って欲しいのはたった一つ。誰かが目の前で苦しんでるときに、笑っていられるような人間にならないでほしいってこと』
娘の頭を撫でながらそう笑う。しかし、
(それが一番むずかしいのよ、母上。
だって、苦しんでいる人を見るのは、とっても楽しい。その顔をもっと苦痛に歪ませたいって──)
そんな自分の本心に
別に無理はしていない。ただちょっと羨ましいだけ。自分のしたいように生きている彼のような人間が、妬ましいだけ。
(
始めて会った時のことを彼は覚えていなかった。床下から生えてきた手に出しすぎたハンドクリームを分け与えた程度の出来事だから、忘れられてしまっても仕方ない。
だからきちんと顔を合わせたのは、
少し話して分かった。
そんな、
(──私ははじめ、この感情を恋なのだと思った)
目がそらせない。顔を見れば胸が高鳴る。話しかける理由をいつも探して、笑みが交わればそれだけで指先がしびれる。
その症状は話に聴く『初恋』というものに酷似していた。
だからそれなりに勇気を振り絞って告白したのだ。
彼は予想外にあっさりとOKしてくれた。予想外だったのは、
『ええっと、恋人同士は手を繋ぐもんなんだったかあ? なぜえ? なんのために? いつ繋げばいいんだあ? くそおっ、教えてくれウィキペディア先生!』
『そこはせめて知恵袋先輩に頼まない……? くふふっ』
『わっ、笑ってんじゃねえー! ちくしょおっ、荷物お持ちいたしますよお!? え、これも違う?』
……否。慣れていないという言葉だけでは済ませられないほど、
他人に優しくし慣れないせいか加減が分からないようで、
そんな
(もっと私に必死になって。もっと私で苦しんで、もっと私で、もっともっともっと────溺れ死ぬくらい私でいっぱいになってくれないかしら)
ついに浮かんだそんな願望を、
こんな歪んだ感情は恋じゃない。
恋であってはいけない。思ってはいけない。だって、恋っていうのはもっと輝いていて、純粋で、お互が幸せになれるような、そういう感情のはずだ。相手を一方的に不幸にするものじゃない。
このままじゃ自分はいつか、この手で彼を苦しめようとするかもしれない。
それは駄目だと直感した。背筋を這って全身を震わせる、家の教えを守れないという恐怖。だがそれ以上に恐ろしいのは……。
好きな人を不幸にして喜ぶような自分が、
こうして
『どうやら告白したのは間違いだったみたい』と言って。
言葉の通りだった。初めから告白なんかしなければ、自分のこんな汚い一面を知ることもなかったのだ。
だが別れたあとも
そうして思いついた。
きっと
どれだけ消そうとしても浮き出て来る自分の悪癖が、性癖にぴったりの少年を見つけてうずいたに違いない。
初めから恋じゃなかったのだ。
一緒にいたいと思ってしまうのは、単純に彼が面白いから。
ときめきだと思っていた感情はぜんぶ嗜虐心だし、
種を明かしてしまえばそんなものだ。
だったら友達でいればいい。離れるのだけはどうしても耐えられなかったけれど、せめて友達でいい。友達なら恋人じゃないから、その不幸に微笑んでしまってもまだ許されると思う。
だから
『よお鳴乍』
恋じゃないから、名を呼ばれて胸がくすぐったくなるのも、すぐ慣れる。すぐ治る。
自分の理論が破綻していることから、
◇ ◆ ◇
意識が曖昧から浮上する。呼ばれた気がしてふと目を開けると、目の前に夢で見たのと同じ顔があった。
「おっ、目え覚めたか。気分はどうだあ?」
「……悪夢に
「オレ出演してたんかあ。夢のオレが出ずっぱりですまん。ギャラの明細はあとで発行しとくなあ」
「ええと、現状説明お願い」
上半身を起こして
なぜ自分が保健室で寝ていたのか。記憶が不確かで経緯が分からない。
「硬球が頭にヒットして気絶したんだよお。救急車……は
説明を終えて、
「おらテメエら!」
そこには、
「「すっ、すみませんでしたー!!」」
ずっとその態勢で拘束されていたのか、半べそかきながら頭を下げる。そんな二人を
「コイツら球技用ネットのねえ場所でキャッチボールしてたんだよ。校則で禁止されてたよなあ? なんか言ってやれ生徒会役員」
「そう。危ないから、今度から気を付けて。学園の決まりは守るのよ? 分からないことはなんでも生徒会に訊いてくれていいから」
安心を誘う微笑みを向ける。男子二人の顔をパッと明るくなった。
「「はいっ!! ありがとうございます!」」
「さすが慈愛の女神なんて呼ばれてる人!」
「もしや学園一の良心なのでは!?」
「マジ怖かった。助かりました!」
「もうしません!」
男子たちがまくし立てる。
二人は何度も頭を下げながら保健室を出て行った。
無言で見送った
「お前、それだけかよ」
抑えた声に苛立ちが濃く
「他に何かある?」
「今回は目え覚めたからよかったがなあ、当たり所悪かったら死んでんだぞ? もおちょい怒るかなんかしろよ」
「怒るのはあなたたちが散々やったのでしょう。あんなに怯えて、彼らは十分反省してたじゃない。私が追い打ちかけたって彼らのためにならない──」
「あいつらのことじゃなくてお前のことだよ。お前がそれで満足すんのかってえ聞いてんだ」
偽証を許さない視線が
「するよ。貴方の信条は『情けは人の為ならず』なのでしょう? そうよね。私も似たようなもの。私は私を嫌いになりたくないから、自分を好きでいたいから、こういう自分であり続けるの。全部、自分のためよ」
「………………そおかよ」
呟きは小さいながらも突き放す調子ではなかった。まだ納得いっていない顔だが、どうにか飲み込んでくれたようだ。幼い子供がすねたような表情に
「そうよ。だから
「んなことしねえよ。お前はただの友達なんだから。今のはオレがイラついたから怒っただけだっつうのお」
「うん。いつまでも、そういう
願いを込めて笑いかける。すると
突然どうしたのだろうか。まるで緩む頬を無理やり引き締めているようだ。
話がひと段落したからか、カーテンに隠れていた人物が顔を出す。
「あの、ほ、本当に大丈夫? 頭の怪我は、あ、あとから響く、響き、ます」
吃音混じりの声の主は、気絶する前に見た少年だった。
背丈はコンパクトで、目じりには常に怯えが漂っている。髪を頭の形に切り揃えているのがお坊ちゃんの様相を呈していた。制服のサイズが合っていないのかシャツの
「君は……たしか
「く、
「ごめんなさいね、認識が……」
「にん、認識?」
意味を掴みかねたようで
そのタイミングでちょうど保険医が入ってきた。
「
「はい。すぐ行きます」
「
「ありがとうね、
呼ばれた
必要以上に心配しても意味ないだろう。
「あーっもうオレらも今日は帰ろうぜえ」
「あ、うん。あの……」
「ああ?」
「ぇうっ、ぼ、僕はてつっ、手伝いをしてもいいのかな」
「おう、役立ってもらうわ。明日からよろしくなあ」
「! うん!」
心底ホッとした表情はどこか過剰にも思え、
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