第3話

 その日はたまたま早番だった莉子と待ち合わせて向かったのは、札幌駅の裏手にある居酒屋だった。今更我が家に帰る気などさらさらなくなった光輝は、機種変更を済ませたあと、早々に駅のそばにあるビジネスホテルを予約していた。荷物を全部放り出して、財布と、買ったばかりでピカピカのスマートフォンだけを持ってホテルを出てきた。


 待ち合わせた札幌駅の東改札前に現れた莉子は、私服に着替えていた。襟付シャツに、目の潰れるようなキツい赤色のベストという制服を着ていたときと違い、グレーのマフラーにベージュのピーコートを合わせた、やわらかい色合いだった。スカートからは黒タイツに包まれた長い脚がのびている。理香のそれよりも美しく映って、光輝は無意識に頭を振った。



 とりあえず、サッポロクラシックで乾杯した。莉子はうまそうに黄金色のビールを喉に流し込む。



「やー、ありがとね。おかげで今月のノルマも行ったわ」

「そりゃ別にいいけど、本当にいいのか。メシ奢ってもらうなんて」

「かまいませんことよ。今月って、今週の木曜で終わるでしょ。残りは平日しかないから、半ば諦めてたんだよねえ」

「銀行辞めても、結局数字に追われてるんだな。松永は」

「ま、おまんま食べるためには仕方ないよね。生きていかないとさ」



 莉子はそれほど深く考えて言葉を発しているふうでもなかったが、不思議と光輝の胸の中には、その言葉が、郵便ポストに封筒を落とした時のように、ストンと乾いた音を立てて落ちていった。



「てか、水原くんはいいの。家でごはん食べなくて」

「……ああ、まあ」

「なにさ、歯切れ悪いなあ。なんかあったなら言ってごらんなさい」

「ノルマが達成できたと思ったら遠慮がねえな、おまえ」

「ほらほら。お姉ちゃんに話してごらんよ。次はどこの店に行かされることになったって? 斜里しゃり? 根室ねむろ? 稚内わっかない?」



 他人事だと思って、ずいぶん愉快そうに語るものだ。



「異動の方が、どれだけマシだったかわからんわ」



 嘆息して、光輝は事の顛末を莉子に語った。テーブルの上に置かれた、買ったばかりのスマートフォンの銀色が、ダウンライトに反射して、悲しいほどにきらきらと光っていた。



「なるほどねえ。だから携帯、替えに来たってわけ」



 ふうん、と莉子は大袈裟にうなってみせた。一気に話し終えた光輝の喉は、砂漠のように渇き切っていた。クラシックの入ったジョッキを空ける。それを見た莉子が、しれっとテーブルのタブレットでおかわりを注文していた。



「そりゃ確かに、異動の方がマシだったろうねえ。しかも確か、大学からずっと付き合ってたって言ってたっけ。相手の男に見覚えとか、ないの」



 首を振った。同時に個室の障子が開き、ジョッキまでキンキンに冷えたクラシックが運ばれてくる。莉子がジョッキを片手に、目を閉じて言った。



「そっか。……まあ、あれよ。人の心に手綱はつけられないし、旦那の留守に他の男とヨロシクやるような女だよ。水原くんがメソメソする必要なんかないでしょ」

「他人の嫁に対して随分と辛辣だな、おまえ」

「あたしにそんなこと言うくらいなら、家に取って返して浮気現場でも押さえれば? できるなら、の話だけど」

「……」

「ぐだぐだ湿っぽいこと言ってないで、飲みたまえよ、悩める子羊ちゃん。あたしはいくらでも付き合ってあげるからさ」



 ゴン、と鈍い音がして、ジョッキがぶつかりあった。

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