ドラマの先生は幻想である。

栗堂

第1話

私は世代的な意味では金八先生というシリーズはドハマりしてるはずの世代です。

しかし、アニメなどにうつつを抜かしたオタクであったせいか、まともにシリーズを通して観た経験がなく。また、魅力をイマイチ理解できない作品でもありました。

そんな中で、ふとその原因とも言える自身の実体験に気付きまして、その事を書いておきたいと思います。



誰でも人生の中で「先生」と呼ばれる人と関わりを持った事があると思います。

最終学歴が高校の自分であっても小中高校と「先生」と接してきました。その中で人生の師とも言える人との出会いはありません。

様々な世界で成功者となった人が人生の恩師と言える人がいたりしますが、それ以上の多くの人は恩師と言える人とは出会ってはいないのではないのでしょうか?

本当に「先生」がリッパな人ばかりなら、世の中もっとマシなモンだろう、というのが持論です。


自分の中学生時代の担任が金八先生みたいに人生について大切にすべき事を延々と語る先生で、それが自分の人生に大きなマイナスを与えたのだな、というのが結論。

金八先生のように、人生の転機とも言えるところで人生論を語ってくれるならよかったのでしょう。

生徒が人生に迷ったとき、思春期の揺れ動くトキ、五里霧中の行く先を示すようなタイミングであったなら。

それができるからこそ、金八先生は理想の「先生」であり、それができないなら「先生」と呼ばれるべきではない、だだの自己チューであると。


人生論を語る先生をナゼ非難しているのか?

ソコには生徒に対する「愛」が全く感じられなかったから。中学生に「コイツ目の前の生徒がどう思ってるかみえてないな」と気付かせるほど、自分に酔って、酔いしれて演説をかますだけの人生論なんて、どこに価値がありますか?

それも通常の授業の内容には一切触れず、ただ話したいだけ話し、休憩時間もぶっ続けて話す、そんな授業がまともなものだと?

この担任、美術の担当で、長時間作業のため3時限続けてある美術の授業全てを自分の演説にあて、1日の最後のホームルームはショートホームルームの日であってもロングホームルームと同じ時間話し、ちょっとでも聞いている態度の悪い生徒がいると最初から話し直す。

とどめに話し方がまったく面白くもなく、引き込まれるような話術もなく、退屈極まりない最悪なものでした。

こんな人間から学ぶ事なんかできるハズもなく。とにかく、ムダな時間を過ごす苦痛に耐えた一年。

下手の横好きであった絵も描けず鬱くつとした日々は、絵描く楽しさとその基礎となる部分を徹底的にダメにしてくれました。

その翌年には担任からははずれはしましたが国語の担当となり、別クラスとは授業内容の進捗が解離し過ぎて、まったく別のテスト内容という屈辱的経験もしました。当然この時、日本語の基礎もメタメタに、、、

美術はともかく、国語の授業であっても人生論語って、教科書の内容ガン無視というのは、なんで教師やれるのか疑問符だらけでした。

さらにこんな先生が教育委員会での評価は高いらしく急逝した他校の教頭の代わりに教頭先生として栄転していったという、、、

本当に日本の教師の世界って何だろうと思った出来事です。

これが小説のネタでも他人の噂話でもなく実体験した話なんです。



恩師と言える人はいないけど、恨む対象はいるという事に、自分のネガティブ思考を残念に思うのです。


そして、ドラマにおける理想の先生という者に思いを馳せる。

貴方は幻想であるから素晴らしいのだと、現実世界で毎日接する存在としてはノーサンキューだと。

暑苦しく退屈な存在なんて週イチの一時間枠がちょうど良い。

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ドラマの先生は幻想である。 栗堂 @marondoh

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