第十章

第1話

 六月も下旬になったこの日、私は侑希と図書館に来ていた。

 夏休み前には一学期の期末試験がある。二年生になってコース別授業になってからの初めての期末試験だから、なんとかいい点を取りたいと思う。


 私は隣に座る侑希を窺い見た。


 自分ひとりではすぐに集中力が切れてしまうけれど、今まで侑希がいてくれたから頑張れた。

 解けなかった問題が解けたときに「よくできました」と、まるで小学生にでも言うようににこりと表情を綻ばせる仕草が好きだ。きっと、小学生の妹に教えるのと同じ感覚なのだろうなと思う。


 茶色の綺麗な髪が額にかかり、問題集を見るために伏せた目を縁取る長い睫毛が揺れている。


(相変わらず綺麗な顔だなぁ。)


 高い鼻の付け根とか、真っ白な肌とか、本当に羨ましい。


「雫、違うよ。ここは、mとnに内分する点だから──」


 いつものように数学の問題に詰まっていると、シャープペンシルが動いていないことに気付いた侑希がすかさず説明してくれる。

 不意に近くなる距離に、胸がドキンと跳ねた。その距離感が恥ずかしくて、思わず体を反らせてしまう。


「どうしたの?」


 急に不自然に距離を取ろうとした私を、侑希が困惑気味に見つめる。


「え? なんでもない」

「そう? じゃあ──」


 慌てて表情を取り繕い、体勢を元に戻す。侑希は怪訝な表情をしたものの、すぐに気を取り直して説明を再開した。


 一度好きだと自覚すると、今までどうやって接してきたのかがわからなくなる。

 隣に座る侑希の一挙手一投足が気になって、息をするのも忘れそうになる。


 よく今まで普通に勉強できていたものだと、自分の神経の図太さに半ば呆れてしまう。

 本当に、みんなどうやってこの気持ちを落ち着けるのだろうかと、不思議でならない。


 説明を終えた侑希は、体を正面に戻すと目の前の問題集をパタンと閉じた。


「今日、終わりにしようか?」

「え?」

「なんか雫、集中してないじゃん」

「う、うん」


 集中できていないのは紛れもない事実で、言い返す余地もない。俯く私の隣で、侑希はスマホを見て時間を確認した。


「まだ七時前か……」


 小さく呟く声が聞こえた。ここに来たのが六時頃なので、一時間も経っていない。自分の不甲斐なさを指摘されているようで耳が痛い。

 侑希が机に広がっている教科書やノートをしまい始めたのを見て、私も慌てて片付け始めた。


「ごめん」

「いいよ。そんな日もあるよな」


 侑希は笑ってそう言うと、鞄を肩にかける。帰り際、図書館の入り口の掲示板を見ると花火大会のお報せが出ていた。


「今年は晴れるといいね」

「あ、もうそんな季節かー」


 私に釣られるようにそのお報せを見た侑希が、誰に言うでもなく呟く。

 去年、最初にここに来た頃にもこのお報せが出ていた。もう、この不思議な関係が始まって一年が経とうとしているということだ。


「雫。今日この後まだ時間は平気?」

「今日? 平気だけど」


 普段、私達はさつき台図書館の閉館時間である夜の八時まで勉強してから帰る。今はまだ七時だから、時間は大丈夫だ。


(でも、なぜそんなことを聞くんだろう?)


 不思議に思って侑希を見上げた。


「小学校、行ってみない?」

「小学校?」

「うん。今ちょうどビオトープで飼っている蛍が見られるって杏奈あんなが言っていたんだ」

「え? 本当? 行きたい」


 杏奈とは、小学六年生の侑希の妹の名前だ。

 私と侑希の通っていた小学校には、校舎の裏手に立派なビオトープがあった。そこで人工的に蛍を飼っていて、毎年六月頃になるとふわりふわりと幻想的に光が飛び交う景色が見られる。

 私も小学生の頃は毎年見に行っていた。



 私達はその足で小学校に向かう。

 久しぶりに訪れる小学校の校門は、通っていたころとなんら変わらない佇まいだった。


「わあ、なつかしい!」

「全然来てない?」

「来てないよ。侑くんは来るの?」

「うん。杏奈の運動会とか」

「そっか」


 蛍の観覧をする在校生や近隣の住人のために、夜だけれども小学校の校門は開放されていた。

 侑希とお喋りしながらも、四年ぶりに訪れる小学校に懐かしさがこみ上げる。近所なのだけれど、卒業してしまうと全く行かなくなった。


 人の流れに乗って校庭を抜け、校舎の裏手へと向かう。多くの人が集まっているのか、辺りは少しさざめいていた。


「あそこ、光った」


 興奮したような子供の声が聞こえて目を向けると、黄色の光がふわりと動くのが見えた。よく目を凝らすと、他の場所でもチラホラと光っている。数は少ないけれど、真っ暗な中に浮かぶ優しい光はとても美しく思わず見入ってしまう。


「昔さ、蛍に興奮してビオトープに落ちた男子がいたよね?」

「いたいた。あれ誰だっけ? 確か──」


 蛍を見ながら、昔話に花が咲く。あれは確か、小学校の高学年のときだった。クラスのみんなで待ち合わせして蛍を見に来て、そのうちの一人が興奮してビオトープの水場に滑り落ちたのだ。

 ビオトープの通路は人ひとりしか通れないくらい狭い。

 真っ暗だったから、大騒ぎになったのを覚えている。


「雫、落ちるなよ」

「落ちないよ」


(小学生男子じゃあるまいし)


 そう思っていた矢先、足元の石に躓いて転びそうになる。


「わっ」


 少しよろめいた私に気が付いた侑希は、後ろを振り返った。


「ほら、言わんこっちゃない」


 薄暗い中、こちらに手が差し出されたのがわかった。


「え? いい! 大丈夫です」


 手を取られそうになり、私は咄嗟に両手を自分の胸の前で握りしめた。

 気恥ずかしさから、意味もなく言葉遣いまで丁寧語になってしまう。結果、触れられた手を振り払うような格好になってしまった。


「ん。じゃあ、気を付けて」


 侑希はそれ以上しつこくすることもなく、手を引っ込めるとゆっくりとビオトープの出口へと歩き始める。


(ちょっと惜しいことしたかな……。)


 そんな考えがふと脳裏を過る。私は慌ててぶんぶんと頭を左右に振った。


(な、なに考えているの!)


 侑希はただの幼なじみで、好きな子がいる。私はただの、相談相手。

 とても近いけれど、これ以上は近づけない存在。

 だから、これ以上を望んじゃだめだ。


 そう考えたら、急に寂しくなって、目の前の背中がとても遠く感じた。



   ◇ ◇ ◇



 その日の晩、ふと人の気配を感じて目を覚ました。

 足元を見ると、いつぞやのようにさくらがいて、こちらを虹色の瞳で見つめていた。


「雫よ。縁結びの手伝いじゃ。また、ちょっと話してきてくれ」


 にこりと笑うさくらに、返す言葉が出てこない。手伝いとは、すなわち侑希の縁結びの手伝いのことだろうか。


 実は、数日前から悩んでいたことがある。


(侑くんの縁結びの手伝い、もうやめたい。)


 好きな子の話をするときの嬉しそうな侑希の顔を見るたびに、胸が引き裂かれるような気持ちになる。

 正直、もうこれ以上は辛かった。


「私……」


 ──私、もう、やめたい。


 そう言おうとしたけれど、その前に視界がぐにゃりと歪む。


(またどこかに移動する!)


 そう思った私は、きつく目を閉じた。

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