第3話

 

 体育祭でさすがに皆疲れたのか、今日は教室に残って何かをする人は誰もいなかった。


 一人残された教室から窓の外を覗くと、校庭を取り囲むようにたくさん設営されていたテントも殆どが撤去されてなくなっている。もうすぐ片付けも終わるだろう。


 端っこでは、今日の競技に使った道具の数を確認しているのだろうか。ノートのようなものを片手に道具を弄っている生徒が何人かいるのも見えた。その中に侑希がいるのが見えて、私は窓際に立ってその様子を見つめた。

 侑希はボールを片手に持って、その場にいる女子生徒と話をしているようだった。


(たくさんの人から格好よかったって言われたって、言っていたな。)


 侑希は綺麗な顔をしているから『格好いい』って女子に褒められるのなんて日常茶飯事だ。けれど、それを聞いたとき、一体誰に格好いいって言われたのだろうかと、もやもやが広がるのを感じた。


 そのまま窓の下を見下ろしていると、不意に背後のドアがガラッと開く気配がした。


「あれ?」


 声がして振り返ると、久保田くんがいた。


「原田さん、まだ帰ってなかったんだ」

「うん。久保田くんは、片づけの手伝い?」

「うん、そう」


 久保田くんはそう言いながら、自分の席の鞄を開いた。


「今日、最後のリレー凄かったね」


 声をかけると、久保田くんが顔を上げてこちらを向く。


「アンカーで最後にひとり抜いて、格好よかったよ」

「え? 格好よかった?」

「うん」

「ありがとう」


 久保田くんは照れたように頬を掻き、嬉しそうに笑う。傾いてきた太陽が室内に差し込み、二人きりの教室全体をオレンジ色に染めていた。


「じゃあ、褒められたついでにひとつだけ言ってもいい?」


 しばらく沈黙していた久保田くんが、口を開く。


「うん?」

「原田さんのことが好きです。付き合って下さい」 

「え?」


 微笑んで、こちらを見下ろす久保田くんを見て、私は呆然とした。


(好き? 私を? 付き合う?)


 今まで言われたことのない台詞に、頭が混乱するのを感じた。


 久保田くんは片手を差し出し、こちらを見つめている。私はその手を取ることも、叩くこともできないまま、ただ見つめ返した。緊張しているのか、久保田くんの顔が少しだけ強張って見える。


 さくらに、素敵な恋をしてみたいと願った。そして、男の子が自分を好きだと告白してきた。


 願っていたシチュエーションなのに、どうしてだろう。

 こんな状況で、脳裏に浮かんだのは侑希の顔だった。


 いつもからかうようなことばかり言ってくるくせに、私のことをよく見ていて、とても優しくて、格好よくて、スポーツができて、勉強もできて……──憎らしいくらいまっすぐに、他の誰かさんが大好きな幼なじみ。


「ご、ごめんなさい……」


 掠れる声を絞り出した瞬間に、久保田くんの顔に落胆の表情が浮かぶ。

 けれど、すぐに手を引き、緩く拳を握ると、少し寂しそうににこっと笑った。


「いいよ。こればっかりは仕方がない」

「私……」


 次ぐ言葉が出てこない。でも、なぜかまた脳裏に、こっちを見て笑顔で『よう、雫!』と呼びかけてくる侑希の顔が浮かんだ。


(──ああ、そっか……。)


 色んな事が、ストンと得心した。

 なんで侑希が女の子といるともやもやするのかも、お花見のときにあんなにイライラしたのかも、些細な気遣いが嬉しかったのかも、全部全部、すんなりと腑に落ちる。そして、自分の中に落ちていた欠片が組み上がり、輪郭を顕にしてゆく。


 いつからだろう。自分でも気づかないうちに、自分はとっくのとうに落ちていたのだ。


「──私ね、好きな人がいるの」


 自然と、そんな台詞が口から出た。

 その言葉に、久保田くんはじっとこちらを見つめたまま少し首を傾げる。


「それって……」


 何かを言いかけたが、思い直すようにゆるゆると首を振った。


「わかった。断られたけれど、ちゃんと言えてよかった。これからも普通に接してくれたら、嬉しいな」

「うん」

「あーあ。今日はいいところ見せられたから、もしかしたらいけるかなって思っていたんだけど」


 久保田くんが天井を仰ぎ、ちえっと呟く。


「ごめんなさい」

「謝らないでよ。原田さんはその人と、うまくいくといいね」

「……うん」


 最後の「うん」は、ほとんど声にならなかった。

 侑希は少なくとも去年の夏から一年近く、どこかの誰かに恋をしている。好きな子と上手く言っているかと聞くと、少し困ったように、けれど嬉しそうにはにかむ侑希の顔が脳裏に浮かぶ。


 目の奥がツーンと熱くなる。

 恋に落ちたことを自覚した記念日は、初めての失恋の日になった。



    ◇ ◇ ◇



 ──恋心ってね、自分ではどうにもならないものなんだよ。


 そんな台詞はどこかで聞いたことがある気がするけれど、どこで聞いたのだったっけ?

 恋愛小説、ドラマ、それとも少女漫画だったかな? 思い出せそうなのに、なかなか思い出せない。

 けれど、この十七年弱の人生において今ほどその台詞が身に染みたことは、かつて存在しなかったことだけは断言できる。


 ふと窓の外に目を向ければ、しとしとと雨が降り注いでいた。細かい霧状の粒子はガラス窓に音もなくぶつかり、暫くすると縦の線を描いて滴り落ちてゆく。

 ここ数日は曇りや雨が続いているし、もうそろそろ梅雨入りが近いのかもしれない。濡れたガラスと空中の水滴で、いつもの景色が歪んで見える。


 まるで自分の歪んだ気持ちを表しているみたい、なんて思ってしまったからもう末期。この雨は涙ってことかな?


(あ、まずい。そんなことを考えたら、本当に泣いちゃいそう。)


 私はぐっと唇を引き結ぶと、レースカーテンを引こうと立ち上がった。


 窓際に立つと否が応でも目に入ってしまうのは隣のお家、倉沢邸。少しだけ見える二階の窓の奥に電気が灯っているのがわかり、「あっ、侑くんいるのかな……」なんて考えた自分に驚愕する。


(これじゃあまるで、ストーカーじゃないか!)


 ジャッと大きな音を立ててカーテンを引いたのは、カーテンの幕引きでこの陰鬱な気持ちをシャットダウンしたかったから。

 ゲームみたいに全部リセットで最初からやり直しができればいいのにね。そうもいかないのが人生なのだから、なかなか難しい。




 あの体育祭の日から、二週間ほどが過ぎた。

 あの日、放課後の教室で久保田くんに告白されたのを断った私は、まだどこか現実感がないまま、ぼんやりと夕日が沈むのを眺めていた。


「雫、ごめん! 待たせた」


 ジャージ姿の侑希が息をきらせて教室に駆け込んできたとき、何故だかその見慣れた姿がものすごく格好よく見えた。侑希はいつも格好いいのだけど、そうじゃなくて……上手く説明できない。


「雫? どうした?」


 侑希が怪訝な表情で顔を覗き混んでくる。そんな仕草はこれまでに何十回、ひょっとしたら何百回って見てきたはずなのに、心臓が止まるんじゃないのかって思うほど胸が跳ねた。


 傾いた太陽には心から感謝。だって、赤らんだ頬を夕日のせいにできるから。


(あ、変な癖がついてる。)


 少しだけ襟足の伸びた茶色い髪は、つけっぱなしにしていたハチマキのせいでおかしな場所で跳ねていた。それがなんだかおかしくて、思わずくすっと笑みを漏らす。すると、侑希は目をみはり、顔を背ける。オレンジ色の陽を浴びた侑希の頬も赤く染まっていた。


「帰るか」


 侑希は自分と私の二人分の鞄を持つと、こちらを振り返り「歩けるか?」と聞いてきた。


「うん」


 さっき保健室に行ったお陰で、足の痛みはだいぶ引いていた。侑希は私に歩調を合わせるように、廊下をゆっくりと歩き出す。


「侑くん、迷惑かけてごめんね」


 茜色に染まる廊下を歩きながらおずおずとそう告げると、侑希はきょとんとした顔をしてから、にかっと笑う。


「なーに言ってるんだよ。雫のくせにしおらしくて気味悪い」

「気味悪いって!」


 頬を膨らませた私がぽすんと腕を叩くと、侑希はおどけたようにけらけら笑う。たぶん、こっちが気を遣わないようにそう言ってくれている気がした。

 私が黙り込むと、少し前を歩く侑希がちらっとこちらを振り返る。


「俺が怪我したときはさ、雫が手伝ってくれただろ? だから、おあいこ」

「怪我したとき?」

「うん、中学のとき。雫が無理やり病院だって連れて行ってくれただろ。それに、鞄も持ってくれたし」

「ああ、そうだったね」


 懐かしいな、と思う。

 中三の夏休み、バスケ部の部活中に侑希は手首を怪我した。そのとき、なぜか侑希は強がって「たいして痛くない」と病院に行こうとしなかった。


 けど、その日たまたま部活で学校にいた私は侑希の表情を見て絶対に病院に行った方がいいと思い、半ば無理やり近所の整形外科に連れて行った。

 結構しっかりひびが入っていたから、よくあれで「たいして痛くない」なんて言えたものだと思う。


「侑くんってさ、結構格好つけたがりだよね」

「はあ?」

「絶対痛いくせに、『痛くない』って言い張っていたなぁと思って」

「くそっ、余計な事を思い出させた」


 しまったと言いたげに、侑希が顔をしかめる。そんな表情の変化がなんだか可愛く見えて、思わずくすくすと笑ってしまった。

 すると、侑希は不貞腐れたように口を尖らせた。



 雨に濡れた窓から目を離し、机に向かうとコロンと置かれた物が目に入った。

 先日、さつき台駅にあるドラックストアに立ち寄った際にふと目について購入した、ピンク色の色つきリップだ。


 キャップを開けてくるりと中を出すと、ほのかな桃の甘い香りがした。

 手鏡を取り出して唇に乗せると、ほんのりと唇がピンク色に染まる。街中ではお化粧をしている女子高生も多いけれど、さくら坂高校では校則で通学時のお化粧が禁止されているため、私が普段化粧をすることはない。

 だけど、先生に隠れてみんながやっているのがこの色つきリップ。それはほんの僅かな変化なのだけど、自分がぐっと大人に近づいたような錯覚に陥る。


 ──聡に可愛いって思ってほしいじゃん?


 年始のセールに一緒に行った夏帆ちゃんが言っていた言葉を思い出す。


(侑希、気が付くかな? 気が付いたとしたら、可愛いって思ってくれるかな?)


 そんなことを考えて、私は慌てて頭を左右に振る。

 侑希には好きな子がいて──。


 冷静に考えて、私はとても勿体ない事をしたのかもしれない。

 夏帆ちゃん達に「久保田くんから告白されて断った」なんてカミングアウトしたら、「なんでー! 勿体ない!!」と絶叫されてしまうだろう。

 しかも、絶対に成就不可能な恋をして断ったなんて言ったら尚更だ。多分「失恋の痛みを忘れるのは新しい恋が一番なのに」なんて説得されてしまいそう。


 私が断ったせいで、久保田くんも同じように傷ついたなんて、本当に恋心はままならない。

 だからこそ、両想いというのはとてつもない奇跡に思えた。

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