第2話
◇ ◇ ◇
「雫ちゃん、ぶつけたところ、大丈夫だった?」
ゴールした後に待機場所に行くと、クラスメイト達が心配していた。
「うん、大丈夫だよ。ドジだから転んじゃった」
本当は足首がさっきからズキズキと痛かったけれど、みんなを心配させないように、努めて元気な声を出す。
「あれは、隣のレーンで事故ったから仕方なかったよ。雫ちゃん、凄いよ。転んだのに三位なんて」
「うん」
クラスメイト達の慰めの言葉に、少し心が救われる。
本当は一位になりたかったな、と思う。けれど、全力でやったからか、不思議とそれほど悔しさはなかった。
競技が終わって、足を庇いながら観覧席に戻ると、「雫!」と呼び掛けられて私は振り返った。観覧席の後ろに立つ侑希がちょいちょいと手招きをしている。
「どうしたの? なにかあった?」
「大あり。ちょっと来て」
その様子を見て、首を傾げる。なんの用だろう?
「なんだろう? ちょっと行ってくるね」
隣に座る夏帆ちゃんに声をかけると、競技観戦にすっかり夢中なようで「りょーかい!」と軽く返事をされた。
すごすごと座席設置エリアの後ろまで行くと、侑希は不機嫌そうな顔をしていた。
「どうしたの?」
「ちょっと来て」
ギュッと左手首を摑まれ、腕を引かれる。侑希は何も言わずにズンズンと校舎の方へと歩き始めた。
「侑くん? どこ行くの? もうすぐリレーでしょ?」
「うんそう。だから急いでいる」
そう言われると、大人しく従うほかない。そのまま連れていかれたのは、一階の保健室だ。
「先生。こいつ見て」
ぶっきらぼうな声に、保健室で何かの書類を読んでいた藤井先生が顔を上げる。侑希と、その後ろに立つ私の姿を見とめると「あら」と声を上げた。
「あらあら。前にも見たような組み合わせね」
藤井先生は持っていた書類を机の上に置くと、笑顔で「どうぞ入って」と丸い椅子に座るようにと勧めた。
「今日はどうしたの?」
「こいつ、多分怪我してる」
「多分?」
「歩き方がおかしかった」
憮然とした表情で説明する侑希と、その横で小さくなる私の顔を藤井先生は交互に見比べる。
「歩き方ってことは、足ね。少し見せてくれる?」
「はい」
おずおずと丸椅子に腰かけると、くるぶしまであるあるジャージをまくり上げる。
「ここ、擦りむいているわね。今、消毒するから」
膝は、両方とも赤くなって右側は血が滲んでいた。丸くなったコットンを銀色の容器に入った消毒液に浸す。ピンセットで摘まんだそれでちょんちょんと患部を触れると、ピリッとした痛みが走った。
「痛いけどちょっと我慢してね」
顔をしかめた私を一瞥した藤井先生は、軟膏を塗り大判絆創膏を取り出すと、慣れた様子で患部を覆い隠すように貼り付けた。
「後は、どこか痛い?」
「右の足首が……」
「歩けないくらい?」
「歩けますけど、ちょっと痛いです」
藤井先生は私の右足を両手で持ち上げると、様子を見るようにぐるりと回した。その瞬間、またズキリと痛みが走る。
「痛っ!」
「うーん。軽い捻挫かな。湿布を貼って固定してあげる。どんどん腫れてきたり、痛みが酷かったら近くの整形外科に行ってね。その際はスポーツ保険が下りるから、教えて」
湿布を取り出そうと藤井先生が立ち上がったタイミングで、窓の外から体育祭運営委員会の事務局放送が流れてきた。
『事務局からのお報せです。プログラム十五番。クラス別対抗リレーの選手に選ばれている生徒は、大会事務局横の黄色い旗の前に集合してください。繰り返します。プログラム十五番──』
「あっ……」
私は窓から外を見た。観戦中の生徒達やテントの白い屋根が邪魔して、校庭の様子は見えない。
「侑くん、行かないと」
藤井先生の斜め後ろに立つ侑希を見上げる。
その呟きを拾った藤井先生が、後ろに立つ侑希のほうを振り返った。
「あら。倉沢くんは対抗リレーの選手なの? 行ってきていいわよ。後はやっておくから」
「はい。お願いします」
侑希がぺこりと頭を下げる。
「侑くん、ありがとう。頑張ってね」
「うん、任せとけ」
侑希は片手を上げると、にやりと口の端を上げる。親指をぐっと上げるポーズをして、その場を後にした。
「原田さんも、対抗リレーが始まるまでには間に合うわよ」
パタンと閉じた扉を椅子に座ったまま見つめていると、藤井先生はクスリと笑う。
湿布を貼られ、足首にひんやりとした感触がした。医療用の紙テープで、ずれないように上から固定する。その上から、足首を固定するようにテーピングが巻かれた。
「ほらっ、できた。早く優しい彼氏くんの応援に行かないと、間に合わなくなっちゃう」
自分の治療後を確認して満足げに頷いた藤井先生は、こちらを見てにこりと笑った。
私は一瞬、何を言われたのかわからずに、ぽかんとして藤井先生を見返した。そして、ようやくその意味を理解すると急激に顔が赤くなるのを感じた。
「か、彼氏じゃありません!」
「あら、そうなの?」
真っ赤になってぶんぶんと首を振る私を見つめ、藤井先生は不思議そうに首を傾げる。そのとき、クラス対抗リレーの前の種目である、一年生女子の玉入れの勝敗を告げるアナウンスが流れたのが聞こえた。
「そろそろ行かないと、本当にお友達の出番が終わっちゃうわよ」
「あ、はい」
私は慌てて立ち上がる。固定してもらったおかげか、先ほどまであった鈍い痛みは殆どなくなっていた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。何かあったらまたいらっしゃい。ふふっ、青春っていいわね」
保健室を去り際、藤井先生は目を細めて楽しそうに笑った。
急いで校庭に行くと、ちょうどリレーのスタートを報せる発砲音が聞こえてきた。一年生から走り出すので、二年生までは少し時間があるはずだ。
(早くしないと、侑くんの出番が来ちゃう! )
私はテントの端っこの、スタート位置がよく見える場所までとりあえず移動した。選手からすると、スタート位置に立ったときに正面に見えるあたりだ。何人かの生徒が同じようにテント横に立って、応援している。
『続いては、二年生です』
アナウンスの後に発砲音。
第一走者が走り出し、周囲の生徒達がわっと歓声を上げる。応援の声は大きなうねりとなって、辺りを覆いつくしていた。
(侑くんは……第四走者かな?)
選手達が並んでいるところを眺め、侑希を探した。
五人いる走者の中で、最後から二番目の位置に立っているのが見えた。『4』と書かれた青色のゼッケンを付けている。『3』のゼッケンをつけた松本くんが走り出すと、侑希がスタート位置に移動した。
スタート位置に立った侑希が、前を向く。そのとき、目が合った気がして「頑張れ!」と大きな声で叫んだ。周りは各クラスの走者を応援する大歓声。聞こえるわけはないのだけれど、こちらを見る侑希がにこっと笑ったように見えた。
「倉沢、頑張れ!」
「いけー!」
第三位でバトンを受け取った瞬間、松本くんへの声援が侑希への声援へと変わる。ゼッケンと同じ青色のバトンを握り、目の前を颯爽と走り過ぎた。
「倉沢!」
「追いつける! 頑張れ!」
最初は五メートルほどだった二位の走者との差は一メートルほどまで縮んでいた。B組全員が拳を握って声援を送る。
「侑くん、頑張れ!」
私も両手を口の周りを覆うように当てて、精一杯叫んだ。二位との差が縮み、順番が逆転する。
「あと一人だ!」
横にいた男子生徒が叫ぶ。あと一人を残したところでアンカーへとバトンが繋がれ、最後の走者が走り出した。
「抜いた!!」
最後を走る陸上部の久保田くんはトラックの中盤で前の走者を追い越し、一位でゴールした。
「やったー!」
周りからB組の歓声と、追い抜かれたクラスの悲鳴が聞こえた。
◇ ◇ ◇
体育祭はクラス対抗で、二年B組は三学年全十五クラス中三位と健闘した。
「今日、最後のリレー凄かったね。最後二人抜いて一位だもん。全員格好よかったけど、聡が一番格好よかったなぁ」
教室に戻った夏帆ちゃんは最後の種目だったリレーのことを思い出したのか、そう言いながらニマニマと笑う。確かにみんな格好よかったな、と思う。
特に──。
そこまで考えて、私はぶんぶんと頭を振った。颯爽と目の前を走り抜けてひとりを抜いた侑希の姿が脳裏に蘇り、なぜか頬が熱くなった。
ホームルームが終わると、侑希がまっすぐにこちらに近づいてきた。
「倉沢くん、今日のリレー凄かったね。一抜き」
「まあね」
夏帆ちゃんに声を変えられた侑希は、得意げにニヤッと笑う。
「格好よかったよ。──聡には負けるけど」
「なに? 褒めていると見せかけて、のろけかよ」
「そーでーす。あははっ」
夏帆ちゃんがおどけたように笑う。苦笑する侑希は夏帆ちゃんから視線を外すと、私を見下ろした。
「雫は褒めてくれないの?」
「凄かったよ」
「格好よかった?」
期待に満ちたような目で見つめられる。今日の侑希は凄く、正直言ってすごく格好よかった。けれど、なぜだかそれを口にするのがとても気恥ずかしく感じる。
「…………。うーん、どうだろう?」
濁したその返事に、侑希はわかりやすくがっくりと項垂れた。
「厳しい……。結構、格好よかったって色んな女子から言われたんだけど?」
「じゃあ、それで満足してくださーい」
夏帆ちゃんはしっしと虫を手で払うような仕草をした。侑希はまた苦笑いをすると、こちらを向いた。
「雫。鞄持ってやるから一緒に帰ろう。俺、部活のやつが体育祭の運営委員やっていてさ。この後もテントとかの片づけを手伝えって言われたから、ちょっと待っていて」
「うん、ありがとう」
「じゃ、また後で」
教室から出ていく侑希の後ろ姿を見送りながら、夏帆ちゃんが不思議そうな顔をした。
「なんで倉沢くんが雫ちゃんの鞄を持つの?」
「私ドジだから、足を怪我しちゃって」
「え? いつ? もしかして、障害物競争で転んだとき!?」
「……うん」
おずおずと頷くと、「ええー!」と夏帆ちゃんは小さく叫んだ。
「雫ちゃん言ってくれればよかったのに! 大丈夫なの?」
「うん。保健室行ったから」
「よかった。でも、なんで倉沢くんは知っているの?」
「私が歩くのを見て気が付いたんだって。侑くんが保健室に連れて行ってくれたの」
夏帆ちゃんはそこまで聞くと、驚いたように目を見開いた。
「え? へえ……。ふうん?」
「なに?」
なぜかニマニマしたような笑みを浮かべる夏帆ちゃんに困惑する。
そこに、帰り支度をすっかり終えた松本くんが夏帆ちゃんと帰るために近づいてきた。夏帆ちゃんはそれに気が付くと、鞄を肩にかけてすっくと立ちあがった。
「なんでもない! ふふっ。雫ちゃん、お大事ね」
「うん、ありがとう」
松本くんの隣に駆け寄った夏帆ちゃんは意味ありげに口の端を上げると、ぶんぶんと手を振った。
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