第3話

 ◇ ◇ ◇


 翌日、私はさくら坂神社に向かった。

 いつものよう駅の近くの田中精肉店でメンチカツを二つ購入し、さくら坂を下りてゆく。すっかりと通い慣れた小路を曲がり、赤い鳥居をくぐった。


「さーくーらーさーまー」


 待つこと数秒。今日も、ふわりと空気が揺れ、どこからともなくさくらは現れる。


「はい、どうぞ」


 手に持っていたレジ袋を差し出すと、さくらはそこからひとつだけメンチカツを取り出してもぐもぐと食べ始めた。


「今日はひとつでいいの?」

「さっきも食事したから、お腹がいっぱいじゃ」

「ふうん?」


 私は最近、食欲旺盛なさくらに合わせてメンチカツを二つ買っていくようにしていた。さくらはいつも、その二つをペロリと食べてしまう。それが今日はひとつしか食べなかった。珍しいこともあるものだ。


「それで、どうしたのじゃ? 我になにかようがあったのじゃろう?」


 さくらは最後の一口をもぐもぐと咀嚼して飲み込むと、虹色の瞳でゆっくりとこちらを振り返った。

 私は、ぐっと言葉に詰まる。こんなに小さな子供の姿をしていてもやっぱり神様。色々とお見通しのようだ。


「あのね、侑くんに酷いこと言っちゃったんだ」

「それで?」

「なんとなく気まずいの」

「ふむ」


 さくらはお賽銭箱の上にぴょんと飛び乗ると、そこに腰かけた。毎回毎回、そんなところに腰かけてばちが当たらないかと心配になるけれど、そもそもここの神様はさくらなのだから関係ないのかな。


「謝罪して許してもらえなかったのかの?」

「多分、許してくれているよ。けど……傷つけちゃっただろうなと思って」

「それは、心を込めて謝るしかなかろう?」

「うん、そうだね」


 沈黙が辺りを包みこみ、私は俯いた。

 視界に、等間隔に置かれた四角い置き石と、それを囲むように敷き詰められた丸石が映る。

 謝るしかない。本当は、私自身そのことをよくわかっていた。


「雫よ」

「うん」

「一度繋がった縁というのは、そうそう簡単に切れるものではない。けれど、一旦切れてしまうと繋ぎなおすのはとても難しい。その相手が大切なら、申し訳なく思っている気持ちをきちんと伝えるがよい。失ってから気付くのでは、遅すぎる。近ければ近いほど、人は有難みを忘れがちになる」

「うん」


 さくらの諭すような言い方は、威厳がある。見た目は完全に年下の、まだ小学校の低学年くらいにしか見えないのに、とても不思議だ。

 ふと、以前さくらに縁結びを手伝えと言われて際の不思議な体験で出会った女の人が脳裏に浮かんだ。


 ──近くにあるとさ、近すぎて見えないことってあるよね。


 あの言葉って、人に対しても同じなんじゃないかなって思った。一緒にいることが当たり前すぎて、大切さがわからなくなるのだ。


(やっぱり会って、もう一度ごめんなさいと伝えよう。)


 私はそう決意する。


「ありがとう、さくらさま。今夜にでも、もう一度、侑くんに謝ってくる」


 それを聞いたさくらはにっこり笑うように、目を細める。そして「ところで雫」と言った。


「なに?」

「なぜ、お主はそこでそんなことを言ってしまったと思う?」


 さくらにそう尋ねられ、私は戸惑った。自分でも、なぜあんなことを言ってしまったのかがわからないのだ。


「よくわからないけど、すごくイライラして……。カルシウム不足とか?」


 眉根を寄せて答えると、さくらは何とも言えないような表情で見つめてきた。


「これは、これは。悩むのも頷ける。なんとも手ごわいのう」

「何が?」

「人の心は、本人にもままならないということじゃ。もちろん、我にも人の心を変えることはできない」


 よくわからず、私はこてんと首を傾げる。それを見たさくらは、大層楽しそうに声を上げて笑った。



 今度こそ帰ろうとさくら坂神社を後にしてさくら坂を上る。その途中、後ろから「雫!」と呼び声が聞こえた気がして私は振り返った。

 目を凝らすと、坂の下、さくら坂高校の方から制服姿の男子が近づいてくる。遠目に見ても綺麗な茶髪は、侑希のそれに違いない。


「侑くん!?」


 私は驚いて声を上げる。まさか、こんなタイミングで侑希に会うとは思っていなかった。

 侑希は制服姿でリュックを背負っていた。格好から判断するに、学校に行った帰りのようだ。


「偶然だな。部活?」


 私の目の前まで歩み寄ると、侑希はいつもと変わらぬ様子でにこりと笑って話しかけてきた。


「ううん。ちょっと用事があって」

「ああ、だから」

「だから?」

「制服じゃない」


 侑希に指摘されて、自分自身を見下ろす。今日はラフなズボンと長袖のシャツ、それにスニーカーを履いていた。お花見のときのあの子の可愛らしい格好が脳裏に浮かぶ。


(もっとお洒落すればよかったな……。)


 けれど、今更それを思っても仕方がない。


「侑くんは部活?」

「ううん。ちょっと、近くに用事があって、ついでに学校寄った。これから塾」

「ふうん」


 侑希の手に持っていた風来堂の紙袋を乱暴に潰すと、鞄に突っ込んだ。


(用事って、風来堂に用事だったのかな?)


 どんだけあそこのスイーツが好きなんだろう。


 二人はどちらからともなく、並んで歩き始める。


「雫はなんの用事があったの?」

「……ちょっと、ね」


 まさか、『さくら様に人生相談しに来ました』なんて言えるはずもない。曖昧に濁すと、二人の間に沈黙が流れる。私は居心地の悪さに身じろいだ。


 前日に悪いことをしたのは私で、今さっきしっかりと謝ろうと決意したばかり。なのに、いざ本人を目の前にすると、どう反応すればいいのかわからなくなる。


 ──何か喋らないとっ。


 何か会話のネタはないかと頭をフル回転させたけれど、こういうときに限って何も思いつかない。いつもなら、何時間だって笑って喋っていられるのに。


「今日さ」


 先に沈黙を破ったのは侑希だった。

 侑希はこちらを見下ろしながら、口を開く。


「うん」

「部活だったみたいで、学校に久保田がいたんだけど……」

「ふーん」

「雫。知らなかったの?」

「? 知らないよ」

「あ、そう……」


 なんの話だろうと思ったけれど、侑希はそこで話をやめてしまった。右手で頬をぽりぽりと掻くのが視界の端に見える。隣を歩く侑希は、チラリと私の手元を見た。


「それ、なに?」

「これ? メンチカツ。田中精肉店の」

「なんでそんなの持ち歩いているんだよ。後から買えばいいのに」


 呆れたように笑われて、カーっと頬が赤らむのを感じる。これじゃあまるで、私がとっても食いしん坊で帰りまでに我慢できずに買ってきたかのようだ。

 けれど、さくらに買ってきたけれどお腹いっぱいだからと食べてもらえなかったと言うわけにもいかない。


「侑くんだって、風来堂の紙袋持ち歩いているじゃない」

「もう空だし」

「これ、美味しいんだよ?」

「知っているよ。時々部活帰りにみんなで食うもん。さすが雫」

「なにが『さすが』なの」


 耐えきれないように、けらけらと侑希が笑いだす。

 絶対に私が食いしん坊だとからかって遊んでいる。むすっと口を尖らせていた私は、肩を揺らしている侑希を窺い見る。


 侑希はやっぱり優しくていいやつだと思う。

 こういういつも通りの態度をとってくれて、内心すごく救われた。


 私は決心するように、ふうっと息を吐いた。


「侑くん」

「なに?」


 肩を揺らしていた侑希が、こちらを見る。口元は未だに笑ったままだ。

 勇気を出してスーっと息を吸った。


「昨日、ごめんね。ひどいこと言って。私が言うべきことじゃなかったよね」

「いいよ、別に。俺自身、そう思っていたから。いつまでも、これじゃ前に進めない。──ただ、関係が壊れるのが恐かったんだ」


 侑希は困ったように笑い、首を左右に振る。

 決して私を怒るわけではなく、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりとそう言った。


 ──ただ、関係が壊れるのが恐かったんだ。


 その一言で、いかに侑希がそのこの子のことを大切に思っているか、私にもわかった。きゅっと胸を捕まれるような、不思議な感覚をまた感じる。


「そんなこと、謝らなくていいのに」

「だって、悪いことしたし。侑くんと仲悪くなったら嫌だもん」

「そうなの?」

「そうだよ。侑くんのこと、大切だよ」


 ──大切なものは、失ってから気付くのでは遅すぎる。


 さくらの言葉を噛みしめる。

 侑希と少し険悪な雰囲気になっただけで、とても気持ちが落ち込んだ。きっと、自分の中で侑希は大切な存在なのだろうと思う。だって、幼稚園からの幼なじみだもの。


 関係が拗れるまで、そんなことに気が付かないなんて。


 返事がないことを不思議に思って横を向くと、侑希は片手で口元を押さえて向こう側を向いていた。髪の隙間から覗く耳がほんのりと赤い。


「侑くん?」

「こっち、見んな」


 頭をぐいっと押されて、向こうを向かされる。侑希の手のひらが当たった部分の髪の毛がぐしゃっと乱れるのを感じた。


「ひどーい。髪の毛がぐしゃぐしゃ」

「うるさい。お詫びはそのメンチカツで許してやる」

「え! 私が食べようと思っていたのにー!」


 ひょいとメンチカツを取り上げられて抗議の声を上げたとき、こちらを見下ろす侑希と目があった。すごく優しい目で見ていて、胸がトクンとはねる。

 空いている手が伸びてきて、また髪の毛をぐしゃっとされた。


「あー。やーめーてー!」


 慌てて髪を手で整える。じろりと睨み付けると、侑希は肩を揺らして笑っていた。


「もう!」

「ごめん、ごめん」


 侑希は顔の前で手を合わせて『ごめん』のポーズをとる。いつの間にかすっかり元通りになった二人の関係に、お互いに顔を見合わせて笑みを洩らした。


 ◇ ◇ ◇


 侑希の通っている塾は、高校のある『さくら坂駅』と自宅のある『すみれ台駅』の間に位置している。電車に乗ると、侑希は満席の座席の前に立って窓の外を眺めていた。私もつられるように、視線を電車の外へと移動させる。


 住宅街の屋根が、後ろへ後ろへと流れてゆく。

 大規模分譲されたのか、同じようなデザインの家がたくさん並んでいるのが見えた。


「あー。どーすっかな……」


 電車の車輪がレールの繋ぎ目を渡る、ガタンガタンという音が社内に響く。

 それに混じって、侑希が小さく呟く声が聞こえたような気がした。


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