第4話
◇ ◇ ◇
翌日は金曜日だったので、すみれ台図書館に行く日だった。
期末試験は終わったので、間違えたところの復習を中心に勉強する。英語の見直しをしながら、私は隣を窺い見た。侑希は頬杖をつき、古文の勉強をしている。
清少納言の書いた枕草紙の中の『ただ過ぎに過ぐるもの、帆かけたる舟。人の
「ねえ、侑くん?」
「なに?」
頬杖を外した侑希がこちらを見つめる。手がずっと当たっていたせいか、頬の片側がほんのりと赤く跡になっている。
「侑くんと好きな子、うまくいっている?」
突然の質問に、侑希は驚いたように目を見開くと照れたようにはにかんだ。
「前より、二人で過ごすことが増えたよ。話す機会も多いし」
「そうなんだ」
それは、学園祭に来ていたあの塾の友達グループの誰かだろうか。ふと、あの日侑希とスマホで写真を撮っていた女の子の姿が脳裏に浮かぶ。とてもいいことのはずなのに、なぜか胸にもやもやが広がった。
「雫? どうかした?」
侑希が怪訝な顔をして顔を覗き込んできた。私は慌てて両手を胸の前で振った。
「あ、なんでもないの。よかったね!」
「うん、ありがとう」
「告白、しないの?」
侑希はぴたりと動きを止め、じっとこちらを見つめてきた。
「うーん。もうちょい、かな?」
「ふうん?」
もう、さくら坂神社を侑希が訪れた日から五カ月以上経っているのに、侑希は思った以上に慎重派のようだ。
「そうだ。雫に相談したかったんだけどさ、クリスマスプレゼントは何がいいかな?」
「クリスマスプレゼント? 侑くん、イギリスに行くんじゃないの?」
「うん。けど、行く前にその子に渡そうかと思って」
侑希は数年に一度、祖父母が住んでいるイギリスに旅行も兼ねて家族で行く。今年も、冬休みに入ったらすぐに出国すると聞いていた。
「そうだなぁ。付き合っているわけじゃないなら、重くないもの?」
「重くないもの」
アドバイスしておいてなんだが、私はこういったことに経験がない。
なんとなく、付き合ってもいない男の子からアクセサリーとかを貰ったら重いかと思ってそう言ったが、特に商品に候補があるわけでもない。
「うーん、探してみる」
顎に手を当てて考え込んでいた侑希は、そう言うと自信なさげに笑った。
「そう言えば雫、進路決めた?」
「進路? うーん、迷っているの」
「迷っている?」
侑希はこちらを見つめ、首を傾げる。
「うん。やりたいことがあるんだけど、私、数学があんまり得意じゃないから──」
最近、冷凍食品とかレトルト食品に興味があって、そういった加工食品の研究開発がしてみたいと思っていた。
料理そのものを作るのではなくて、多くの人たちの家庭で美味しい料理を再現させることを可能にする技術で、食卓を笑顔にするための仕事だ。
大手食品メーカーをネットで調べてみると、研究所は理学部出身──つまり理系の人が多いように見えた。けれど、残念ながら私は理系コースに進む上で一番大事な数学があまり得意ではない。
ぽつりぽつりと事情を話すと、侑希は腕を組んでうーんと唸る。
「よくわからないけどさ」
侑希は薄茶色の目を数回まばたきすると、まっすぐにこちらを見つめる。
「やりたいことがあるなら、チャレンジしてみたほうがいいんじゃないかな? だって、俺らの将来、これから何十年も続くんだよ? チャレンジして駄目ならともかく、チャレンジすることを諦めるなんて……。数学が苦手だからって、勿体ない。俺、これからも教えるし」
そう言って、侑希はにこっと笑った。
──チャレンジするのを諦めるなんて……。
その言葉は、ストンと腑に落ちた。
先日の、不思議な体験が脳裏に蘇る。
やりたいことがあったら、勇気を出して手を伸ばしてみろって言っていた。できないと決めつけて他の道に逃げて、後悔したくない。最後に『頑張れ』って激励されて、『はい』って約束したじゃん。
(そうだよね。やってみないと、駄目かなんてわからない。)
「そうだよね。私、もう一度よく考えてから、お母さんとお父さんにも相談してみる」
自分の中で頑張ってみようかな、とやる気が湧いてくるのを感じた。
侑希のその一言は、私に勇気を与えてくれた。
◇ ◇ ◇
部屋でスマホと弄っていた私は、調べ物を終えるとそれをポンと机の上に置く。色々と悩むところではあるけれど、今年に入って何回も悩んで自分なりに考えたことだ。
部屋を出て一回に降りると、お母さんはキッチンで夕食の準備をしていた。降りてきた雫に気付いたお母さんは、「もう少しでできるから待っていてね」という。
近くに寄ると、今日はトンカツのようだ。ちょうど卵液に浸した豚肉を、パン粉の中に入れているところだった。
「手伝うよ」
「あら、そう? じゃあ、キャベツの千切りお願いしていいかしら」
「うん」
冷蔵庫からキャベツを取り出すと、何枚が剥いて水でよく洗う。それを重ねて、指を内側に入れる猫の手を作ると、トントントンとリズミカルに切り始めた。
昔は上手くできなかった千切りも、お手伝いとクッキング部の効果でだいぶ上手になった。
「しずちゃん、お母さんより上手かもしれないわ」
隣にいるお母さんがそう言って笑う。私もつられるように、はにかんだ。
「ねえ、お母さん」
「なーに」
「私さ、料理作るの好きじゃん? 来週、文系か理系かの進路提出なんだけど──」
「うん」
「理系にしようと思うの」
黙々と作業していたお母さんがその手を止め、不思議そうにこちらを見つめる。
「理学部に行きたいなぁって思って。あのね、私、食品会社の研究員になりたいの。それで、レトルト食品とか、冷凍食品の開発をしたくって」
夢中で喋る私を何も言わずに見つめていたお母さんが、耐えきれない様子でふふっと笑う。私はそれを見て、言葉を止めた。
「いいんじゃない。お父さんにも、言ってね」
「うん」
「お母さん、てっきり大学受験なんてやめて調理師専門学校に行きたいって言い出すのか思ったわ。もちろんそれでもいいのだけど、理学部なんて想像してなかったから意外。家政学部じゃないの?」
「うん。前に冷凍食品使ったときに、こういうのってどういうふうに作るのかなって不思議に思って調べたの。栄養学科とかも考えたんだけど、どちらかと言うと開発とか研究とか、そんな仕事ができたらいいな、なんて……」
「いいと思うわよ。しずちゃん位の歳の子は、なろうと思ったら何にだってなれるんだから」
「何にだって?」
「そうよ」
三枚目の豚肉にパン粉に付け終えると、お母さんは水道で手を洗い始めた。蛇口から流れ落ちる水が、白筋をつくっていた。
「侑くんはね、お医者さんになりたいんだって」
「へえ。すごいわね」
「うん、すごいの。侑くん、中三のときに腕を怪我したじゃん? そのとき、治療を受けてお医者さんになりたいって思ったんだって。高校入る頃にはそう決めていたみたいで、勉強もすごくできて、時々教えてもらっているの」
「そっか。今頃、飛行機の上かしら?」
「そうだね」
タオルで手を拭いたお母さんは、揚げよう鍋を取り出すと中に油を入れる。ガスの青い炎が鍋底からチロチロと覗いていた。
「しずちゃんも、侑くんも、来年にはもう高校二年生になるものね。進路を考えないとよね」
「うん。理学部に行っても、食品会社に入れるかどうかはわからないけど」
「そうね。でもそうやって、自分がやりたことを見つけられるのって、すごく素敵なことよ。好きこそものの上手なれ、ってね。頑張りなさい」
「うん」
温まった油に衣の付いたトンカツを入れると、じゅわっと独特の油で揚げる音がする。その音に混じって、お母さんが「子供が大きくなるのって、早いなぁ」と小さく呟くのが聞こえた。
「もしも食品開発の研究員になったら、里帰りのたびに自分が開発した食品を持って帰ってくるよ」
「あら。じゃあ、お母さんごはん作りが楽になって大助かりだわ」
お母さんは嬉しそうに笑って、そう言った。
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