第2話

    ◇ ◇ ◇


 さくら坂神社を後にして、茜色に染まるさくら坂を登る。


 結局さくらは叶えてやってもいいとか言いながら、何をどうするとかは何も告げずに忽然と消えてしまった。呼びかけて暫く待ったけれど一向に現れないから、今日はもう会いに来てはくれないのだろう。


 いつものように電車に乗り、揺られること二十分。電車を降りてさつき台駅の改札を抜けたとき、ふと違和感を覚えた。


「あれ? こんなお店、あったっけ?」


 改札口正面にあったのは、見たことのないパン屋さんだった。

 十メートル位離れたここまで、焦がしバターのような香ばしい香りが漂ってくる。いつの間に開店したのだろう。今朝は気が付かなかったから、今日の昼だろうか。


 そんなことを思っていたそのとき、自分の横をすり抜けた女性の横顔を見てハッとした。


「あっ」


 ──お母さん!


 そう続けようとして、慌てて口を噤む。

 私の声に気付いて後ろを振り返った女性は、母親よりもずっと若かった。見た感じは……二十代半ばだろうか。

 肩までのボブをくるんと内巻きにして綺麗にお化粧をしたその女の人が、なぜかお母さんに雰囲気が似ているような気がしてしまったのだ。


 急に立ち止まった女性に後ろから来た人がぶつかり、弾みで女性が手に持っていた鞄が落ちる。中に入っていた何かの書類がバサリとその場に散らばった。女性は慌てた様子でそれを拾い始める。

 私もその場にしゃがんでそれを拾うのを手伝った。


「どうぞ」

「あっ、ありがとう──」


 それを受け取るために顔を上げた女の人は私と目が合うと、とても驚いたように目を見開いた。けれど、すぐにその表情は穏やかに変わり、ニコッと微笑んだ。


「あなた、さくら坂高校?」

「あ、はい……」

「制服、懐かしい。私もさくら坂高校だったの」

「そうなんですか?」


 さくら坂高校に通う学生でさつき台駅を使っている人は、そんなに多くない。今の学年では、同中だった五人だけだ。もしかして中学も同じかと思って聞いてみたら、案の定同じ中学だった。たったそれだけのことで、急に親近感が湧く。


「あのパン屋さん、いつできたんでしょうね? ドラッグストアでしたよね」

「パン屋?」


 女性は私の指さす先を眺め、「随分前からあるよ」と言った。


「え? 本当に?」

「うん。一年位前かな」


 すらすらと答える女性が嘘を言っているようにも見えない。

 一年前? つまり、私がさくら坂高校に通い始めた後だ。毎日この改札口を通って通学しているのに、そんな馬鹿な!


「全然気が付かなかった……」


 女の人はそんな私を見てくすくす笑いながら、受け取った書類を鞄の中にしまった。ちらりと見えたそれは、A4の紙に何かが書かれていた。


「ありがとうね。助かったよ。これ、すごく大切な物なんだ」

「そうなんですか?」

「うん、私が仕事を頑張った成果の結晶。明日プレゼンだから、家に帰ったらもう一度きちんと見返そうと思って」


 女の人はにこりと笑った。


「お礼にあそこのパンを奢るよ」

「え? 悪いからいいです」

「いいの、いいの。こっちは社会人なんだから、お礼ぐらいさせて。ちょっとだけ待っていて」


 女の人はそう言うと、さっさとパン屋さんに入って行った。

 どうしたものかと待ちぼうけしていると、白い紙袋を持った女性がハイヒールをカツカツと鳴らしながらこちらに駆け寄ってくる。


「ごめん、待たせちゃって。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「いいの、いいの。これ、きっとご家族も好きだと思うから。お父さんとお母さんと三人で食べて」


 女の人は片手を顔の前で振る。手ではなく肩に掛けなおした鞄からは、先ほどしまった書類が少しだけ顔を覗かしている。


「明日、プレゼン上手くいくといいですね」

「え? ああ、ありがとう。一年近く研究したから、頑張りたいな」


 にこりと笑ったお姉さんは、どこか遠くを見るような目で私を見つめる。


「近くにあるとさ、近すぎて見えないことってあるよね」

「近くにあると?」

「うん。当たり前すぎて、それがどんなに有難いことかが見えなくなるの」

「見えない?」


 女の人は私のほうを見て、またにこっと笑う。


「もし、何かほしいものとか、なりたいものがあるなら、勇気を出して手を伸ばした方がいいよ。高校生って、本当に若い。同じ高校のよしみで、お姉さんからアドバイス」

「お姉さんも若いじゃないですか」

「え? まさか、高校生に若いと言われるなんて、思ってもみなかった!」


 お姉さんは驚いたように目を見開き、照れ笑い。


「頑張ってね、雫ちゃん」

「え? なんで名前……」

「そこに書いてあるよ」


 女性は通学鞄の横についた名札を指さす。そこには黒いマジックで『1-B 原田雫』と書いてあった。


「あ、本当だ」


 私は気恥ずかしさを隠すように、へらりと笑う。


「ありがとうございます」

「うん、頑張れ──…」


 最後の台詞は、よく聞き取れなかった。私は片手を挙げると、名前も知らないその女性に手を振る。

 女の人はこちらを見つめながら、両手を上げて頑張れ、と握りこぶしを作った。


 じっとこちらを見つめながら穏やかに微笑む女の人の満たされた表情が、とても印象的だった。


 その日の晩、家に帰るとお母さんは不思議そうな顔をした。


「駅前にパン屋? あったっけ?」

「あったよ」

「そお?」


 どうやらお母さんは、私と一緒で近いところの変化に気が付かない人なのかもしれない。

 解せないとでも言いたげなお母さんは紙袋の中を覗く。袋を開けた途端、食欲をそそる香りが部屋に広がった。


「あら、クロワッサンだわ。美味しそう。しずちゃんも大好きよね。六個入っているから、明日の朝、二つずつ食べましょ」

「うん、家族で食べてって──…」


 そこまで言いかけて、ハッとした。


(あの人、なんでうちが三人家族だってわかったんだろう?)


 なぜか、もう一度あの人に会って話してみたい気がした。同じ駅なら、また会えることもあるかもしれない。


 けれど、そんな期待はものの見事に裏切られる。

 翌朝、通学途中で私が目にしたのは、見慣れたドラックストアだった。


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