第2話

 やがて、どれだけ歩いたことだろうか。


 一応は、一通りの施設の場所には足を運んだはずだ。実家に帰ってからも、友達と遊んだりする以外は実家の自分の部屋で過ごすことが多かったから、久々にかなりの長い時間を外で過ごした。足がぱんぱんになっている。面倒だから今の家でバスタブに湯をためたことはなかったけど、これはさすがに入浴剤のひとつやふたつ、ためた湯の中にぶちこんでもいいかもしれない。


 久しぶりに意識して、空を見上げる。少しずつ陽が傾きはじめて、青さが少しずつマイルドな濃さになってきていた。冬に近づくにつれて、陽が落ちるのも早くなった。この空の色が、墨を塗ったように真っ黒になるのも時間の問題だろう。寒くなってきたし。



 後期が始まってからも、僕はこの空のことを蓋だとか天井だとかなんとか、そういうこまっしゃくれたことを言い続けるようになるのだろうか。友達がまったくできなければ同じことを言っていそうではあるのだけど、できればそんな未来は訪れてほしくなかった。とはいえ「出会いが財産」とか言うのもうさん臭くて好きではないけども。


 まずは大学が始まるまでに、伸びきってそこそこ高値で売れそうなウニみたいになったこの髪を切らないとなあ……と思いながら、僕は頭を掻いた。


 


「すみません」



 ふいに上からでなく、横から声をかけられたので、わき腹を突っつかれたみたいに身体が震えた。あわてて視線をそちらに向けてみると、女の子がひとり立っていた。見た目は僕と同年代くらいに見える。そろそろ朝と夜は素足にスカートを穿くのには勇気がいりそうな気温だったけど、彼女はそういう服装をしていた。胸の上あたりまでのびた髪は、さっき見た紅葉した葉のように、きれいに赤みがかっている。



 僕がたいてい街を歩いていて声をかけられるのはこういう道案内か、宗教の勧誘かどちらかなのだけど、彼女が求めているのは入信ではなく、単純に道案内だろうというのはなんとなく理解できた。僕は警戒を解いて、返事をする。



「どうしました」

「えっと。”高等教育推進機構”って、どこだかわかりますか」



 はて。

 僕らが立っている位置関係から言って、彼女はここに来るまでのあいだに、その建物の前を通ってきているはずだった。僕はそこの場所をゴールにして折り返してきたばかりだし、横道からぴょんと出てこない限りは、おそらくはその推測は当たっているはずだ。



「あっちから来ましたか」

「そうです」

「体育館のわきから入ってきました?」

「はい」

「だったら、たぶん目の前を通ってきたと思いますよ」

「えっ!?」



 それは僕の台詞なんだけどな。

 彼女は大きな瞳をぱちくりとしながら、自分が歩いてきた方を何度も振り返ってみせた。そのたびに髪の先が胸元でふらふらと揺れる。そのさまがなんというか、ちょこまかと可愛らしくて、僕は少しだけ口元をだらしなく緩ませてしまった。



「あっ、いま笑いましたね!」



 目ざとい生き物だ。

 僕は開き直って、半分笑ったままで、声だけは落ち着いた声色にして、続けた。



「いや、すみません。……でもきっと、通り過ぎてきたと思います」

「えー……そしたら、あのぼろい建物がそれだったのかな」

「二階建ての?」

「二階建ての」

「灰色の?」

「灰色の」



 一応確認として、僕は飼っているオウムに言葉を覚えさせているわけではなく、彼女と話しているのだけど、こんな感じの会話を繰り広げていた。



「それが高等教育なんちゃらの建物ですよ」

「くっそー……でもこれで忘れることはなさそう」

「なら、大丈夫そうですね」



 では、の「d」音までが口からこぼれたあたりで、彼女は「あの」と、僕よりも先にまともな単語を呟いた。



「……もしかして、ここの学生さんですか?」

「そうなんですけど……ここへまともに通うのは後期からです。一年生なんで」

「え? 新入生?」

「そうですけど」

「なあんだ。そしたら同級生じゃん!」



 にんまりと、目元を緩ませながら、彼女は僕に笑いかけてくる。きっとマスクの下は歯を見せながら笑っているのだろうと思うし、それと同時に彼女は、画面越しでなく、リアルの世界で初めて出会った、大学の同級生となった。


 彼女は人懐っこい笑顔をうかべながら言った。



「やっと大学来れるようになるなーって、嬉しくなっちゃったから見に来たんだ。あなたも?」

「ああ……うん」

「だよねー。仕事行きたくない社会人はいいのかもしんないけど、ずーっと家にこもってオンライン授業なんて、大学生になった意味がないよ。わびさびがない」



 さっきまでは、少しおっちょこちょいな子、という認識でしかなかったが、僕の中でそれは光が地球をグルグル回るのと同じくらいの速度で、その認識の前段に「よくしゃべる」という文言が追加されていた。


 思わず、くくっ、と笑い声をもらしながら、僕からも彼女に言葉を投げた。



「そもそも”わびさび”の意味は、知ってるの」

「知らないよ、そんなの」

「そうか……」



 まあ、そうであるのを予想しながら訊いたわけだけど。


 それでも彼女は怒るわけでも怯むわけでもなく、言った。



「ねね」

「ん?」

「まだ後期も始まってないのにここで出会ったのも、何かの縁ってことでさ」



 ふふ、と笑いながら彼女は自分の鼻の頭をこする。というより、マスクの真ん中の、上のほう。いつになったらこんなもんをしなくてよくなる日々が戻ってくるんだろうな……とは一瞬思ったけど、それよりも僕が気づいたのは、彼女の笑った顔は、なんというか、とても可愛らしいということだった。




 す、と彼女が少しだけ息を吸い込む音が聞こえた。





「……わたしと、友達になってくれないかな」





 また風が吹いて、がさがさと木の葉が音を立てる。

 そのとき、ふいに落ちてきたのは空ではなく、紅く色づいた一枚の木の葉だった。


 やっぱりその色は、彼女の髪の色に似ていた。





 

 これまで蓋だとかなんとか言っていたものは、別に落ちてきているわけでもなんでもなかったことに気づいて、僕はだまって頷く。


 自分で言うのもナンだけれど、空模様より早い、心変わりだった。





 ああ、もうさ。



 空っていいよな。なんかほら、無限の可能性って感じがしてさ。




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エミスフェール 西野 夏葉 @natsuha

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