エミスフェール

西野 夏葉

第1話

 空というものに対して抱くイメージというのは、必ずしも一つじゃない。

 そもそも空のすがたというのも、不変ではない。目がおかしくなったのかと思うほど、真っ青だけの時もあるし、時折そこにちぎれた雲がコラボレーションすることもあれば、今度は重苦しい色の雲に埋め尽くされたり、そこからは雨だったり雪だったりが降ってくることもある。


 頭の上に広がる空のことを指して「無限の可能性」とか「自由」とか、そういうことを言う人は結構多いと思う。

 けれども僕にとっては、この空こそが人類をこの星に閉じ込めている蓋というか、上から無慈悲にゆっくりと落ちてきて、押し潰そうとしているようにも思えた。




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 今年が始まった頃はまったくその欠片も見せなかった謎の新しいウイルスが、瞬き一つするあいだに、あっという間にこの星の人間たちを侵しはじめて、今はもうマスクをせずに街を歩くことが、服を着ないで歩くのと同じような扱いを受けることも少なくない。


 そんな年に、ちょうど高校を卒業することとなった僕にとっても、その影響は無視できないものとなった。そもそもが卒業式が中止になって、卒業証書は各自学校まで取りに来い、分かっていると思うがおまえ一人で来い、いいな……という、子供を誘拐された両親のもとに届く脅迫状みたいな内容の封書が、高校から届いたことから始まる。


 3月にそんなことがあって、4月から僕は親元を離れ、一人暮らしをしながら大学に通うことが決まっていた。もちろん、その大学からも同じように通知が届いた。入学式は中止になり、新入生オリエンテーションもインターネット経由で行うので出席するように……と。家でパソコンを開くだけなのに出席もへったくれもないけど、まあしょうがないと、僕は引っ越し業者に荷物を任せて、身一つで新天地へと旅立ってきたのだ。



 結局、前期は一度も対面授業が再開されなかった。政府が出していた緊急事態宣言とやらが解除になって、もしかしてこれはあり得るかな……と思ったのは甘い幻想でしかなく、定期試験までもがオンラインで行われ、流れるように夏休みに突入した。


 新しい友達をつくることもできないままの大学生活は、心電図で表すのならほぼ死んでいるような生活そのものだった。それも、キャンパスに足を運ぶこともできず、すべてのことが狭いワンルームの中で完結してしまうようになった今の生活スタイルは、まさに地獄だった。こんなんなら、引っ越しするだけ無駄だったのかもしれない。あれだけ必死こいて受験勉強をした結果がこれか……と、鬱々としながらベッドに入る日々が続いた。



 それでも、実家と違って、黙っていても料理が出てきたり、服が洗濯されて置いてあるわけもない。日常生活は自分の手で営まなければならなかった。だから定期的に買い物をしに外には出ていたし、気晴らしに近所を散歩してみたりもした。


 ただ、胸糞が悪くなるほどに、抜けるような青空がどこまでも広がっていて、なんで僕はいまこの景色を独りぼっちで眺めているのだろう……と、余計に悲しくなったりもした。だからこそ、僕はこの空を眺めるということができなくなっていった。自由や可能性の象徴だったはずの、果てしなく続く空が、僕のことを閉じ込めているような気がしてならなくなったのだ。

 


 誰ともこの苦しみを共有できないという現実がまた、さらに僕を苦しめ続けた。別にすぐ、チャラくて毎日楽しい生活が待っているとも思わなかったけど、ここまで何もかもをいきなり失くしてしまうとは思わなかったのだ。


 サークルに入って、友達をつくって、朝まで遊び歩いて授業をすっとばしてみたりとか、そういう生活に全くあこがれを抱かなかったかと言われれば嘘になる。けれど、今は何もない。のっぺりとした壁を目の前に、手だけでよじ登れと言われている気持ちだ。僕の手からも口からも、蜘蛛のように糸を出すことはできない。ただ、首が痛くなるまで壁の上の方を、目を細めて見つめるだけの日々だった。




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 何も知らない街では何もやることがなくて、実家に戻っていた夏休みの終わり頃、ようやく後期から一部の科目で対面授業が再開されるという知らせが届いた。学校に行けることをこんなにも嬉しく思ったことは、小・中・高と経験してきて初めてのことだ。下手をすれば大学に受かったときよりも嬉しかったかもしれない。


 翌々日、僕は一人で暮らす街へ戻った。後期が始まるまでは、まだ一週間と少しある。やっと通えるようになったのは嬉しいけれど、少しくらいはイメージを膨らませておきたかった。対面授業になるのは週に二回程度しかないとはいえ、やっと大学生らしい過ごし方ができる。一時期は休学も考えていただけに、喜びもひとしおだった。すぐに友達ができる保証なんかどこにもないが、それはきっと他の新入生も同じはずだし、下手をすれば例年よりも作りやすいかもしれない。そう思うと、居ても立っても居られなかった。


 

 僕の大学のキャンパスは、車の入構制限がある以外、基本的に自由に出入りできる。ここの学生になって半年近く経つのに、僕は片手で数える程度にしか足を運んでいなかった。ウイルスが流行り始めた頃はさすがに人の姿もまばらだったそうだけど、今となってはさほど気に留めることもなくなってきたのか、ランニングをする一般市民の姿もみえる。キャンパスの敷地面積は国内屈指の広さだというから、特に不思議な光景でもなかった。


 もちろんどこになんの建物があるかもわからないから、スマートフォンで大学のホームページを開きながら、僕はキャンパスの奥の方へと進んでゆく。風が通り抜けてゆくたび、さわさわとカエデの木が葉を揺らしている。青々と茂るすがたを見るのは、来年以降の話になりそうだ。足元には早くも、紅葉して枝から落ちた葉が積もりはじめていた。


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