第3話 送る

 わたしからすれば、自分の左手薬指にはめられているリングが本当にプラチナなのかどうかということより、この生活を選んだ自分の決断が正しかったのかどうか……ということのほうが、よっぽど重要だった。



 家族になれば、仕事や予定の時以外は一緒に居られて、好きな時に言葉を交わせて、寄り添えて、肌を重ねられるものだと思っていた。だからこそわたしは結婚を望んだし、そういう相手を探していたとき、趣味や価値観が自然と重なり合う今の夫と出会った時は、これはもはや運命だと信じて疑わなかった。



 確かに、とてもいいひとだ。

 煙草も吸わず、ギャンブルもやらない。

 お酒はたまに飲むけど、家にビールの箱が常に一箱以上ないと気が済まないような人間でもない。



 共働きしていて生活費は折半だし、残った分のお金をわたしが何に使おうと、夫は特に咎めることもしなかった。おかげさまで、夫の仕事が立て込んできて家に帰ってくるのが遅くなったり、出張で家を空けることが多くなっても、わたしは(そりゃあね。仕事じゃしょうがないよね)と思って、自分の好きに過ごすようにして、隙間を埋めることができていた。


 なにより夫はそれなりに有名な企業に勤めていて、いまでは部下もいるようなポジションに就いているし、今日明日に生活が困窮するようなことになるとは考えにくかったし、そういう意味でも不安は少ない。

 




 知らない間に、人生における、だいたいのものは手に入れることができていた。


 

 気がしていた。





 そして、わたしはふと、自分が勘違いしていたことに気づいてしまったのだ。






 今の夫は、とてもいい夫だ。


 いいんだけど。





 わたしは、自分が望むときに寄り添ってくれる人なら、共に時間を過ごす相手が誰でもよかったのかもしれない。




 今の夫を愛していないわけじゃない。


 でも、あの人はいま、わたしのことをどれだけ愛してくれているのだろう。




 すべて満たしてくれると思っていた男に、ほんの少しの不足感というか、空隙を感じた。


 あとはセーターの糸がほつれていくように、わたし自身も自覚しないままで、心の中の穴が少しずつ広がっていったのだった。


 


 



 それまでは、友達とカフェに行ったり、ごはんを食べたり……なんて、今思えばずいぶん可愛らしい感じもする過ごし方をしていたけど、周囲も家庭に入ったり、仕事が忙しくて誘いにくくなる友達が増えていった。

 だからこそ、リアルの友達でなく「知らない人」と空白の時間を埋めていく方へ、わたしはハンドルを切っていった。



 本当の顔も名前もわからない相手と、マッチングアプリでメッセージをやりとりした。

 文字だけで足りなくなったら、写真を交換したり、通話をしてみたり。

 もし気が合えば、実際に会ってみたり。

 会ってみて、ただ食べたり飲んだりするだけじゃ飽き足らなくなったら、そういうことをしたり。

 


 人の心に手綱はつけられない。 

 その言葉は免罪符になり得ない。

 でも、わたしはそうでもして胸の中の欠落感を埋めないと、生きていられる自信がなかった。


 そんな自分が怖くなったし、相手と別れた後はいつも、このまま死んでしまいたくなるような罪悪感に苛まれた。

 わたしは今日も、一番近くて、遠い人のことを裏切った。

 そう思うと、家に帰って夫とまともに言葉を交わすのが怖くなってしまって、夫が帰る頃にはベッドで狸寝入りを決め込むこともあった。

 


 でも、どうしたらいいのか、もう自分でもよくわからなくなってしまっている。

 止まったら、死ぬかもしれない。その強迫感だけが、胸の中に残っていた。




 気づいたら壊れてしまっていた心の部品のひとつを片手に、考える。




 わたしは本当は、何が欲しかったんだろうか。





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 今日も、夫は遠くの街へ出張に出ることになっていた。

 わたしの仕事が休みだったのは本当だったから、それを理由にして、夫を見送りに、一緒に駅までやってきた。



 ここで夫を見送った後に、また、アプリで知り合った男と会う約束がある。

 次に夫が帰ってくるのは、明後日。

 その間もずっと一人で過ごすのに、耐えられる自信がなかったのだ。



「じゃ、これ乗ってくから」



 夫が、電光掲示板の時刻表示を指差してみせる。



「何かあったら、ちゃんと連絡してね?」

「ああ、判った。行ってくるよ」



 そう言って改札を通り抜ける夫の後姿を、いかにも「すてきな奥さん」みたいな顔をして、わたしは見つめていた。



 すると、夫は改札に引っかかって、通り過ぎるはずの改札機に行く手を阻まれたようだった。 

 ピンポン、というエラー音が鳴っているし、いつまでもその背中が人波に消えていかなかったから、それがわかった。



 それに気づいた男性駅員が、夫のいるところへ、すっと駆けてくる。

 その駅員は改札機を開けると、てきぱきと機械の調整をしていた。

 機械のカバーを閉めた駅員は、夫に何事か話しかける。

 すると夫の手が再びカードを改札機にタッチして、今度こそ、ドアが開いたのが見えた。



 

 残額不足だったのかな。

 



 そんなふうに、のんびりした推測をしていたら、夫が少しだけ恥ずかしそうにこちらを振り向いた。

 見られちゃったな、とでも言いたげに。




 それにつられるように、夫のすぐ隣にいた、愛想笑いを浮かべた駅員の顔もこちらの方を向く。







 あら。


 はじめまして。


 写真より、頬が少し痩せてるね。






 待ち合わせ時間より少し早い、突然の顔合わせに、わたしはにっこりと手を振ってみせた。


 コンコースの奥へ消えていく夫の背中は、もう視界に入っていなかった。




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結節点 西野 夏葉 @natsuha

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