第2話 行く

(こうはなりたくないな……)と思っていた大人の姿に、毎日じりじりと近づいている。



 そんな自覚こそあれ、俺はいつも、そうすることこそが本来は正しいのであって、あの頃に(こうはなりたくない)と思っていた自分は何も知らなかっただけなのだと言い聞かせている。そうしなければ、守れないものがある。気持ちだけで守れるなんて、虚構の世界の中だけの話だ。


 生きるためには働かなきゃいけないんだ。

 そうわかってはいるのだが。



 朝早く仕事に出て、夜遅くに帰る生活が続いている。

 昨年に部署が変わり、激務と長時間労働が正義とされる部署に配属となってからはそれが顕著で、家族の顔を見るときはたいてい寝顔だし、声を聞くとすれば、寝息か寝言が8割を超えている。加えて最近は、出張に出ることも多くなって、寝顔や寝息どころか、顔も拝めず声も聞けない日も多くなった。なんのために生きているのかわからなくなるときもあるが、問われたときに俺はやっぱり「家庭を守るために」と答えるんだろうな。



 そうでないのなら、こんなクソゲーみたいな人生、やってられるか。




「飛行機、何時だっけ?」


 

 我が家は共働きなので、ふだん出張に向かう時は一人で駅まで来るのだが、今日はたまたま仕事が休みだったという妻が、見送りに来ていた。

 妻の言葉に、スマホに入れておいた搭乗券代わりのスクリーンショットを開いて、もう一度時間を確認する。



「16時だから、余裕で間に合うよ」

「そんなこと言って。油断したらだめだよ?」

「わかってるって」



 そして、どうせ明後日には帰ってくるんだぞ……と言うと「違う。明後日まで帰ってこないんだよ」と真顔で返された。俺の感覚がバカになっていたのを思い出させてくれた妻には、感謝することしかできない。


 発車案内板に、俺が乗る空港快速の時刻とホーム番号が表示されていた。ホームに向かう途中に、すぐそこの自販機の陰からモンスターとかが出てこなければ、余裕で間に合うだろう。



「じゃ、これ乗ってくから」



 妻は、こくりと頷いた。そして、一言、念を押すみたいに付け加えてくる。



「何かあったら、ちゃんと連絡してね?」

「ああ、判った。行ってくるよ」



 たかが数日間の国内出張だ。特に何が起こるわけでもないだろうに、心配性だな。

 まあ、妻のそういうところも、決して嫌いではないのだが。

 振り返らず、右手だけ挙げて、俺は改札機の前に歩み出ると、ICカードをタッチする。



 刹那。



 ♪ピンポーーーーーーーン



 そんなふうに大きな音が鳴った割には、改札機のドアは開かず、進路を阻まれた。


 なぜ? と思い、改札機についているモニターを見ると「係員をお呼びください」と表示がされていた。

 カードの残高は十分あるはずだし、残高が初乗り運賃の金額以上あれば、出るときはともかく改札に入るときは問題なく通ることができるのに。



 すぐに駅員がすっ飛んできて、改札機のカバーをぱっくりと開けると、中にある何がしかのメカを、ちょいちょいと弄っていた。



「恐れ入ります、もう一度タッチしていただけますか」



 言われた通りにすると、さっき弾かれたときは「♪ピンポン」の音が鳴ったのに、今は素っ気なく「バタンッ」とドアが開くだけだった。逆だろ普通。通れた時にピンポン鳴らした方がよくないか、心情的に。

 思いつつ、何事もなく改札を通り抜ける。



 失礼いたしました、と隣で頭を下げる駅員には軽く会釈をして、今度は改札の外の方へ振り返る。

 妻が、にこにこと笑いえくぼを浮かべながら、手を振っていた。

 振り返った時にはもういないと思っていたから、そこでまだ見送ってくれていたということが、意外だった。


 その笑顔を見るとなんだかもう出張とかどうでもよくなった気もしたし、今の一連の流れもすべて見られていたかと思うとなんだか急に恥ずかしくて、俺はもう一度手だけひょいと挙げるだけで、それにこたえた。

 


 とりあえず、いきなり出鼻をくじかれたような気もしたが、ホームに繋がるエスカレーターの方へ進路を向けた。

 今日はただの前泊だし、ホテルについたらとっとと寝てしまおう。

 


 まあ、たまに一本くらい缶ビールを空けても、バチは当たらないだろうけど。

 せっかく早い時間から、ぐっすりと寝られる日だしな。

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