第6話:デビュタントに向けて-2
それからというものの、碧衣には、テーブルマナーやダンスレッスンなどの、いわゆる”貴族の、
碧衣がビスクレア夫妻の家に馬車で移動すること数分。徒歩で行けるのではないか?と思うほど近場にあるその家からは、クロードの家の大きな屋根がビスクレア夫妻の家を囲っている木々の間からかすかに見えた。
「アオイ、いらっしゃい」
「おはようございます」
碧衣が玄関を抜けると、いつものようにジークがにっこり笑って碧衣を出迎える。
「今日はなんの授業が入っているのかな?」
「はい。アオイ様の今日の授業は、語学、政治学、ダンスレッスンです」
ジークの後ろに控えている執事が紙を見ながらいう。
「テーブルマナーはもういいのかい?」
「はい。私も確認いたしましたが完璧です」
「そう」
ジークは優しく笑って碧衣の頭を撫でる。
正直、碧衣は頭を撫でられ慣れていないため、ジークが碧衣の頭を撫でるとき、碧衣はなんとも形容しがたい気持ちになっていた。
「アオイ、偉いね。もうテーブルマナーを完璧にこなすなんて」
「いえ。そんなことは」
「謙遜しなくてもいいんだよ」
「……」
実際、碧衣にとって、この世界のテーブルマナーは簡単だった。──というよりも、前の世界の復習のようなものだった。
箸は使わないから使うのはナイフとフォーク、スプーンだけ。幼い頃からテーブルマナーなどを厳しくしつけられてきた碧衣にとって、この世界のテーブルマナーは容易いことだったのだ。
──と、いうよりも、碧衣はテーブルマナーで褒められることはなく、いつも叱られてばかりだった。完璧にできたとしても、『そのようなことできて当然』といった家庭で過ごしてきたため、碧衣にとっては、『たかがテーブルマナーでなぜこんなにも褒められるのだろうか』といった疑問が頭を渦巻いていた。
「では、今から語学を始めます」
語学担当の…………誰だっけ、と記憶をたどりながら話を聞く碧衣。
この世界の言語は英語と似ている、というかほぼ英語なのではないかと思っている。
「──ですからこの場合、主語はこちらで表現されます」
黒板をじっと見ながらふむふむと聞く碧衣。
「アオイ様」
ノートも取らず、記録用の水晶──ここでは”記録水晶”というんだとか。にも記録せず、ただただ教科書と目の前でしゃべる人に視線が行き来するだけの碧衣に、とうとう教師が声を上げた。
「何でしょうか」
「アオイ様、このトランバルド。恐れながら申し上げますが時間は有限です。授業の内容は何かしら記録したほうがよろしいかと存じますが」
ドランバルドは度のきつそうなフレームの細いメガネをくいっと指で押し上げる。
「そうだぞ、アオイ。頭でなんて完全に覚えらんないんだからな」
「アーノルド様、アオイ様に対して何という口の聞き方」
「あぁ、大丈夫ですから」
碧衣は真横でまっさらなテキストを見るアーノルドの顔をぐいっと距離を取るように押す。
──この人、やっぱ距離感おかしい。
「あの[碧衣~、聞いてよぉ]……セイ、重い」
記録は、と言う前に後ろにズシッとした重みと同時に体が癒されるような香りが鼻腔をくすぐる。
グスグスと鼻を啜る音を立てたセイは碧衣の使っている机の上に正座し、涙で濡れた目を着物の袖口で拭う。背が高く、薄い黄緑の短髪にその瞳を持っていて、黙っていればモテるというのに驚くほど泣き虫というそのモテ要素すべてを無に帰す要因を持っているのがこの神である。
「……何があったの」
このままでは何も進まない、そう感じた碧衣はセイの目の前で頬杖をついてすっと目を細める。
[フウガが、フウガが……!]
碧衣はセイの背中越しにドランバルドを見るが、難しそうな顔(だいたいいつもこんな顔)をしている以上、多分、セイが何を言ってるのかわからないのだろう。
「フウガにまたなんかされたの?」
[フウガがなにに怒ってるかわからないけど、最近僕の土地の木を倒すんだ!]
そう言い切ったとほぼ同時にセイは、わーん!と激しく泣き始める。
「それはフウガに言わないとわからないでしょ。……多分またセレナと喧嘩したとか」
[だからって僕に当たることないじゃんか!!喧嘩して土地壊すバカ姉が嫌で土地離したのに!!]
──そんなことで土地を分割するんじゃない。
あぁ、だからか。と碧衣は数年前の事件を思い出す。
あれは私が小学4年生か5年生だったかの頃。
隣の市で”一部の土地に作物が育たなくなった”との噂が流れ始め、興味本位で行ったとき、そのときに確かまだ小さい姿のフウガが同じく小さい姿のセレナと喧嘩してて私がおさめたんだっけか。その場所が確か土地が痩せてしまった場所で、その後は難なく生活できてたとの話も聞いた。
──あのときの元凶あんたも絡んでたのかよ!!
碧衣自身が知識として知っている神は、基本的に同じ土地を長きに渡って守護する傾向にある。あちこちに土地を放浪する神は基本的に”式”といって自分の配下的存在、これは神でもあやかしでもなんでもいいのだが、それらを多く従えているものか、自身に守護する土地がないものの二極化である。
特に碧衣と契約している神は前者に類しているため碧衣の前にいても土地が枯れることはない、のだが。
長きに渡って守護されている土地に、新しい神としてそこに行くと守護が2重になるために稀に守護が強い地、簡単に言えば神が社としている地が痩せることがある。
特にそれは神同士血縁が近ければ近いほど起こることなのだが。
まさか目の前にいたなんて……と碧衣は頭を抱える。
「セイ」
泣き止んで碧衣の使う教材や黒板に書かれた字に興味津々のセイは部屋を自由気ままに浮遊している。
さすがのドランバルドもこれは驚いたようで、セイの様子をぽかんと口を開けて見ていた。
「とにかくセレナと話してきなよ」
[今セレナ機嫌悪いから無理]
天井にふよふよと浮くセイの方を見ていればこっちの首が痛くなる。
碧衣は、はぁ、とため息を付いて外を見る。
[あ、そういえばこの前スイに自己紹介しとけって言われたんだった]
セイは思い出したようにいえば、碧衣の前に立ち、碧衣の後ろに出てきたときのような香りを放ってにっこりを笑みを浮かべる。
[僕の名前はセイ。癒やしの神だよ。僕と似た顔でセレナっていう腹黒バカとは違うから、よろしく]
「あ[誰が腹黒ですって?]」
ドランバルドがなにか言いかけたとき、ドランバルドの真横からセイを女装させたような腰まである髪をなびかせて出てくる。
さすがのドランバルドもびっくりしたのか、腰が抜けたようにヘナヘナと近くの椅子に座る。
[実際馬鹿だし腹黒じゃないか!つかセレナのせいで僕の土地の木がまた倒れたんだけど!?]
[あれはフウガが悪いのよ]
セレナは頬を膨らませてぷいっとそっぽを向く。
「何があったのよ」
[あら!あらあらあらあら!碧衣じゃないの!]
碧衣が口を挟めば、二重の大きな瞳をさらに大きくしてセレナは碧衣に抱きつく。
セイと同じ治癒の神だけれど、セイとは違う深い森林の中にいるような香りがする。
[久しぶりね!最近呼んでくれないから忘れられたのかと思ったわ]
「そんなことないけど……って、最近フウガとまた何かあったの?」
抱きしめられたまま聞けば、セレナはふと静かになり、般若のような顔をして碧衣から離れる。
「セレナ……?」
[あいつが、あいつが悪いのよ!]
──おぅ……。かなりの怒りっぷりだ。
[フウガの奴……いろんな女神にふらっふらふらっふらと……]
「まぁ……言いたいことはわかった」
このまま放置すれば隠世が壊れかねない、と判断した碧衣は事態を収集しようとセレナをまずは落ち着かせることにする。
「フウガのそれは昔からだけど、セレナとフウガは許嫁だからねぇ。許せないのも理解できる」
[でしょ!?]
同意してくれた碧衣が相当嬉しかったのか、大きく頷くセレナ。
「でも今回のことは相当セイも困ってるみたいだけど」
チラリ、とセイを見れば、セイは今にも泣きそうだけど怒った表情で碧衣とセレナを見ていた。
[……だから、それはフウガに言わないと知らないわよ]
ほんの少し、ほんの少しだけ目を泳がせたセレナを碧衣は見逃すことはなかった。
──何年一緒にいて見てきてると思ってるのよ。
「セレナ、何か隠してるでしょう」
[うっ……な、何も隠してないわよ]
「何年、一緒にいると思ってるの」
碧衣がじっとセレナの顔を見つめれば、[わかったわよ!]とセレナは諦めたというように両手を上げて答える。
[フウガに、この前そんなに浮気するなら許嫁辞めるって言ったのよ]
「……は?」
今までなかった展開に碧衣もその場にいたセイも動きが止まる。
「今までそんなこと言ったことないじゃない」
今までのセレナは何があってもフウガと分かれるような選択はしなかったはずだ。なのに、何故。
[疲れたのよ。フウガの行動に振り回されるのに。…………とにかく。私は帰るから。詳しいことはフウガに聞いて。私は知らない。……あ、そうだ]
セレナは思い出したように長い袖で口元を隠し、すっと流れるようにドランバルドの前に立つ。
[セレナよ]
それだけ行ったセレナは森林の香りを残して本当に帰ってしまった。
「……アオイ様」
すっかり腰の抜けたドランバルドは青い顔をして碧衣を見る。
「彼らは、何なんですか」
「ん~、私の友達、ですね」
碧衣の答えにアーノルドは声を殺してクツクツと笑っている。
「私には何を話しているのかさっぱりでしたが……。アオイ様はわかってらっしゃるのですよね?」
「えぇ、まぁ」
理解できないと意味無いし……ね?
碧衣がそう答えれば、ドランバルドは信じられない、といった顔で碧衣を見る。
「ドランバルド、その話はもうすでにうちの主人たちがしてるよ」
アーノルドが助け舟のように言えば、ホッとした顔をして授業を再開しようと教科書を片手に黒板の前に立ち、それをみた碧衣は再度黒板をじっと見つめる。
「……では再開したいと思います。……が。アオイ様。せめて私の授業に関して重要事項はメモなどをお願いします」
メガネをくいっと押し上げ、碧衣の前に置かれたまっさらな碧衣のいた世界では紙とは到底言えない触感の紙を視線で示す。
「いや、だから私は[碧衣はメモなんか取らなくても覚えてるよ]……まぁ、そんなとこです」
セイが碧衣の言葉に被せるように言えば、碧衣は肩を軽くすくめて軽く答える。
[信じられないならテストでもやってみれば]
今回のことがセレナではなくフウガが深く関わっていると理解したセイはフウガとあまり関わりたくないようで、[何かあったらすぐ僕を呼んでね]と碧衣に残し、ふっと消えた。
「……テスト、します?」
「試しにしてみましょう」
碧衣の言葉でドランバルドは今からを自習とし、意気揚々とテストを作成していく。範囲は今まで学習したところ。碧衣はその時間でパラパラと教科書に目を通していく。
「なぁアオイ。大丈夫なのか?あいつが作るテストはえげつないくらい難しいぞ」
「へぇ」
苦い顔をしていうアーノルドに対して碧衣は空返事をしていく。彼がそこまで嫌な顔をして言うのだ。ドランバルドは相当癖のあるテストを作成するのだろうと碧衣は思いながら要点だけまとめていく。
「では、時間なので始めましょうか」
心なしか目をキラキラさせたドランバルドは碧衣の前にテストを置く。
「時間は30分です。ついでにアーノルド様も久しぶりに行いましょう」
「は!?なんで俺まで「では、始めてください」」
ブツブツ小言を言うアーノルドを隣に、碧衣は最初から最後までまず問題に目を通し、解ける問題からせっせと解いていく。
その様子をドランバルドは最初は、さすがにひねった問題を入れたし解けまいとワクワクした様子で見ていたが、サクサク解いていく碧衣の様子にだんだんと余裕はなくなっていた。
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