安全阻害行為

西野 夏葉

第1話でおわるよ。

<ご搭乗の皆様へ、操縦席からご挨拶申し上げます……>



 機長のアナウンスによれば、いま俺は高度3万3000フィート、だいたい1万メートルの空の上にいるそうだ。その中を時速850km以上でカッ飛んでるっていうのに、俺は地上にいるときとなんら変わりなく、無料サービスのホットコーヒーを飲み干して、これまた無料のキットカットをボリボリと噛み砕き、胃に送り込んだところである。


 以前、飛行機嫌いの友人が「なんであんな鉄の塊が空を飛べるのかがわからない」と言うので、翼があることで生じる揚力の原理とかそういう話をしてやったら「そういうとこだぞ」と言われた。わからんって言ったのおまえじゃん。なんか悪いことしたのか? 俺。





 俺は飛行機に乗るのが好きだから、座席は必ず窓側を取ることにしている。ただでさえクソ狭い中をトイレに立ちたくないし、基本的に搭乗して座ったら、次に立つのは目的地に着いたときになるよう気を付けていた。だから今日もこうして、角が丸くなった窓の外にジオラマのごとく広がる、どこだかさっぱりわからない街の景色を眺めている。


 俺という存在をいっさい知ることのないまま生まれては死んでいく命たちの頭上はるか彼方を、マッハ0.8くらいで飛び去ってゆく。そういうのがなんとなく心地よいというか、なんというか。基本的に中学生から頭の中が進化していない証拠のようにも思えた。





 しかし、今日は少しばかり、疲れた。

 いつもは余裕をもって空港に向かうのに、今日はぎりぎりまでタスクを片付けてから転がるように空港快速に乗って、保安検査を通り、飛行機に乗ったのだった。いつもなら空港の飲食フロアで立ち食い寿司を喰って、ついでにビールとかグビリと飲んじゃったりするのが楽しみなのに、搭乗時刻がギリギリでそんなことをする暇がなかった。

 おかげさまで空港でトイレにも行けなかったから、今更、ちょっと催してきてしまったし。



 3人掛けシートが通路の左右に並ぶ機内で、窓側の俺の隣2席には、たまたま他の乗客が座っていなかった。珍しい話だ。いつもなら真ん中だけ空いて、通路側に一人誰かが座っていることが多いだけに、横がスカスカで、なんだか逆にむずがゆい感じもする。


 けれど、おかげで気兼ねなくトイレに立つことができそうだ。やばいやばい。さっきの機長アナウンスでは<現在は宮城県・仙台上空を順調に飛行中です>と言っていた。いくらマッハ0.8で飛んでたって、新千歳から飛び立ってから、まだ仙台だろ? この感じ、どう頑張っても羽田空港のトイレまで我慢できる気がしないもんな。



 頭上のシートベルトサインが消えていることをもう一度確認し、ベルトのバックルを外した俺は、機内後方にあるトイレに向かった。




***




 いやあ出すもの出したら気持ちがいいねえ、なんて口にはせずとも心でつぶやきながら席に戻るとき、俺の一つ後ろの列、窓側とそのすぐ隣の席に並ぶ人の頭が見えた。

 空席があるのなら敢えて他人の隣に座りたくなどないだろうし、家族かカップルでも座ってんのかな……と思ったとき、俺の頭の中でトイレに行く前の記憶がシュッと呼び戻された。



 さっきトイレに立つとき、真ん中の席、空いてなかったっけ?



 いや、空いてたよ、きっと。俺は席を立って後ろ側のトイレに行ったから、その時に真後ろの席なんて嫌でも目に入る。そのとき、3列あるうちの真ん中だけ空席で、通路側と窓側に一人ずつ座ってた。

 少しずつ席に近づきながら、俺は呼び戻した記憶を解析する。




 そんで窓側席には、若い女の子がいて、通路側は―――。




 そうそう。

 リーダーで読み取ったら金額表示が出そうなバーコード頭の、おっさんだ。


 



 いま、そのバーコード頭が、窓側に座る彼女の隣の席にあった。





 俺は、何食わぬ顔でその二人の前列の、自分の席に腰を下ろした。

 ベルトは締めずに。

 まだシートベルトサインの点く前だ。本来は締めるべきだが、まだ締めていなくてもキャビンアテンダントに叱られることはない。



 ホワイトノイズの森の中で、俺は背もたれに身体をあずけながら、後席の会話に耳をそばだてた。意識を集中させる。

 予想は的中していた。




 このおっさん、窓側の女の子に言い寄ってやんのな。




 どっから来てどこに行くのか、何しに行くのか、LINEやってんのか、ID教えてよ。

 その他エトセトラエトセトラ、流し聞きしていてもまさに気持ち悪さの見本市だ。飛行機に乗る金があるなら、マッチングアプリにでも登録すればいいのに。そしてジャブジャブ課金してメッセージした相手がサクラだったことに気づいて絶望すればいいよ、こんなおっさん。


 さっきトイレに行ってすっきりしたはずなのに、俺は出発前からいつものルーティンが乱されたせいで多少気が立っていたし、彼女はきっぱり嫌だと言えないらしく、ずっと微かに怯えたような、言葉になりきらない声をあげていた。


 



 知ってしまったし、しょうがない。


 一丁、やるか。




 戻ってきた時にシートベルトを締めなかった俺は、無駄な動作もなく、すっと立ち上がると後席に振り返る。





「なあなあ、真悠子まゆこ





 もちろん俺はその子の名前なんか知らないんだけど、とりあえずそうやって話しかけた。彼女も、隣のバーコードも、驚いた表情をしている。

 俺は視線に(自分に合わせて適当にしゃべれ)という念を込める。

 彼女にそれが届くかどうかは知らない。でも、どうにか意図さえ汲んでくれれば、なんとかうまく片付けられるかもしれない。




 どうにかならなかったら?


 知らん。もうどうにでもなっちまえ。

 俺は寿司が喰えなくて少々ご立腹なんだよ。ついでに言うなら空腹だ。どうなってんだよ、俺の身体構造。

 



「羽田に着いたらさあ、どっかでメシ食わん? 俺、もう腹減っちゃって我慢できないんだよね」



 俺の腹が減っているのは事実だし、東京に着いたら何か食べようとは本当に思っているので、このセリフは明らかに真実味を帯びて届いたはずだ。たぶん。

 彼女はなかなか言葉を紡げない様子で、薄く開いた唇からは未だに声が聞こえてこない。

 隣のバーコードは怪訝そうな目線を俺に向けてきている。


 ううん、なんでもいいから返事してくんないかなあ。このままだと俺の方が変態になっちまう。


 やばいかな、と思いかけたところで、彼女の唇が静かに動いた。




「……なに、食べる?」



 やっとこさ、天から下がってきた蜘蛛の糸を、俺は両手ではっきりと掴む。



「んー。マックかな」

「どこでも食べられるじゃん、それ」

「どこでも食えるからいいんだろ。芋食おう、芋」

「また、そんな言い方……ポテトって言いなさいよ」

「いいじゃん、別に」



 あえて薄っぺらく彼女に笑いかけると、彼女もあわせて口元を笑みのかたちに変えた。

 うん、とひとつ頷くと、俺は表情を一気に真顔へ戻した。

 そして、隣で呆気に取られているバーコードに向かって、一言だけ。



「……んで、おじさん、俺の彼女に何か用?」





***




「……お、出てったな、あのハゲ。たぶんもうこれで大丈夫でしょ」

「本当に、すみませんでした」

「いいって、全然。ちゃんと乗っかってきてくれたおかげで、むしろ俺の方が助かった」



 俺はおっさんを先に降機させるようにして、彼女と一緒に飛行機を降りた。一応はしばらく、本当にカップルのふりをしておいた方がいいと思ったのだ。


 いま、リムジンバスの乗り場のほうへ消えてゆくおっさんの頭のバーコードは、今は少しくしゃっとしていたので、リーダーで読んでもエラーで弾かれるに違いない。というか同じ男として言うけど、女の嫌がることをする男なんて存在自体がエラーなんだよ、くそったれが。


 手荷物受取所で、ベルトコンベアからスーツケースを引っ張り上げたところの彼女に、俺は訊いた。



「あとは、一人で帰れそう?」

「はい、大丈夫です。迎えが来ることになっているので」

「そう。迎えに来るのは、彼氏かな」

「……どうしてですか?」

「んー、それ見て、なんとなくそんな気がしただけ」



 俺は、彼女の右手を指差した。

 薬指にはめられた指輪が、白い光をはね返している。



「左手じゃなくて右手なら、旦那じゃなくて彼氏なのかなと思って。当たってた?」

「……はい」



 彼女は右手を覆い隠すように、自分の左手をそっと重ねた。

 まあ、別に俺はここから始まるラブストーリーとかそういうのを期待してこういう行為に及んだわけじゃない。

 なので、美しくこのような大団円を迎えられたことがとても喜ばしいと、素直に思える。誰も傷つかず、誰に迷惑もかけなかったんじゃないだろうか。せいぜい俺が背中にイヤな汗をかいたくらいで。



 肩の力を抜いて、俺は彼女に微笑みかける。



「なら、大丈夫そうだね。……それじゃ、この先も気を付けて」

「あっ、すみません」

「うん?」



 彼氏とやらが現れる前に、さっさとずらかろうと歩き出した俺のことを、彼女が急に呼び止めてきた。

 振り返ると、彼女が数歩、俺のほうに近づいてきてから言った。



「……さっき、声をかけてくださったときの名前って」

「あ? あー……」



 それは、拾ってくれなくてもよかったんだけどな。

 無意識に、俺は自分の頬を人差し指で、ぽりぽりひっかいていた。



 というか、なんであの名前で呼んじゃったんだろう、あの時の俺は。


 馬鹿。




「……元カノの名前で、思わず呼んじゃった。ごめん」

「ふふ。そうだったんですか」



 はじめて目にした彼女の笑顔は、どこか胸をくすぐる、あでやかさがあった。普段は見せないこうした一面を、きっと彼氏にだけは見せているのだろう。

 それがたまたま、いま、少しだけ本当にこぼれ出てきただけで、それ以上でもそれ以下でもない。




 俺は、目の前にいる彼女にとっての、特別になりたかったわけじゃない。


 でも、これ以上彼女の笑顔を見ていると、なんとなくまずい気がする。


 よけいなことを考える前に、行こ行こ。



 彼女のその先の言葉を待たずに向き直った俺は、片手だけをひょいと挙げて、先に到着ロビーへ出た。

 地下の空港駅へ続くエスカレーターに乗る。





 晩飯こそは寿司食おう、寿司。




 気を紛らわすために、うわ言のように、独り言を呟いた。


 男なんてずいぶんつまんねえ生き物だな、と思いつつ。



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安全阻害行為 西野 夏葉 @natsuha

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