第3話


 考えたら、俺だって社会人になって数年、ずっと仕事に対して真面目に取り組んできたのに、毎日のようにノルマにケツを刺され、上から上司に押し潰され、横からは「彼女は」「結婚は」「子供は」ばかりの毎日を送ってきた。どいつもこいつも好き勝手なことばかり言う。いま一番やりたくない仕事は、と問われたら「内閣総理大臣」って言うだろうな、俺は。


 でも、俺よりも気楽に、悪く言うのなら適当に毎日を送っていて、それでいて俺が全方位から受けているこれらの圧力や攻撃に一切さらされずに生きている奴なんてごまんといる。

 それら全てが運命や日頃の行いのせいだと言うのは、あまりにも乱暴すぎやしないか。




 俺は箸を置いた。




「その男って、そういう男だったのか?」

「え?」




 ぽかんとして、口を半開きにしながら、女がこちらに顔を向けてくる。たまたま俺も女の方を向いて話していたから、ここにきて初めて、しっかりと相対することとなった。



 なるほど、これが正面から見るとなかなかに整った顔をしている。ぶっちゃけた話、俺が数日前に別れた彼女よりも、はるかに美しい顔だった。

 この女の「元・彼氏」とヨロシクやっていたという、もう一人の女がどんな顔だったのかなんて俺に知る術などないが、この女と同等かそれ以上だったのだろう……と思うと、なんだか今から俺もブン殴りに行きたくなってきた。


 それは単純に「自分はこんな綺麗な女と付き合えないのにお前という奴は!」という妬みのほかに、もう一つの感情が強く作用している気もする。




 綺麗であろうがなかろうが、自分のせいで女を泣かす男なんてクソだ。

 俺も含めて。


 むしろ零れる涙を拭ってやれ、バカ野郎。

 もちろん、俺も含めて。




 だったら。

 



「だからさ。その元カレって、自分に対して真摯に、一途に向き合ってきたと思うか?」

「うーん……」

「というか、ちなみに元カレのどこが一番好きだったんだ」

「……外見?」

「あー。はい。……あっざす」



 いつの間にか、女の前に置かれていたお湯割りのコップを、今度は俺が奪い取った。



 それに気づいて、ぁ、なんて吐息を漏らす女を尻目に、俺はコップの中身をぐいと呷る。

 これがまた、熱いんだよ。なんでだ、さっきなんてちょうどいい人肌だったじゃん、じいさん。そこは俺がぐいっと全部飲む流れじゃん。約束じゃん、それは。


 結局さっきの女と違い、三分の一程度しか喉に流し込めなかった。ちきしょー因果応報……と苦虫を噛み潰したみたいな顔をする女。

 知らないふりをしつつ、焼けつくような食道の前途を憂いながら、俺はもっともらしい口調で続けた。

 


「だからそういうことなんだって。確かに外見云々って大事だとは思うけど。でも、ずっと長く付き合っていこうと思ったらまた別の要素が必要になるじゃん。性格や価値観合わないやつと一緒にいるの、イヤだろ」

「いやだ」

「ちなみに元カレは?」

「価値観は不一致、だが外見は合致」

「芸能人カップルの破局理由みたいに言うな。そもそもそれって、あんまり真面目に向き合えてねえぞ」

「……」

「この人と一緒にいても自分にプラスにならないなあ……って思った奴と過ごした時間って、後で思い返したら、人生において最高レベルに無駄なんだぞ。だからまあ、今回はそれが五日間だけで済んだのならまだ一週間まで経たなくてよかったねって……ああ、フォローになってねえな、これ」

「んぶっ……あはっはっはっはっ」



 選抜に選ばれなかった吹奏楽部員みたいな顔をしていた女は、俺が内心(やばい、口が滑った)と思ったあたりで、げらげらと笑いはじめる。

 口は滑ったけど違う意味では滑らなくてよかったね……ってことなのだろうか。よくわからんけど。

 まあ、嘘は言ってないし。どうせ長い時間を誰かと付き合うのなら、お互いにとって一番幸せな高さの周波数に合わせて生きていきたいと思うものじゃないだろうか。少なくとも俺はそうなんだが。

 


「いやー」とまだ尾を引く笑いを漏らしながら、女は言う。



「お兄さん、なかなか面白いこと言うね」

「そうかな。盛大な妬みと嫉みがここにあった気がするけど」

「……ね、もう一軒行こうよ」

「へ? まだ飲む気なのか」

「だって、お兄さんは全然飲んでないじゃん。いま焼酎なら、次はワインかな」

「大阪旅行は行ったから次は京都かな、みたいなノリで言うなよ」

「いいから。ほら、乾杯」



 女が俺のコップを、強引に手に握らせてきた。


 さっきよりも、はっきりと俺の手に自分の手をかぶせながら。


 そして、女も自分のコップを手に取る。

 俺が飲んだ後に女も飲んでいたから、今はお互いに量はイーブンくらいだ。


 女は相変わらず、酒臭さと香水臭さをまぜこぜにしながら、高らかに宣言する。




「はい、それではいいですか。乾杯という字は……」

「杯を乾かすって書きます、だろ」

「なんで知ってんの!」

「大学時代に死ぬほど聞いたっての、この台詞。……まあいいよ、こっちもたくさん飲みたい気分になってきた」

「なら話は早い」



 女は、車のアクセルとブレーキを踏み間違えたのと同じ勢いで、コップをぶつけてきた。

 そのまま、コップの中身をみるみるうちに空っぽにしてゆく。白い喉が上下していくのがなんだか目に毒やらなんやらで、たまらず俺もそれに続いた。


 だん、とカウンターにコップを置いた女は、俺に向かって笑いかけてくる。

 それも、たまらなく、妖しく。




「……今夜は帰さないからね、お兄さん」





 かっ、と胸の奥の温度が上がった心地がした。


 湯気の向こうで、すっかり屋台の付属品となった店主のじいさんが、目を細めながらこちらを眺めている。

 




 寒空の下。


 木枯らしが吹くとともに、長い敗者復活戦が始まる予感がした。



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due to fog 西野 夏葉 @natsuha

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