第2話
先に座っていたのは、見た目は俺と同い年くらいの女だった。
すっかり酔っ払っているのか、申し訳程度に取り付けられた明かりを眺める横顔は、つんと蚊に刺されたみたいに赤く染まっている。目も潤んでいるだけで、ちゃんと焦点が定まっていなさそうな感じだった。胸の辺りまである長い黒髪は、少しばかり乱れている。
とはいえ、俺にはそんなことなどまったく関係がないので、知らんふりをしながら何点かのおでんと、お湯割りの焼酎をオーダーした。
「ね」
聞こえん。
「ねえってば」
聞こえねえ。
「ねえってばあ!」
「聞こえねえってんだよ!」
「あっははは! しっかり聞こえてら!」
女はひどく酔っていた。あっはは、と笑い声を溢れ出させている口からは、アルコールのにおいがぷんぷんとにおう。それだけならまだいいかもしれないが、そこに香水のにおいが追いかけるように漂ってくるのにはまいった。こんな場所で安い焼酎のにおいと混ぜられるドルチェアンドガッバーナの気持ち考えたことあんのか。
香水のことも俺のことも考えてない様子の女は、ばん、と俺の肩に掌を叩きつけるように置く。
「ちょーっと、お兄さん。聞いてよあたしの武勇伝」
「やめろ。においだけでなく、いろんな芸人のネタまで混ぜて話しかけるな」
「恋人五日で寝取られた」
「すごい、あんたの気持ちは看取られた」
「武勇伝、武勇伝」
「だからうるせえっつってんだろ」
「うるせえ、とは言ってなかったじゃん。聞こえねえ、とは言ってたけど」
「本当に酔ってんのか? 揚げ足取りが的確過ぎるぞ」
「うはっはっはっ」
勝手にバカウケしている女をよそに、店主のじいさんがさっき頼んだ品物を目の前に並べてゆく。けれども女の笑い声がデカいもんだから、じいさんの言葉はほぼ「……っす」しか聞こえなくて、まるでやる気のないコンビニのバイトみたいになっていた。
「あぁーざっす」
刹那、女は俺の目の前に置かれたお湯割りのコップをかすめ取って、一気に半分くらいを呷っていった。
あぁ、とか、えぇ、とかそういう言葉しか唇から出て行かなかった。あまりにも突然なことに遭遇した人間なんてみんなこんなもんなんだろうな。トラックに跳ねられる2秒前の気持ちを体感できたような気がしなくもない。
しかしだ。
「あざぁっすじゃねえよ、勝手に人の酒を飲むな」
俺は女の手からコップを奪い返す。案外、女は俺がコップをちゃんと持ったのを確認してから、そっと手を引いていった。
一瞬触れた女の手の感触が妙に滑らかで、なぜだか俺は少し恐ろしくなった。
もうどうでもいいや、とそのまま同じようにお湯割りを喉に流し込んだ。熱すぎずぬるすぎない温度が、つーっ……と身体の真ん中を滑り落ちてゆく。
「あぁ」
「美味しい?」
「ん?」
「お酒」
「……美味いけど」
「そりゃあ美味しいでしょ。あたしが口つけたやつなんだから」
「あのさ。その自信ってどっから湧き出てんの? 歩く油田なのか?」
「油田ね! 本当に油田だったら、自分もろともあの男のこと爆殺してやったのに」
「しかもさっきのネタじゃなかったのかよ。事実なのか」
「……えっ、あのさ、聞いてくれる? その話」
乗りかかった船というか、どっちかと言えば銃で脅されて強引に乗せられたに等しいのだが、俺はその女の話に耳を傾けてやることにした。
同時にコップも傾けつつ。
かつ、ハンペンの島を半分に分断しつつ。
「続けて、どうぞ?」
「いやね、今日、たまたま仕事が早く終わったの。だからサプライズ的な要素と抜き打ち調査を含めて、彼の家に行ったわけよ」
「そんで」
「鍵開いててさ。普通にずかずか入ってったら」
「別のモンが入ってたってか?」
「ピンポーン! ピンポンピンポン」
言いながら、女はまた俺の肩をバシバシと叩く。酔っ払うと力の加減がわからなくなるのは、男も女も一緒らしかった。
叩かれ過ぎてひりひりし始めた右肩をかばいながら、俺は続きを促した。
「そんで、どうなった」
「最初は浮気相手の女と言い合ってたけど、やっぱりあれだよね。昨日の敵は今日の友って言うよね。最終的に二人で彼のことボコボコにぶんなぐって出てきた」
「昨日今日っていうか、出会ってから1時間も経っていなかったのでは」
「こまけえこたあ、いいんだよ!」
「はい」
「……でも、なんか、もうよくわかんなくなっちゃって」
俺のコップを指差しながら、これと同じやつ……とオーダーした女は、カウンターに頬杖をつく。
味のよく染みた大根を箸の先で手術しつつ、俺は女の次の言葉を待った。
「あたし、ずっと彼のこと好きだったんだ。かなり長い間、片想いしてて。でもいろんな人に焚きつけられて、勇気出して告白したら、OKもらってね。やっと付き合えた、あーもうめっちゃ幸せだーって思った。なのにこのザマだよ」
「……」
「……この世界ってさあ。なんで真面目な人とか、一途に向き合おうとする人がちゃんと報われるようにできてないの?」
そう呟いた女の瞳が潤んでいるのは、酒のせいか、悲恋のせいか。
その答えはわからないのだが、今の女の言葉の答えを、俺は鍋から立ち上る湯気を眺めながら、少しばかり考えた。
どうせ明確な答えなど出ない……とわかっていながらも、考えずにはいられなかった。
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