due to fog

西野 夏葉

第1話

 吐く息が、可視化される季節になって久しい。夜の闇が深くなればなるほど、それははっきりとした輪郭を浮き上がらせているような気がする。なのに、心の闇がどれだけ深くなっても、俺という人間の輪郭はちっともはっきりしない。むしろどんどん、黒一色に溶けていく心地さえしていた。



 人生は自分自身で面白くするものだ……と息巻いていた学生時代はとうに過去へ流れていって、今は自分の飯代は自分で掴むものだ……と変わっている。


 社会人。


 違う、俺は社会人になりたいんじゃない、人になりたかった。ただそれだけでよかった。社会の歯車として生きるのなんかゴメンだったのに、今はしっかり俺がぐるぐると回らなければすべてがオジャンになるような危うい場所で働いている。おかげさまで、今日も会社を出たのは、ケツから数えてベスト3くらいの順位だった。




 加えて、つい数日前。

 俺は1年と数ヶ月付き合ってきた彼女から突然、別れを告げられた。

 いつも仕事ばかりでまったく構ってくれないから……という、ありふれた理由だった。それに関しては自分でも「これ弁護士つける必要ねえな」と思うほど自業自得だったけれども、よく考えたらこれって本当に俺だけが悪いのか。俺が抜けただけで機械が止まるような、あの会社の組織構造が悪いんじゃないのか。


 思うところはあれど、食い物と違って、恋心は一度冷え切ってしまえば、何時間電子レンジに突っ込んでも温まらないことを俺は理解していた。彼女と別れてからの俺の仕事に対する集中力は、通常の約三倍くらいにも匹敵するだろう。少しくらい給料を上げてくれなければ、とてもやっていられない。




 当然のことながら、こんなにも疲れ切った身体で自ら台所で包丁を握る気持ちになどなれなかった。絶望に打ちひしがれ、自分自身を料理してしまいそうで怖くなるのだ。だからいつも帰りがてら食べて帰るか、コンビニで出来合いのものを買って帰るかの二択を迫られている。

 たいていは後者に軍配が上がるわけだが、今日はたまたま思い立って、いつもよりも一本早い交差点で道を折れた。




 すると、道端にひっそりと「おでん」の赤提灯をかかげた屋台が店を広げているのが見える。普段は曲がらずに直進する道なので、こんなところに屋台があるなどと、まったく想像できなかった。



 席は全部で二席しかないらしく、暖簾の下に、片方の席に誰かが座っているのが見えた。

 知らないやつと肩を並べて酒飲む気にならねえな……と思っていたのは数秒間だけで、ふいにおでんのダシの香りが鼻の中を通り抜けていくと、脳内の摂食中枢は直接俺の筋肉に指令を下していたらしく、気づけばその屋台の暖簾をひっぺがす勢いでまくり上げて、すっとぼけた丸椅子にどさんと腰を下ろしていた。

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