クーデレーション
西野 夏葉
第1話でおわるよ。
わたしは敬虔なクリスチャンでもなんでもないし、帰国子女でもない。
だからクリスマスという日の意味も知らないくせに、今日は一年に一度、黙っていても希望していたものがプレゼントされる日であるとか、カップルたるものこの日くらいは一つのベッドでひっついて眠るべきだ……とかのたまうつもりは毛頭ない。
ただし、どんなに自分は地に太く根を生やして立っているつもりでも、力のある川の流れには勝てない。
ここでいう「川」っていうのがまさに、世間一般がクリスマスという日をやたらめったらはやしたてる風潮そのものであり、いちおうは恋人のいるわたしもやがてそのうねりに呑み込まれ、あとは流れ流れて、明日の朝にはまた正気を取り戻し、高層ビルの屋上にいるような気分で悩ましげな溜息をつくのだろう。
あと、わたしの彼氏がこういうイベントごとになると子供のようにはしゃぐ……というのも要因のひとつとして数えておきたい。いつも通り過ごしているだけで十分にわたしは満足するのだけど、彼はどうもそうではないみたいだった。
もうすぐ付き合って初めてのクリスマスだよな、と彼が口にしたとき「そもそもクリスマスってイエス・キリストの降誕祭でしょ。わたしの実家には仏壇があるよ」と言ったら「日本でのクリスマスの位置づけはほぼ宗教行事じゃないんだから、とりあえず乗っかればいいんじゃね?」と返された。こういう変なところで頭がきれるから、わたしは彼の、そういうところが嫌いだ。
他は好きなんだよ。ぜんぶ。
でもそんなこと、少なくとも口が裂けるまでは、言えないと思った。
***
クリスマスイブ・12月24日は、二人とも仕事だった。
反面、25日は仕事納めの日で、今年はその後の忘年会もないことが正式にアナウンスされていた。あくまでクリスマスの「当日」は25日であるわけだから、美味しいものを食べたりするのは25日にしよう……という彼の提案を、わたしは呑んだ。
今年の12月25日は金曜日だからちょうどいいよ……という追加コメントの裏に(どうせ24日にしたら、この女は「当日じゃなくて前夜を盛大に祝ってどうすんの」とか言うんだろうな)という彼の推察が透けて見えた気がする。まあたぶんそうやって言ったと思うけどね。
とはいえ別に、高級ホテルの高層階にあるレストランでディナー、とかそういう派手なことをするわけではなかった。
普段はこんなに次々と鶏の脚にむしゃぶりついたりしないから、今日くらいはいいだろう……みたいな。
甘いものは別腹だから、少しだけいつもより大きくケーキを切ってみてもいいかな……的な。
いつもはアルミ缶に充填された安酒だけど、ちょっと高いワインのコルクを開けてみよう……ってやつで。
なぜだか、たったそれだけなのに、いつも過ごしている部屋の中が、なんとなくしあわせな空気に満たされる。
いつも隣にいる人が、いつも通り隣にいるだけなのに、こうやって一緒の空気を吸っていることがとてつもなく奇跡的で、尊く思えるのだ。
これだけたくさんの命が息づいている世界で、偶然にか必然にか、自分のことを好いてくれる人と同じ時間を過ごしているということが、いったいどれだけの確率によって導かれた奇跡なのだろうか……と。
そこまできて、いかんいかん商業主義に侵された日本版クリスマスの毒に溺れているぞ……と、必死に正気を保とうとする。
ああ、テーブルの上に置かれたアロマキャンドルもよくない。いいにおいがするし、ゆらゆらと揺れるオレンジの灯が薄暗い部屋の中を反射するさまは、夕陽をいっぱいに浴びる海の中から空を眺めているような心地になる。
あと、このワイン普通にめちゃくちゃ美味しいんだわ。酔っ払っちゃったよ普通に。
普通に、ってこんだけ連呼してる時点でいまのわたしは普通じゃない。
誰か助けてくんない。
そのとき、唇の端に生クリームで飛行機雲みたいな白い筋を引いた彼は「なんかさ」と呟いた。
あえてそのことは指摘せずに、わたしは彼のほうに目線を向ける。
「なに」
「おれも、別にたいしてクリスマスに思い入れはないぞ」
「なにそれ、今更」
わたしは笑い飛ばす。
「あれだけ気合入れて準備してた割に、へんなこと言うね」
「おれも本当は、クリスマスなんてもともと日本発祥の文化じゃねーじゃんと思ってるからさ」
「わたしと同意見じゃん」
でも、彼は今日、帰りに駅で待ち合わせして一緒に帰ってくるときから、ずっと上機嫌だった。なんとかお世辞で「うまい」と言える鼻歌まで歌ったりとかしてた。ちょっと恥ずかしいから普段は頭をはたいて止めるところだけど、なぜかわたしは今日、彼の頭をはたくことができなかった。
んー?
わたしの脳みそが、なんらかの結論を導き出そうとしたその瞬間に、彼の方が先に口を開いた。
「たぶん、みんなが求めてることって、この国には元からこの文化があったかなかったか、とかそういうことじゃなくてさ」
「うん」
「普段言えないこととか、できないことを実現させるために、クリスマスという日を利用してんだよ」
言えないことや、できないことを叶えるために。
利用する?
なんか急に言動が超現実的になったな、この人。
「利用って、なによ」
「ガキの頃とか、そうだったろ。普段は絶対にねだったりできないおもちゃとか頼んでたじゃん。親じゃなく、サンタとかいう空想の人物に」
「そうだね」
「親に言ったら『そんなもん買えるかばかたれ』ってひっぱたかれるようなものとかでも、サンタには頼めてたし、実現してくれてた。そしてそのサンタの正体は……この先は野暮な話だな」
「……んー、わかる気がする」
つまり、わたしがクリスマスというイベントにあれやこれや意味を求めたがっていたのは、わたしが半泣きになりながら書いた稟議書に「これをすることで、誰のためになるの?」とか寝ぼけたイチャモンをつけてくる大嫌いな上司のやってることとほぼ同じだったというのか。誰のためって会社の利益にならないとあんたハンコ捺さないじゃん、と拳を握ったのは数日前の話だった。
思い出してちょっとむかついていたわたしをよそに、彼は続ける。
「だから、クリスマスという日にカップルがいちゃこきたがるのって、普段言えないようなことを伝えたり、しないようなことをしてみたりとか、そういう行動に移すための」
「免罪符?」
口を挟んだわたしに、彼は「表現に愛情がないな、ほんと」と苦笑しながら、髪を撫でてきた。
———あれ。
いつもなら恥ずかしくてその手を払いのけたりもするのに、なぜだか今は、身体が動かない。
むしろ、しばらくそのまま撫でていてほしい……とさえ思えてきた。
やっぱり、なんだか今日のわたしは、おかしい。
「ふうん」
ぽわんぽわんしているわたしの様子をながめながら、彼は笑顔を崩さない。
「なによ」
「今日は嫌がらないっていうのは、一応はクリスマスという日の雰囲気を楽しんでるんだな」
「……ばっかじゃない」
わざとらしく、そっぽを向いた。
わたしは、愛情表現がへたくそだ。
本当は好きで仕方ないのに、言葉にもできないし、行動にも移せない。
周りに他の誰かがいるときもそうだし、二人だけでいるときもなかなか素直になれなかった。
でも、今日なら。
今ならできる気がする。
今日はクリスマスだから。
彼の言葉を丸呑みするなら、今日はほんの少し自分の気持ちに正直になっても、赦してくれる日だと思うから。
がらあきだった彼の胸元に、ゆっくり包み込まれるように身体をすべりこませてみる。
それを待っていたみたいに、彼の腕がわたしの身体をぎゅっと抱きしめてきた。
かっ、と顔が熱くなる心地がしたのは、さっき飲んだワインのせいなのか、恥ずかしさのせいなのかはわからない。
たぶん両方だと思う。
「……あのさ」
頭の芯がじんとするのを感じながら、わたしはおそるおそる唇を開いた。
「なんだよ」と、彼の声が上から降ってくる。
「……こういう時、どうすればいいか、わかんないの」
いや、本当にわかんない。どうしたら失礼にあたらない?
キモい女だって愛想尽かされない? こいつ重いなーって思われない?
この数秒間で一生分くらい頭使ったよ、正直。
でも、わかんないよ。
「———利用しろって」
はっとして、わたしはそう呟いた彼の顔を見やった。
カメラのピントが合うみたいに、視線がはっきりと、ぶつかる。
「せめて今日くらい、たまにはおれも甘えられてみたいなあと思うんだけど?」
彼の言葉は、はっきりとわたしに向けられていた。
いつもは彼がわたしにべたべたごろごろしてきて、わたしはそのたびに、犬や猫と遊ぶみたいにして彼をあやすわけだけど、今日は逆がいいのだそうだ。
せめて今日くらい。
本当はいつもそうしてほしいけど、そうしてくんないから、今日だけは。
言葉の裏に隠れている本音を、わたしは勝手に読み取った。
わかりました。
ちょっと今日は、自分なりに甘えてみます。
わたしは少し身体を起こして、彼の唇の端についた生クリームをぺろりと舐め取ってやった。
それを受けて、彼は普段見せないような驚いた表情をしていたけど、そんなことわたしは知らない。
あなたが望んだことだし、わたしが望んでいたことなんで。
普段できないこと、叶えてみただけなんで。
全部、今日のせいなんで。
メリークリスマス。
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クーデレーション 西野 夏葉 @natsuha
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