第3話


 アルドは幼い二人が並んでいたあの場所へと降り立った。

 今は二人の姿がないが、石碑もないので、記憶の最後の時点とみていいだろう。

 アルドはふわりと吹く風を、大きく吸い込んだ。懐かしい香りがする。

 カミューは自分にない力があると、アルドを後押ししてくれた。信用してくれた。

 その想いに答えたい。何より、彼をこのまま見放すことなどできない。

 ―今度こそ、カミューの未来を救けてみせる。

 そう決心した時、ぱああっとアルドを光が包んだ。

 それはアルド自身から放たれている。

 ―紙が、光っている……。

 きっとここからが、カミューの心の奥底に眠る記憶に違いない。

『リンちゃん、ちょっと待ってよ〜!』

『カミュー、早くおいで。ここから見える景色、とっても綺麗なんだよ!』

 アルドの目の前を幼い二人が駆けていく。

『嘘だあ、そんなに綺麗だったら大人たちが教えてくれるよ!』

(カミュー。大人はね、わたしたちが思っているよりずっと、卑怯で臆病なんだよ)

『嘘じゃないよ。わたし、嘘つかないんだから!』

『……本当だ! とっても綺麗だね! どうして教えてくれなかったのかな?』

(わたしたちに見えることも、大人には見えなかったりするしね。でも、カミューはまだそんなこと知らなくていい)

『きっと知らなかったんだよ。ここはわたしたちの秘密の場所ね?』

『うん! 二人だけの秘密だね!』

(心があたたかくなる。カミューは絶対にわたしを裏切らない。わたしには見える)

『ねえねえ、リンちゃんって未来が見えるんでしょ?』

『そうだよ』

『今度何か見えたらぼくに教えて!』

『いいよ。カミューにだけ教えてあげる』

(でも、ごめんね。恥ずかしいから、これはわたしだけの秘密にさせて)

 リンの心の声が水の中のように反響して、アルドに届いた。

 カミューが奥底に封印してしまった記憶。それはもしかしたら―。

 アルドが無意識に彼らに近づこうとした瞬間、時空を超えた。

 落ちていく感覚はなく、強いて言うなら浮遊している感覚。

 視界が開けると、そこではカミューとリンの故郷の使者が対峙していた。

 どうやらカミューの記憶を遡っているらしい。

 そういえば、現実世界に戻った時、カミューは言っていた。

 ―師匠の故郷の使者をあの場で葬っていたら。

 つまり、カミューは彼を殺めてはいない。

 アルドは周囲を見回した。これがアルドの思った通りなら、きっとどこかに―。

 いた、リンだ。

 カミューからも使者からも見えない位置に、リンが立っている。

『いいか。お前の師匠は我らを見捨てたのだぞ。この村ではあの時と同じことが起ころうとしている』

『つまり、私たちも見捨てられる運命だと?』

『そうだ。彼女は偵察中の私の仲間に気がついて、こう言ったそうだ』

 ―私はこの村の未来を救うつもりはない。この村を守ることはできないから。

(そう、確かにそう言った。私が救いたいのは、村ではなく、ここに住むみんな。村を守ることができないのは、私が予言してしまった時点で確定した。幼い頃の、何も知らない私が。その真実を成長した私にわざわざ教えたのもお前たち使者だったことは皮肉としか言いようがないが)

 きっと使者たちは、リンに絶望を与えたかったのだろう。

 アルドは胸の痛みを覚えた。これはおそらく、リンの心の痛み。

『どうだね。彼女がこの村に残っている理由は他にあると思わないか?』

『………………』

(カミュー、私はあなたを信じている。あなたが私を信じてくれることを。私のような人間がそんなことを願うのは、烏滸がましいだろうか)

『君は宝の持ち腐れだよ。この村を守りたいなら、師匠とは離れたほうがいい。彼女は君たちの敵だ。我らにとっても敵だ。つまり、我々は味方だ。仲間だ。そうだろう?』

(カミュー、あなたの力は何も変えられない絶望の力などではない。未来を変えられる、とても素晴らしい力だよ。あなたのその優しさは、あなたにこそ相応しいと私は思っている。あなたは私と違って、この村の、この世界の希望なんだ。どうか、そのことに早く気がついて……)

『…………』

『そうだ、その調子だ。いいか、君は騙されていたんだ。我らと一緒にあの女を、裏切り者を、退治しようではないか!』

(ああ、いっそのこと、カミューに滅ぼされるほうが本望かもしれないな)

 リンが彼らに背を向けた。

 そのまま村へ戻ろうとした彼女に、青年カミューの低い声が聞こえた。

『……ふざけるな……』

 リンは思わずといった風に振り返る。

『何?』

『私の前で、師匠を侮辱することは許さない!』

『おい、やめろ!』

『私が何も知らないと思ったら大間違いだ。私は、あの人を救いたいんだ!』

(……ありがとう、カミュー。でも、あなたに私は救えない。私が予言した運命には、私自身が命を落とすことも含まれている。それでいいんだ。あなたが村のみんなを、この世界の人々を一人でも多く救けるなら、私はそれで救われるのだから。そのことによって、きっとあなた自身も救われる。あなたの未来はとても明るい。いつか、このことをあなたの前で予言しなければ)

 リンは再び彼らから目を逸らした。

 ―ああ、そうか。リンはちゃんとわかってるんだな。カミューがこいつを傷つけないことを。

『うわあああああ!』

 それは予言などしなくても、リンにとっては何よりも確かなことなんだろう。

 アルドもその叫びをただ黙って聞いていた。

 ここで使者を葬らなかったことこそが、カミューの覚悟を如実に表していたのだ。

 そしてまた、アルドは時空を超える。

 ふわりと地に足が着いた感覚と同時に、視界が開け、怒号と悲鳴が聞こえた。

『早く、早く逃げろ!』

『逃さんぞ! おい、追え!』

『やだやだ、怖いよぉ……お母さあああん!』

『騒ぐんじゃない!』

 ―あの時のオレは何もできなかった。でも、やっぱり黙って見てはいられない。

 たとえこの世界では無力でも、一緒に闘うことくらいはできる!

 アルドは剣を抜く。そこへリンが登場した。

『待て! お前たちの相手はこの私だ!』

 凛とした佇まいに、アルドは頼もしさを感じる。

『リンくん!』

 子供たちが口々に叫ぶ。

 どんなに大人たちがリンを非難しようとも、子供たちはちゃんとわかっているのだ。

 彼女が誰よりも自分たちの味方であることを。

 ―わたしたちに見えることも、大人には見えなかったりするしね。

 幼い頃のリンが言っていた通りなのかもしれない。

『もう大丈夫』

 少し遅れてやって来たカミューが、子供たちを立ち上がらせた。

『さあ、行こう』

 カミューに背を押されて、子供たちは名残惜しそうにリンを振り仰ぐ。

 リンは打って変わって険しい表情で敵を見据え、既に攻撃魔法を手に湛えている。

 アルドも共に剣を振り上げる。

 今にも爆発しそうなほど、大きな光が辺りを照らした。

 カミューがこちらを振り返る。

『師匠、師匠も早く……!』

『カミュー、他のみんなを連れてお前も早く逃げなさい』

『し、しかし……!』

『来るな! これは私の闘いだ! ……村のみんなを頼んだよ』

(カミュー、わかっているよ。あなたは私を置いてはいけない。けれど、私にはあなたが助かることもわかっている。だから本当はこんなことを言う必要などないのだけど。それでも、私はあなたにあなたの道を生きて欲しい。いつだってあなたの物語の主人公は私じゃなくて、あなたなんだから)

 アルドが見たリンの横顔はどこか切なく、どうしようもなく儚げで。

 そして、この世界全てを包み込んでしまうほどの優しさに満ち溢れていた―。


 すううっと柔らかな光を感じる。

 いつの間にか閉じていた目を開けると、そこは現実世界。

 目の前には爺カミューが同じ姿勢で座っていて、そして驚いたことに、涙を流していた。

「…………」

 それほど彼にとってリンの存在はとてつもなく大きかったのだろう。

 アルドはじっと待っていた。

 きっとあれは、カミューが覗いたリンの記憶。

 封印してしまった理由はわからないけれど、きっと一番大事な、カミュー自身の記憶。

 アルドがカミューの心とリンクしたように、彼もリンの心をそうして知ったに違いない。

 ―受け止めるには覚悟が必要、って本当だな。爺さん。

 どのくらいそうしていただろう。

 カミューが俯けていた顔を上げた。

「アルドや、お前さんの言う通りじゃったな。お前さんは一体、何者なんじゃ」

「オレはただの旅人だよ。でも、そう、爺さんみたいに特別な力があるんだ」

「ほっほっ。最期の作品は、ワシ自身の記憶を土台にしようと思っていたが、主人公の座をあっさり持っていかれたようじゃ」

「そうか? 主人公は爺さんだろ?」

「お前さんがいなければ、師匠を主人公にするつもりだったんじゃ。ワシの中では、彼女こそがいつでも世界の中心だったからのう」

「……それは違うよ。オレはあんたの記憶の中で、あんたが主人公だと思ったよ。リンだってそう言ってただろ?」

「はっはっはっ。……そうじゃったなあ。ワシはやはり未熟な人間じゃ。この歳になっても、そんなことにも気づけんとは。師匠の救けての意味も、今初めて知ったくらいじゃ」

「そうか? あれはリンの記憶でもあるけど、爺さんの記憶でもあるだろ? 本当はわかってたんじゃないのか。爺さんが気づかないふりして来ただけで」

「……そうかもしれんのう。師匠の記憶は、ワシの過ちを同時に思い出させるものであったからのう。知らず知らず、見て見ぬふりをして来たんじゃろう。アルドのおかげで、ようやくちゃんと向き合えたようじゃ」

「そうか、よかったな! 爺さんはこの後からずっと脚本を書き続けてるのか?」

「うむ。幼い頃は勝手もわからず力を発動させておったが、初めて自分の意思で力を使ったのは師匠の亡骸に対してじゃった。それからは、師匠の教えを信じて、ワシなりに力を使って来た。ワシをカミ様と呼んでくれる支配人にしてみれば、己の実力ではなく、他人の過去を食い物にしているワシは卑怯だと思われるじゃろうが」

「でも、爺さんはそうやってたくさんの人を救って来たんじゃないのか」

「うん?」

「過去は変えられないって爺さんは言ったけど、未来を変える力はきっと、その過去にあるんだと思うからさ!」

 今のアルドがそうしたように。

きっとカミュ―は、本人が封印した記憶を、絶望を、希望に塗り替えて来たのだ。

「……お前さんは、本当にワシが気づかんかったことをいとも簡単に……そうじゃな。ワシの物語の主人公たちはそうやって未来を変えて来た。ワシには運命を見通す力などないが、だからこそ思うことがあるんじゃよ。この物語がどうなるかではなく、どうしたいかを考えた時、それが君自身の物語になるんじゃとな」

「じゃあ、やっぱりこれは爺さんの物語だな!」

「……ふっ、そうじゃな。同時に師匠の物語でもあって、お前さんの物語でもある」

「そりゃあ、この世界に生きるオレたちは、みんな誰かと一緒に生きてるからな!」

 アルドとカミューは大きな声で笑った。


 あの後、カミューはアルドが持ち帰った紙に書かれた記憶を元に、脚本を書き上げた。

 最期の作品が完成し、アルドは久方ぶりにさえ思える劇場へと戻って来た。

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