第2話

―The Royal City of Unigan―


 アルドは宿屋で十分に休み、念の為に装備を確認してから、ロビーの隅に座るカミューに声をかけた。

「おお、アルド。覚悟はできたかの?」

 ―覚悟って、そんな大層な……。

 悪戯っぽく目を細めるカミューに、そこはかとなく漂っていた不安がにわかに現実味を帯びて来た。

 しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。アルドは強く頷き返す。

「こうなったら、爺さんの記憶ちゃんと旅してみるしかないだろ」

「ほっほっ。支配人が見込んだだけある、勇敢な男じゃ。その言葉、忘れるでないぞ」

「ああ。それじゃ、頼むよ」

 カミューは徐に紐からぶら下がったコインを取り出した。顔の高さに翳したそれは、ゆらりゆらりとアルドの前を左右に揺れる。

 特に促されたわけではないのに、自然と目で追ってしまう。

 なんだか頭がぼんやりして来た。

「おお、そうじゃそうじゃ。ワシが再生できる記憶は一方通行じゃ。一度見た場面にはもう二度と戻れないからの。一瞬一瞬を目に焼き付けるのじゃぞ。ごく稀に、記憶の中に閉じ込められてしまうことがあっての。永遠に彷徨う羽目にならないよう、気をつけるのじゃよ」

 何か重要なことを言われた気がするのに、どんどんカミューの声が遠くなっていく。

 でも、これは聞いておかねば。

「……お、おい、爺さん、今なんて……」

 アルドはどさりと床に伏した。


 アルドが目を覚ましたのは、鬱蒼とした森の中。

 景色としては月影の森が一番近いだろうか。しかし、それにしては見慣れないものがある。

 古くて小さな石碑―。

 それは何かに怯えるように、はたまた静かに自己を主張するように、ひっそりと佇んでいる。

『また来てしまった』

 不意に背後から若い男の声が聞こえた。

 初めて会ったはずなのに、どことなく既視感がある。

 ―ああ、これが爺さんなのか。

『今日はあなたが好きだった花を摘んで来ました』

 若かりし頃のカミューは、小さな花束を石碑の前に置いた。

 やはりこれは、誰かのお墓なのだろうか。

 青年カミューは悲哀に満ちた瞳で、しばらく石碑を見下ろしていたが、やがてその隣にすとんと腰を落とした。

 すうっと深く息を吸い込む音が、やけに大きく響く。

 ここでようやく、アルドは周囲が無音だったことに気がついた。

 それでいて、木々に遮られた太陽の光や葉を揺らす風、微かな草木の香りは感じている。

 これがカミューの言う混沌なのだろうか。

『この問いももう無意味なのでしょうが……』

 再び青年カミューの声だけが、全てをかき消した。

 周囲の景色が時を止める。

 その瞬間、息さえ吐けぬような苦しさが、アルドを襲った。

 そう、それは比喩ではない。

 得体の知れない何かが、身体に流れ込んで来る感覚。

 しかし同時に、その何かがアルド自身から放たれている感覚。

 相反する現象に挟まれて、ただただ苦しい。指一本動かせない。

『運命は、本当に、変えられなかったのでしょうか……』

 青年カミューの澄んだ瞳から、はらりと滴が落ちた。

 辛そうに歪んだ顔には、憐憫とも落胆とも、哀切ともつかぬ複雑な表情が浮かんでいた。

 ああ、これは―。

 知っている。今、この身に感じている。

 いや、きっと、それよりもずっと前から。

 そう、これは。

 ―絶望。


 アルドが苦しさの正体を確信した直後、視界が暗転し、金縛りが解けた。

 どうやらこの世界では、アルドの存在はカミューの心とリンクしてしまうらしい。

 次にアルドが目にした景色は、退廃したどこかの村のような場所だった。

『……どうして、どうして、ですか……!』

『だから、言った……だろう……、私の、予言は……当たるん、だ……』

 倒れている女性を支えながら、青年カミューは必死に問いかけていた。

 浅い息を繰り返す女性の瞼が、ゆっくりゆっくり閉じていく。

『あなた、なら、もっと、上手く……みんなを導ける……あなたの、未来は……とても、明る……い……』

 ドクンと心臓が跳ねるような衝撃。

 カミューが激しく首を振る。

 早鐘を打つ鼓動を感じる。

 苦しいというよりも、痛い。

『あなたのいない未来なんて……!』

 女性の細腕が空を彷徨う。

 カミューがその手を握ると、女性は優しく微笑んだ。

『……それ、なら……生きて……私を、救け……て』

 女性の意識が途切れ、体の力が抜ける。

 触れ合っているカミューを通して、アルドにもはっきりと伝わった。

 最もそれは、彼自身の無力さが重なって起こした錯覚かもしれないが。

『そんな……私は、あなたを救けられなかったのに……』

 青年カミューはしばらく、彼女の手を握ったまま打ちひしがれていた。

 あの石碑はやはりこの女性のものなのだろうか。

「…………」

 じっと見守っているだけのアルドには何もできない。

 だからこそ、親密そうだった青年カミューの無念さがいかばかりか、想像するにあまりある。

 そもそも、二人はどういう関係だったのだろう。

 恋人というには些か距離があるようにも、逆に恋人以上の絆があるようにも感じられる。

 舞台で言うなら差し詰め、主人公とヒロイン。アルドはこの独り舞台の一観客といったところか。

 しかし、いくら観客とはいえ、それではいけない気がする。

 あの穏やかな老人カミューを知っているだけに、彼の壮絶そうな過去を単なる他人事と無視することは絶対にできない。

 アルドは周囲を見回した。

 ここがカミューの記憶の中ということは、手がかりはおそらくこの場所にある。

 ―よし、探しに行ってみるか。

 アルドは青年カミューと彼女を二人きりにして、村の中を探索してみることにした。

 まずは手近にある家に入ってみよう。

 中年の男が一人、慌ただしげに室内をうろうろしている。

 アルドの存在には気がついていないようだが、試しに話しかけてみた。

『ああ、早く逃げなければ……ここまでリンくんの言う通りだとは……』

 ―リンくん?

「誰のことだ?」

『……予言が本当に変えられないとは思わなかったんだ……俺は悪くない……悪くないんだ……』

 アルドの声が聞こえているのかいないのか、彼の様子からは判断できなかった。

 その後は何度呼びかけても同じ内容をただ繰り返すだけ。

 仕方なく奥のタンスを確認してみると、紙を手に入れた。

 ここにもう手がかりはなさそうだ。アルドは家を出た。

 同じ場所にいるカミューと女性を視界に収めつつ、アルドは村の中を走った。

 ここで何があったかはわからないが、他に人の姿は見えない。

 二人の状況から鑑みても、確かにこの村はもう長くはなさそうだ。

 逃げ遅れたらしき彼以外にもまだ住人がいるのだろうか。

 アルドは道を一本南に行ったところの家に入った。

『おばあちゃん、早く逃げよう!』

『……先に行きなさい。わたしゃ、リンくんを置いてはいけないよ』

『でも、もう……』

『いいかい。お母さんの言うことを聞いて、良い子でいるんじゃよ』

『…………』

『どうか、人を信じられる人になっておくれ』

『……うん』

 女の子は老婆に半ば追い出されるように、外へと駆けて行った。

 後ろ姿を見送り、アルドは老婆に話しかける。

「リンくんって誰のことだ?」

『わたしゃ、間違えてしまったからの。予言が恐ろしくて、見て見ぬ振りをしてしまった』

「予言……?」

 やはりこちらの声が聞こえているかはわからなかった。

 タンスには紙が入っている。

 アルドは家を出た。女の子の姿はもう見えない。

 その足で入った隣の家は空だったが、タンスには一枚の絵が無造作に残っている。

 カミューと一緒に写っていた女性の肖像画のようだ。

 裏を返すと、『時の導き者リンくん』と書いてある。

 これで手がかりは揃った。

 カミューと一緒にいた女性は、どうやらリンという名前らしい。

 これまでの住人の話から察するに、この村とは何か確執がありそうだ。

 彼女の正体はわかったものの、まだカミューがどう関わっているかははっきりしない。

 ともかくここで得られる情報はもうない。一度、二人のところへ戻ろう。

『師匠……申し訳ありません……私は、どこで……間違えてしまったのでしょう……』


 その瞬間、またもや世界が暗転した。

 暗闇に落ちていく感覚に身を任せながら、アルドは青年カミューの言葉を反芻する。

 ―師匠ってことは、リンの予言もカミューの能力と関係があるのか?

 周囲が徐々に明るさを取り戻していく。

 地に足が着いたと同時に、視界が開け、怒号と悲鳴が聞こえた。

『早く、早く逃げろ!』

『逃さんぞ! おい、追え!』

『やだやだ、怖いよぉ……お母さあああん!』

『騒ぐんじゃない!』

 そこは地獄絵図さながらの光景だった。

 あちらこちらに逃げ場を失った住人がいる。

 子供たちはひと所に集められ、敵と思われるフードを被った輩たちと禍々しい魔物に囲まれている。

 助けなければ―。

 アルドはそう思うのに、身体が言うことを聞かない。

 ああ、そうだ。

 ここはカミューの記憶の中。

 アルドにはどうすることもできない。

 ―本当に?

 本当にオレはこの世界で誰も救えないのか?

 そんなアルドの葛藤とは裏腹に、無情にも時は流れ続ける。

 巻き戻すことも止めることもできない。

 村は愚か、子供の一人さえ守れずに、オレはこうして突っ立っているしかないのか―。

 絶望がアルドの体内を満たす。

 ああ、早く。誰か、早く。子供たちを、みんなを、この村を、救けてくれ―。

 アルドは強く願う。

 フードの人物が振りかぶった。魔物が叫ぶ。

 子供が声も涙も忘れて身を竦める。

 もう、ダメなのか―。

 アルドは目を閉じた。

 その時、すぐそばを風が駆けた。

 何か得体の知れない物が、空を裂き、大地を揺らす。

 声が聞こえた。

 聖水のように澄んだ、それでいて業火の如く力強い。

『待て! お前たちの相手はこの私だ!』

 目を開けると、アルドの前にリンが立っていた。

 その凛とした佇まいには、彼女にしか出せない気迫のようなものが漲っていた。

『リンくん!』

 子供たちが口々に叫ぶ。

 潤んだ瞳と震える声に、安堵と期待が込められている。

『もう大丈夫』

 リンの微笑が、こちら側の空気を変えた。

 体のずっと奥の部分がほんわりとあたたかくなる。

 少し遅れてやって来たカミューが、子供たちを立ち上がらせた。

『さあ、行こう』

 カミューに背を押されて、子供たちは名残惜しそうにリンを振り仰ぐ。

 リンは打って変わって険しい表情で敵を見据え、既に攻撃魔法を手に湛えている。

 今にも爆発しそうなほど、大きな光が辺りを照らした。

 子供たちはそれを合図に、ヒーローの背に守られるようにして、村の外へ駆けて行った。

 カミューがリンを振り返る。

『師匠、師匠も早く……!』

『カミュー、他のみんなを連れてお前も早く逃げなさい』

『し、しかし……!』

 切羽詰まった様子のカミューに対し、リンは落ち着き払っていた。

 戸惑いつつも、カミューがリンのほうへ一歩踏み出した。

 ―置いてはいけない。彼女を救けるために、私は……。

 そんな台詞が脳内に直接流れ込んで来た。

 だが、アルドにはなんとなく分かっていた。どんなに説得しても無駄だ。

 リンはもうとっくに覚悟を決めている―。

『来るな! これは私の闘いだ! ……村のみんなを頼んだよ』

 案の定、彼女は声を荒らげた。

 それなのに、その横顔はどこか切なく、どうしようもなく儚げで、そして―。

 この世界全てを包み込んでしまうほどの優しさに満ち溢れていた。

 瞬間、場が無音になる。

 時が止まったかのような感覚。

 その空間の中で唯一、カミューが苦しそうに俯く姿だけが、アルドの目に焼き付いた。

『何を戯けたことを……この裏切り者めが!』

 敵の激昂で我に返る。

 アルドとカミューは同時に顔を上げた。

 フード軍団の掛け声を合図に、魔物たちが一斉にリンを襲う。

 ―やめろ、やめてくれ!

 さっき見た村の様子が蘇る。

 分かっている。

 きっとリンが一番よく分かっている。

 止めることも巻き戻すこともできない。

 残された道はただ一つ。時の流れに身を任せることだけ。

 全てはもう未来に向かって動き出してしまったのだから―。

 アルドの脳内に響いたのは、リンの声。

 これはそう、きっと、カミューの記憶。

 カミューの意識に強く刻まれた、在りし日の思い出。

 アルドはまだ見ぬ彼の過去に想いを馳せた。

 そんな余裕などないはずなのに。

 ここを逃げ出したい焦燥と、いっそ過去を変えてしまいたい欲求とがアルドを急き立てる。

 背中を押されるような圧と、後ろ髪を引かれるような弱々しい力とがアルドを掻き立てる。

 この混沌とした鬩ぎ合いに打ち勝つ方法は、ここに、アルドの中に、いや、カミューにしかない。

 カミューは今、闘っている。敵でも、リンでもなく、自分自身と。

 彼の選択が全てを握る。

 瞬間、ぶわりと烈しく風が吹き上げた。水が、火が、全ての力が、リンに注がれた。

 そうアルドが認識した途端。

 ―それは唐突に弾けた。


 再び、舞台が暗転する。

 音が消えた。無音というよりも静寂。

 喧騒の直後だからだろうか。

 脳内に響いていた鼓動も鳴りを潜め、しん、という音が聞こえるほどの静けさに包まれた。

 アルドは緩やかな落下の軌跡を辿りながら考える。

 この物語はどうやら未来から過去に戻っていっているようだ。

 カミューの人生にとって最も印象深い出来事は、リンの存在と密接に関わっているらしい。

 やがて、幕が上がる。

 アルドは暗闇を切り裂いた眩ゆいばかりの光に目を凝らした。

 場所は同じ村のようだが、今度は廃れた感じはしない。生活感の溢れたざわめきが、故郷のバルオキーに似て心地良かった。

 ふわりと頬を撫でた風が、温かな夕餉の香りを運んで来る。

 つい辺りをきょろきょろしてしまったが、カミューとリンの姿は見えない。代わりに、アルドのそばには記憶の途中に出会った老婆と女の子がいた。

『おばあちゃん! リンくんが、運命を見通せるってほんとう?』

 誰かの受け売りなのか、辿々しい言葉で女の子が訊ねる。

 うきうきといった笑顔の彼女に対し、老婆のほうはあからさまに眉を潜めた。

『そんなこと、誰から聞いたんだい?』

『カミューお兄ちゃんだよ! ねえねえ、わたしもお願いしたら見てくれるかな?』

『……運命っていうものは、そんな簡単に見えるものじゃないんだよ』

『え〜、でも、リンくんは見えるって言ってたもん!』

『見えたとしても、その運命が本当かどうかはわからんじゃろ?』

『ほんとうじゃなくてもいいんだよ! わたしは今知りたいの!』

『ダメじゃ!』

 老婆の鋭く響いた声に、女の子はビクッと肩を震わせた。今にも泣き出しそうだ。

 無理もない。本来この世界では存在しないはずのアルドでさえ驚いたのだ。

『どうしてダメなの……?』

『……その運命がお前にとって不幸なものだったらどうするんじゃ』

『だったら自分で変えるもん!』

 女の子は老婆に背を向けて、駆け出していってしまう。

『…………運命は変えられないから、運命なんじゃ』

 老婆は哀しそうな表情で、家へと入って行った。

 行き場を失ったアルドは、二人の消えた方向を交互に見ていることしかできない。

 その時、がさりと音がした。

 近くの植え込みの陰から、カミューが姿を現す。

『……運命は変えられない……?』

 青年カミューはそのまま、思い悩んだ様子で静止してしまう。

 瞬間、時が止まった気がした。

 世界が光を失う。家も道もすぐそこに存在しているはずなのに、何がどこにあるのかわからない。

 今の今まで感じていた風も音も香りも、全てがどこかへ行って、夢の中で感じるような鈍い痛みだけがアルドの全身を覆った。

 逃れられるようで、逃れられない。一歩も動けない。

 どのくらいそうしていただろう。五感を失うと、時間の感覚も朧げになるらしい。

 アルドはカミューをじっと待った。

『嘘つき!』

 はっと空気が解けた。張り詰めていた糸が、新たな緊張で逆に緩んだみたいに。

 それは紛れもなく老婆と話していた女の子の声だった。

 アルドはつい声のした方向へ走り出した。

 村の端で二人の人影を見つける。

 扉の前でリンと女の子が対峙していた。おそらくリンの家だろう。

 彼女を強く睨みつける女の子の表情は、驚くほど大人びている。

『……そうね、私は嘘つきね。だけど、これだけは信じて。―みんな、あなたを大切に思ってるの』

『……そんなの知らない!』

 女の子は踵を返して、自分の家のほうへ走り去った。

 アルドから少し遅れて、カミューが到着する。

『師匠、何があったのです?』

『私が運命を見通せると知って、自分の運命を教えて欲しいと言われたよ』

『教えてあげたんですよね?』

『いいえ。私に運命は見えない、と答えた』

 リンの言葉に、カミューと同じくアルドも首を傾げた。

 老婆と女の子の会話をリンは知らないはずで、教えられないと言うならまだしも、嘘をつく理由はないように思う。

『そんな、どうして……』

『カミュー、あなたは私の自慢の弟子だよ。優しくて、意志が強くて、何事も恐れない』

『…………』

『けれど、だからこそ未熟なの。―世の中は、慈しみだけじゃ救えない』

「そんなことない!」

 アルドは思わず叫んでいた。けれども、二人はこちらを見ようともしない。

 そして、ようやく気がついた。

 こんなに近くにいてアルドの声が聞こえないはずはない。

 彼ら記憶の中の住人に、アルドの存在はないも同然だった。

 続けようとした言葉は、ついぞ声にはならなかった。

『カミュー。あなたにも全てを教える頃合いだろうね。長くなるから、家に入りなさい』

『…………』

『受け止める覚悟がないなら、このまま帰ることだね。その場合はもちろん破門にするけど』

『……わかりました。ご教授、お願いします』

 二人はリンの家に入っていく。

 アルドは胸につかえたもやもやを吐き出せないまま、後を追う。

 リンの家の片隅で、紙の束を見つけた。

 やがて、神妙な声でリンが切り出す。

『カミュー。あなたは私の能力を随分と買い被っているよ』

『そんなことありません。師匠の力があれば、多くの人々を救えます』

『そうだね。私もそう夢見たことがあった。でも、同時に傷つけもする力だと知った』

『…………』

 押し黙るカミューを切なげな瞳で見つめ、リンは静かに続ける。

『あなたは私の力をどう認識している?』

『どうって……運命を見通せる力、でしょう?』

『そう。見通せるだけ』

『でも、見通せるのなら変えることができます』

『運命は、変えられない。予言した時点で、それは確定的なものになる。そして、その予言はあなたも知っての通り、既に果たされてしまった』

 ―運命は変えられないから、運命なんじゃ。

 確かにあの婆さんも言っていた。

『でも、師匠はこの村の未来を守りたいって……』

『そうだよ。私はこの村の運命を知っているからね。けれど、運命は変えられないんだ』

『では、どうやって……』

『従順で純朴なところはあなたの長所だと思うけど、たまには自分で考えてみなさい』

『……すみません』

『未来というものは、非常に危ういんだ。でも、同時にこれ以上ない希望でもある』

『…………?』

『今のカミューには分からないだろうね。だけど、きっといつか気づく日が来るよ。あなたの持つ力はそういうものだ』

『……少し、頭を冷やして来ます』

『答えが出たらいつでもおいで。私はずっと待っているから』

 カミューはリンの家を出た。

 アルドは彼を追いかけるか迷ったが、そうしたところで話ができるわけでもない。

 カミューの記憶を旅する力と、リンの未来を予言する力。

 アルドは既に知っている。

 二人の持つ特殊な能力は、この村を救けることはできなかったのだ。

 リンは生命を失い、カミューは生涯癒えない傷を心に負った。

 運命は変えられない。

 リンはそう言うけれど、未来を変えることはできるんじゃないだろうか。

 オレはこれまで、現実にそうして来たじゃないか。

 いや、そうは言っても、カミューの記憶となっている時点でもうこれは過去の話。

 アルドは何度目かのもどかしさに駆られる。

 せめて、二人の為に何かできることがあればいいのだが……。

『さて。そろそろ姿を現したらいかがです?』

「え?」

 リンがこちらを見て言った。

 彼女の家の中は雑多な物で溢れていて、アルドは確かにそこに隠れるように立っている。

 しかし、カミューの記憶の中では誰にも干渉できないはずではなかったか。

 アルドが右往左往していると、背後から人の気配を感じた。

 いや、それだけではない。

 家中から人影が次々と姿を現した。

「わっ!」

 驚くアルドの横をすり抜け、男がリンへ近寄っていく。

 見たところ誰もフードを被っていないし、敵ではなさそうだ。おそらく村の住人だろう。

 その割には、どこか張り詰めた空気で、一触即発といった様子に感じられる。少なくとも好意は感じられない。

『リンくん。例の件、考え直してくれたかね』

『考え直すも何も、答えは変わらないと何度も申し上げたはずですが』

『しかし、君がいてはこの村に災厄が降りかかるんだ』

『……確かに私が諸悪の根源でしょう。だからこそ、ここを離れるわけにはいきません』

 どうにも話の筋は読めないが、村人たちはリンを非難しているらしい。

 この村とリンとの確執は、やはり彼女の予言に関わっているのだろうか。

『村の中には、君が怪しい人間と話しているところを見た者もいるんだ』

『其奴が君の故郷の人間だとしたら、これは明らかな裏切り行為だ。少なくとも我々はそうみなす』

『だから、この村から出て行けと仰るのですか』

 ―裏切り?

 確か、つい最近もどこかで聞いたような……。

 ああ、そうだ。フードの軍団の一人がそんなようなことを言っていた。

 つまり、リンは故郷からもこの村からも裏切り者扱いされているということになる。

 まさに四面楚歌。味方は一人もいない。いや、一人だけ。カミューは、彼女の味方だ。

『当然だろう? 幼い無垢だったカミューを誑かして、君はこの村を懐柔しようとした。我々は騙されんぞ』

『誑かしたつもりはありませんし、懐柔などもってのほかです。裏切り行為も断じてしていません……ですが、カミューを引き入れたことは後悔しています』

『ならば、君がここを去る条件は十分だと思うがね?』

『それでも、私はここに残ります。むしろ、私は皆さんがこの村を出ていくよう進言します』

 彼女はあくまでも自らの意思を貫き通すつもりらしい。その瞳には強い信念の光が宿っている。

『全く、話が分からん娘だな。また来る』

 押しかけた村人たちが口々に毒を吐く中、年長の男がそう吐き捨て、彼らは家を後にした。

 その背中を見送り、リンは深いため息を溢す。

 カミューが言っていた通り、リンはこの村のことを守りたいと思っているはずだ。

 それなのに、住人たちにその想いが伝わっていないのはなぜなのだろう。

 アルドは考え込んでみるも、如何せん情報が足りない。

 ―こういう時は、情報収集だな。

 疲れ切った様子のリンを残し、アルドは村に出た。

 方々に散った村人を求め、周りを見渡す。

 リンの家を遠巻きに眺めていた女性の集団が、ひそひそと顔を寄せ合っている。

 アルドはそちらに近づいた。

『そもそも、リンくんがあんな予言をしなければ良かったのよ』

『この村はやがて滅びる、なんて……ねえ?』

『そうよ。そうしたら、こんなに嫌われることもなかったのにねぇ』

『でも、生まれた頃から彼女が忌み嫌われてたのは事実でしょう?』

『……そりゃあ、ね。出自が出自だもの』

 やはり、リンの故郷は何かしら曰くつきのようだ。

 アルドは彼女たちのそばで紙を拾った。

 女性たちは井戸端会議を続けているが、アルドは酒場へ向かうことにする。

 酒場ではほろ酔いの男たちが数人、テーブルを囲んでいた。

『あの小娘のせいでこの村が滅びるなど、私は断じて許さんぞ』

『だが、あの娘を無理やり追い出せば、この村は呪われてしまうかもしれん』

『そんなのただの迷信だ。何の為にこれまで彼女を敬って来たと思ってるんだ』

『彼女がいなくなれば、この村も救われる。迷うことはない』

『呪われないように、できる限りのことはして来たじゃないか』

 どう考えてもリンを敬っているようには見えない。むしろ女性たちが噂していた通り、忌み嫌っていると言ったほうがしっくり来る。

 ―リンの存在そのものが村の災厄に関わる。

 少なくとも村人たちはそう認識しているらしいことがよくわかった。

 アルドはリンというよりも、この話を記憶として未だ留めているカミューのことを思って、沈んだ気持ちになる。

 青年カミューは無論、爺カミューとも出逢ったばかりだが、彼だけは心底リンを信頼している。それだけは間違いない。

 だからこそ、青年カミューも爺カミューも、もちろんリンやこの村のことも救けたい。

 全てを救うことは難しいのかもしれない。リンの言葉を借りれば、慈しみだけで世の中は救えないのかもしれない。しかも、ここはアルドが生きている現実世界とは違うのだ。

 ―それでもオレは、未来を救けたい。

 アルドは暗澹たる思いで酒場を出た。

 もう一度村を回ってみると、東の道で老婆が二人話していた。

『カミューも愚かよのう。あんな娘と関ったばかりに……』

『だが、よりにもよってカミューじゃのう……厄介じゃのう……』

『リンくんと違って、カミューはこの村の宝じゃからのう……』

『カミューが弟子である以上、リンくんをあまり邪険にもできんからのう……』

 のうのうと否定的なことしか言わない老婆たちは、二人一緒にため息を吐いて会話を終えた。

 彼女たちのそばに紙が落ちていた。

「そろそろカミューのところに行ってみるか」

 まだまだ断片的な情報だが、カミューからも何か聞けることがあるかもしれない。

 アルドはカミューを探して、村の周囲を探索した。

 西の端、池の近くに独り佇むカミューが視界に入る。

 ぼんやりと水面を眺めている後ろ姿には哀愁が漂っていて、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

 声をかけたいところだが、おそらく聞こえないのだろう。

 せめて歩み寄ろうとアルドがそっと足を踏み出した時、ガサリと奥の森から魔物が現れた。

 池のほとりで俯いたままのカミューは気が付かない。

 魔物の奥には、よく見るとフードを被った人影がある。

 顔がよく見えないが、不敵な笑みを浮かべた気がした。

 フードの人物が魔物をけしかける。カミューはまだ気が付かない。

 のそりと魔物がカミューに近づいた。

「カミュー、危ない!」

 アルドは思わず駆け出していた。

 聞こえていないはずのカミューが、不意に顔を上げた。

 もう魔物は目の前まで迫っている。

 アルドは剣を抜いた。戦いが始まる。仲間はカミューだけ。

 いや、正確に言うと、これは敵とカミューの一騎打ち。

 アルドは本来、手出しもできない存在。

 しかし、なぜだか今この瞬間はカミューと一緒に戦える気がした。

 アルドはいつものように剣を振るい、カミューは攻撃魔法を駆使して応戦する。

 実際に効いているのはカミューの攻撃だけかもしれないが、それでも何もしないよりマシだ。

 やがて、魔物は倒れた。

 アルドは紙の束を手に入れた。

『ほう。やはり、リンが見込んだだけはあるようだな』

 負けてしまったにも関わらず、フードの人物はやけに楽しそうだった。

『不届き者め! 我が村に侵入などさせんぞ!』

『ふん。今日はお前の実力試しに来ただけだ。まだその頃合いではないからな』

 どくん、と景色が揺れた。カミューの心が揺らいでいるのだろうか。

 フードの人物は微妙に間隔を空けて、カミューと対峙している。

『なぜ、私の実力を試す必要がある? お前は師匠とどういう関係だ?』

『まあまあ、落ち着けよ。少なくとも私に敵意はない。むしろ、君を味方にしたいくらいだ』

『こんな姑息な真似をしておいて、よく言う』

『それにもちゃんと理由があるのだよ。まあ、最初から説明してやるからゆっくり聞きたまえ』

 そう言って、フードの人物はリンの故郷とこの村のことを語り始めた。

 リンの故郷では、『時を変えし者』として代々リンの家系を崇め奉って来た。

 自分たちはその使者で、故郷をゆくゆくはこの世界の中心とするべくある時から画策し始めた。

 しかし、時代は移り変わり、リンの祖父母の世代となった時分に、その画策は夢幻となる。

 リンたちの家系は、村の人々を幸福にすることであり、決して権力者にすることではない。

 権力者になることで村や世界が好転するならともかく、リンの祖母は暗転する未来を見てしまった。

 運命を見通す力は、予言をすることで本当になってしまう。

 長い長い時を経てその言い伝えは正しく理解されないまま、ある日、恐れていたことが起きてしまった。

 村の不幸せな未来を望まないリンの祖先たちは、あえて予言をしてしまった。

 こうなる運命なのだと知らしめるように―。

 悪いことにもう一つの言い伝えもまた、誰もが正しく理解していなかった。

 そう、運命は変えられないから、運命なのだ。

 その頃は、好転する未来の予言そのものが、村を維持する指針だった。

 占いと似たようなもので、決まりきった結果に対して、経過は各々の行動によるものだと信じられていた。

 だから、誰もが運命を変えられると信じていたのだ。

 ところが、その時点で歯車は狂い始めた。

 誰がどう行動しようと、結果は変わらない。

 政治も経済も、その実、予言の通りに回っていただけなのだ。

 運命を変えるには、予言をしないことしか方法はない。

 そう、この段階で時すでに遅しだった。

 全てはもう未来に向かって動き出してしまった―。

 いつかも聞いた台詞が、アルドの頭の中に流れ込んで来る。

 使者たちは権力者となる道を諦めなかった。

 権力者になることが不幸なのではない。要は、権力者になる段階を間違わなければいい。

 そういう自分たちに都合の良い理屈をつけて。

 対して、リンの祖先たちは村を守るために画策を阻止する行動に出た。

 彼らもまた、運命は変えられると信じていたのだ。

 予言の通りにならないための彼らの行動さえも、予言された未来に含まれているというのに。

 結局、リンたち一族は自らが予言した運命に屈することとなった。

 使者の多勢に無勢。一族だけで阻止するには、あまりにも膨大な計画だった。

 リンの祖父母や父親はその最中、村で死を遂げた。

 予言の能力を持たないリンの母親は、娘の幸せを望んで遠くの村へ逃れる道を選んだ。

 そして、やって来たのがこの村だった。

 しかし、その頃には故郷である村が一帯を征服し始めていて、この村にも風の噂が流れて来た。

 リンの母親の境遇を知り、村人たちは生まれて来るリンに宿る能力を敬い、同時に畏れた。

 ところが一転、故郷の村は一瞬にして滅びた。

 運命は予言の通りになってしまったのだ。

 その時、ようやく使者たちは気がついた。

 彼ら一族の運命を見通す力は、予言によって確定の未来になってしまうことに。

 そして、いくら変えたいと思っても変えられないのが運命だということに。

 生き残った使者たちは身分を隠し、方々に散った。

時を同じくして、幼いリンは自分の持つ力を知らないまま予言を果たしてしまった。

母親はリンが生まれると、心労も祟ったのか天国へと旅立っていた。

リンが生まれたこの村は為す術もなく、敬意と畏れを持って、幼い彼女を「リンくん」と崇め奉ることしかできなかった。

 それを好機とばかりに、使者たちは再び集った。

 村の裏切り者である一族の生き残り、リンを討伐するために。

その目的を果たすため、使者たちはリンの予言の正しい力を村人たちに教え、リンを村八分にさせたのだ。

『いいか。お前の師匠は我らを見捨てたのだぞ。この村ではあの時と同じことが起ころうとしている』

『つまり、私たちも見捨てられる運命だと?』

『そうだ。彼女は偵察中の私の仲間に気がついて、こう言ったそうだ』

 ―私はこの村の未来を救うつもりはない。この村を守ることはできないから。

 ざざっと森の木々が、池の水面が揺れた。そして訪れた静寂。

 また身体を押し潰されそうなほどの苦しさが、アルドにのしかかって来る。

「くっ……!」

 あまりの重さに耐えられず、アルドは膝をついた。

 あの好々爺のカミューは、こんなにも大きな痛みを抱えていたのか―。

『どうだね。彼女がこの村に残っている理由は他にあると思わないか?』

『………………』

 黙り込んでしまうカミューに、フードの人物は薄気味悪い笑みを浮かべている。

 もう一押しだとでも思っているのだろうか。

 ―カミュー、ダメだ。信じろ、リンを、自分を!

『君は宝の持ち腐れだよ。この村を守りたいなら、師匠とは離れたほうがいい。彼女は君たちの敵だ。我らにとっても敵だ。つまり、我々は味方だ。仲間だ。そうだろう?』

 ―やめろ、違う。仲間だなんてそんな簡単に言うな。あんたはカミューの何を知っている?

『…………』

 カミューは心ここにあらずといった様子で、ふらりとフードの人物に近づいた。

 フードの中の顔が醜く歪んだ。ニイィと音がしそうな嫌な笑顔が垣間見える。

『そうだ、その調子だ。いいか、君は騙されていたんだ。我らと一緒にあの女を、裏切り者を、退治しようではないか!』

 ふらりふらりとカミューは、フードの目の前までやって来た。

『……ふざけるな……』

 それは、冷静で気力に溢れた、それでいて少し気弱な青年カミューからは聞いたことのない声だった。

 フードが怪訝そうに首を傾げた。

『何?』

『私の前で、師匠を侮辱することは許さない!』

『おい、やめろ!』

『私が何も知らないと思ったら大間違いだ。私は、あの人を救いたいんだ!』

 そう叫んだカミューの手には、攻撃魔法が湛えられていた。

 怒りの爆発と共に金縛りが解けた。

「やめろ、カミュー!!」

 アルドの声は届くはずもなく、虚しく響く。

 あんなものを当てたら、人間一人などひとたまりもない。

 カミューにそんなことをして欲しくない。

 彼がリンを救けたいと言うのなら、アルドはカミューを救けたい。

 ―でも、この世界じゃ……オレは無力だ……。

『うわあああああ!』

 フードの人物の恐怖に満ちた絶叫は、ゆっくりアルドを覆った暗闇の彼方に消えていった。


 もう怒りも哀しみもそこにはない。虚しさだけが空気となってそこらじゅうを漂っている。

 心の中が空っぽになったような気分だった。

 考えることはたくさんあるはずなのに、何も思い出せない。

 カミューは結局、諦めてしまったのだろうか。

 フードの人物を説得することを、リンを信じることを、運命を変えることを―。

 アルドは目を閉じた。これまでと違って、このままどこまでも堕ちていきそうだった。

 そんなはずはないとわかっているけれど、この時間が永遠にも感じられる。

 もしかすると、カミューが言っていたように、混沌に飲み込まれて、ここを永遠に彷徨うことになってしまうのだろうか。

 ―それならオレは、抜け出す方法を探すだけだ。カミューを救けるために。

 半ば覚悟を決めた瞬間、ふわりと優しい光を感じた。

 堕ちる感覚が消え、そっと地面に着地する。

 光は強くないのに、不思議と眩しすぎて、周りが全く見えない。

『リンちゃん、ちょっと待ってよ〜!』

『カミュー、早くおいで。ここから見える景色、とっても綺麗なんだよ!』

『嘘だあ、そんなに綺麗だったら大人たちが教えてくれるよ!』

『嘘じゃないよ。わたし、嘘つかないんだから!』

『……本当だ! とっても綺麗だね! どうして教えてくれなかったのかな?』

『きっと知らなかったんだよ。ここはわたしたちの秘密の場所ね?』

『うん! 二人だけの秘密だね!』

 ぱあっと視界が開けた。そこはカミューの記憶の中で最初に来た場所。

 ―リンの石碑があった場所。

 幼い頃の二人が、青年カミューと同じ景色を眺めていた。

『ねえねえ、リンちゃんって未来が見えるんでしょ?』

『そうだよ』

『今度何か見えたらぼくに教えて!』

『いいよ。カミューにだけ教えてあげる』

 二人は顔を見合わせて、にっこり笑った。


 すうっと意識が遠くなる。何も見えなくなる。

 でも、暗闇ではない。ほんわり穏やかな光があたたかい。


 目が覚めた。最初に見えたのはどこかの床。

 アルドはのそりと起き上がる。

 寝覚めの光景のわりに、まだぽかぽかの余韻があって気持ちがいい。

「無事に帰ってきたようじゃな」

「……爺さん」

「どうじゃった、感想は」

「……爺さんが一番、後悔していることは何だ?」

「ほう。質問返しかの。しかし、良い質問じゃ。お前さんは案外、物事の本質を見抜いているようじゃな」

 どうやら褒められているらしいのに、アルドは嬉しさよりもむしろ焦燥を感じた。

 カミューはこのままでいいと思っているのかもしれないが、それでは納得がいかない。

 アルドにとっては結局、わからないことだらけだ。

「ワシは、一体どこで間違えたんじゃろうなあ」

 顔には仏の笑みを浮かべ、口調は穏やかなのに、その台詞はとてつもない悲壮感に満ちていた。

「それは、どうやったらリンを救えたかってことか?」

「……うむ。師匠と共に襲撃された村から逃げ出していたら。あの頃のワシが本質を見抜いて村の人間たちを説得できていたら。師匠の故郷の使者をあの場で葬っていたら。何より……幼いワ

シが師匠に予言を教えてくれと頼まなければ。こんなことにはならなかったのかもしれぬ」

「……後悔だらけだな」

「そうじゃなあ。それに、師匠が最期に遺した言葉も、この歳になってもわからんままじゃ」

 ―生きて、私を救けて。

 リンは確かそう言っていた。

「……このままでいいのか?」

「過去は変えられんと何度も言ったはずじゃがのう」

「でも、オレにこれを見せてくれたってことは、どうにかしたいと思ってるんじゃないのか?」

「最期に気持ちを整理したかっただけじゃ。自分には見えぬことも、他人の目を通せば新しいことが見えるかもしれんからの。そもそも、ワシが脚本家になった理由もそこにあるのじゃ」

「どういうことだ?」

「ワシは他人の記憶に入る力を持て余しておった。師匠に弟子入りしたのもそのためじゃ。他人の過去を受け止めるには、ワシは未熟だったんじゃよ」

「過去を受け止める……」

「そうじゃ。お前さんも身をもって体験したじゃろう?」

 アルドは苦しさが襲いかかって来る感覚を思い出す。

「ああ。あれを何度も受け止めて来たのか、爺さんは」

「贖罪のようなものじゃ。運命と同じように過去も変えられないのなら、せめて一緒に受け止めようとして来たのじゃ。そして、ワシはそれを脚本にする。誰かに悩みを告白すると、不思議と心が軽くなるじゃろう? それと同じことじゃ」

「そうだったのか」

「お前さんに探して来て欲しいと頼んだ紙も、一方通行の記憶の中で出来事を書き納めるために必要での」

「ああ、それで……。でも、これ今回は使わなかったぞ?」

「うん? そういえばそうじゃな。ワシの最も奥底にある記憶を引き出すための条件でもあるんじゃがのう……」

「じゃあ、それがまだ引き出せてないってことなんじゃないか?」

「ううむ。しかし、師匠に関わる記憶はこれで全部のはずじゃが……」

「爺さんが気がついていないだけじゃないのか? オレなら、それを探せるかもしれない」

 爺カミューは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。

「お前さん、ずいぶん無茶なことを言うのう。主人公らしくて結構じゃが」

「他人の目を通せば新しいことが見える、って言ったのは爺さんだろ?」

「それはそうじゃが……しかし、ワシの記憶はもう再生できんのじゃぞ?」

「じゃあ、最後の場面に戻れないか? そうしたら、後はオレで何とかする!」

 ハッと爺カミューが顔を上げた。そして、ふっと目を細める。

「ワシはどうやらお前さんを見縊っていたようじゃのう。もっと早くに気づくべきじゃった。ワシにはできぬことを、お前さんは記憶の中でやっとったくらいじゃから」

「ん? 何か言ったか?」

「お前さん、ワシの記憶の中で、ワシがいないところに行くことができたじゃろう?」

「ああ、少しでも情報収集できればと思って。それがどうかしたのか?」

「ワシにはそれができんのじゃよ。お前さんには特別な能力があるようじゃ」

「そうか? オレは爺さんのほうがすごいと思うけどな!」

「お前さんはそれで良い。その心、忘れるでないぞ」

 爺カミューは静かにそれだけを言うと、改めてアルドを正面から見つめた。

「よし、お前さんを信じよう。しかし、ここからはワシも未知の世界じゃ。気をつけていくのじゃぞ」

「ああ、わかった」

 再び、アルドは紐から垂れ下がったコインを凝視した。

 意識がみるみる遠のく。

 どさりと身体に固い感触があったのは一瞬で、そのままアルドはカミューの記憶の中へ舞い戻っていった。

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