1-02 略奪未遂①

 いつの間にか部屋の掃除を始めているアトレーゼを眺めつつ、もはや止める気がなくなってきたヴィルだった。


 いや、断じて受け入れようというつもりはない。まして殺されてやる義理もない。

 だがまあ家事をやってくれるのは便利で助かるのも事実。

 本人が望んでやるのなら遮るのも野暮だし、ならばいっそ利用しておこう、くらいのつもりである。


 結婚したらこんな感じなのだろうか。

 正直今日まで考えたことがなかったのだが、案外悪くない。


 飯は美味いし、見る限り掃除の手際もよい。修道院育ちなら慣れたものだろう。

 彼女はせっせとよく働き、これまでヴィルが適当にやっていたので最低限の衛生を保つ程度だった室内を、隅々まできれいに磨いている。


 その額にしっとり汗が浮かんでいるのを見て、やっと人間味が出てきたな、などと他人事のようにヴィルは思った。

 これでその辛気臭い面をどうにかしてくれたら言うことなしだ。


「そういやおまえ、さっき起こさなかったとか言ってたな。てことは寝室まで入ってきたのか」

「ええ」

「寝首を掻こうとは思わなかったのか?」

「そんな卑怯な真似をしたら、仲間に笑われてしまいます……それに、あなたほどの方が、そうやすやすと奇襲にかかるとも思えませんし……」


 いや寝所に忍び込まれた時点では気づかず寝ていたので、その発言はいささかヴィルを持ち上げすぎている。

 ……などと正直に言うのは隙を晒すのも同然なので黙っておいた。

 戦中の気を張っているときならまだしも、この女さえ来なければ平和な今は、いかに歴戦の傭兵でも気を緩めて眠りたい。


 しかし黙っているのも不自然だろうと、ヴィルは茶化すつもりでやや下種な冗談を言った。


「さーてね。でもまぁ、色仕掛けでもされりゃ話は別だったかもな」


 ぽとり、とアトレーゼの手から雑巾が零れ落ちる。

 そのまま彼女はぴくりとも動かなくなった。

 これはさすがに怒らせたかな、と苦笑を隠さないヴィルが、おーいどうした、と声をかけながらしれっとその肩に手をかけると。


 ぎこちなく振り向いたその顔は、茹でたカニか海老のごとく真っ赤になっていた。


「な……な……んて……言っ……」

「何って、色仕掛けだよ。修道女ならそっちの経験はなさそうだが、さすがに意味くらいはわかんだろ?」

「そんッ……そんなこと、で、できまっ……しません……!」

「んな照れることかよ。こないだなんか俺の目の前で乳おっぴろげてたくせに」

「あっ……あれは、そのっ、わ、わた、私、ひ、必死で……、ッそれに、すぐ殺すつもりだったんです、だからその、わ……忘れてください……ッ」


 頭から湯気でも出そうな勢いで赤面し、まともに呂律が回っていないありさまで、その恥じらいぶりはいっそ憐れなほどだった。

 同時にヴィルの内にむらむらと意地の悪い感情が湧いてくる。


 造りもののような無表情よりこちらのほうがずっといい。

 潤んだ瞳や上がった息がどこか煽情的で、ヴィルの中の男が初めてこの女に対して喉を鳴らした。

 今まで人形か木石のような冷たさで覆われていたアトレーゼの中の『人間』、つまりは血肉を纏い情を通じられる『女』がそこにいることを、ようやく見とめられたような気がしたのだ。


 それにそういう魅力云々を抜きにしても、ようやく精神的な面でこの女の隙というか、つけ入れられそうな部分が見えたように思う。

 決してそれを何か良からぬ企みに利用しようというのではない。ヴィルはあくまでアトレーゼにつきまとい行為をやめさせる方策について考えていた。


 元傭兵は自称聖女ににじり寄る。

 アトレーゼは大げさなくらいにびくついて、後ずさる。ヴィルはそのまま彼女を壁際まで追い詰めると、反射的に体の前に出してきた腕を掴んで、優しく壁に押し付けた。


「なあ、忘れるより、いい方法があるぜ」

「いい……方法……?」

「俺が女にしてやるよ。聖女でも修道女でも、軍処女だかでもねえ、ただの女にな……」


 わざと低い声で囁く。それから顎の下に手を入れて、俯きがちな顔を強制的に上を向かせ、眼を合わせた。

 その体勢のまま、息がかかりそうなところまで顔を近づける。

 アトレーゼは紅墨色の眼を震わせながら、抵抗するのも諦めたように硬直している。その瞳の中に映り込むのは悪い顔をした己だ。自分でも、こんな下種い表情が作れるものなんだなと呆れるほどに。


 あと一押し、どうしてやろうか。


 そういうつもりではないにしても、肉感的なくちびるをこれほどの至近距離で目の当たりにすると、欲がグラつく。そのすぐ下に黒子ほくろがあるのが余計に色っぽい。

 ほんとうにキスしてやろうか――それでどんな反応をするか、ちょっとばかり見てみたい――とヴィルが思った、そのとき。


 トントン、ガチャ、という不作法な音が続けざまに聞こえたかと思うと、止める間もなく呑気な言葉が響いた。

 聞き慣れた少女の声で、「おはようございまーす!」と。



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