第一章 脱獄囚と悪魔と聖女
1-01 温かい飯には抗えない
さわやかな朝の空気の中、雑木林から聞こえる鳥の鳴き声や、裏手に流れる川のせせらぎの音……に混じる、何やら妙な気配を感じてヴィルは目を覚ました。
家の中に、何かがいる。
音や臭いに意識を集中すれば、それが獣の類ではないのはすぐにわかった。
というかこの胃を誘う香ばしい薫りと音、そして静かな靴音は明らかに人間の仕業に違いない。しかし物取りや強盗なんぞでもなく。
「……何やってんだよおまえ!」
音の出どころと思しき台所を覗くなり、ヴィルの目に飛び込んできたのはアトレーゼの姿である。
驚いて叫ぶように声をかけたところで彼女はゆっくりと振り向き、にっこりと笑――もとい、相変わらずこの世に絶望しているような暗い顔のまま、答えた。
「おはようございます……」
「いやおはようじゃねえだろ何やってんだって聞いてんだよこっちは!?」
「はい、その、勝手にお台所をお借りして、申し訳ございません……朝食の用意をしていました……」
「ちょう……」
アトレーゼがなにやら泣きそうな顔をしながら恐る恐ると指さすのはテーブルの上。
そこに鎮座しているのは、ほこほこと湯気を立てている温かなスープ――さきほどから漂っている美味そうな薫りの発信源がそれであることに疑いはない。
横には食べやすい大きさに薄切りされたパンと、野菜を刻んだ簡単なサラダもあった。
「あと、よければ卵と
「お、そりゃいいな。頼むわ。……ってそうじゃねえ! なーんでおまえは俺んちに忍び込んで朝飯作ってんだよ!?」
「よく眠っていらしたので、起こすのは気が引けまして……それで待っている間、手持ち無沙汰でしたので、ついでに家事の腕を見ていただこうかと……」
「食えってか」
「お願いします。……先に申し上げますと、毒は入っていません。私は剣で殺さなければ魂を狩れませんから」
そう言われても安心などできない。
できないが、とりあえず匂いに胃袋がずるずると引きずられていたヴィルは、アトレーゼを睨んだまま椅子に腰を下ろした。
汁は薄い橙色、そこに豆や根菜が彩りよく浮かび、それをうっすらと金色の油膜が覆っている。外見、香りともに申し分ない代物だ。
作ったのがこちらの命を狙う刺客だと知らなければ喜んで食べたいくらいだが、ヴィルは念のためにこう言った。
「先におまえが一口食ってみろ」
「味見はしましたが……わかりました、失礼します」
アトレーゼはおたまを手に取って、器からスープを掬って一口飲む。
その白い喉がたしかに上下したのをヴィルは見た。誤魔化しているようすはないし、ひとまずスープに関しては毒が入っていないことを信じてもよさそうだ。
あとはパンとサラダか、と空腹を堪えて考えるヴィルの目前に、スプーンが差し出される。
たっぷりとスープを湛えて薫香を振りまくそれの元を辿れば、剣を振るとは思えない柔らかそうな白い手、腕、肩、胸、首、そしてこちらをじっと見つめるアトレーゼの顔。
「……どうぞ。味は悪くないと思いますから……」
どうもこの顔に弱いんだよなと自分自身に半ば憤慨しながら、ヴィルはスプーンを口に含んだ。
自分でそうしておきながら、なんで俺はこいつに介助されてんだ、などと勝手に思う。
「……。美味いな」
「よかった……」
そのときアトレーゼの顔が初めてかすかに綻んだ、ような気がした。
断言しきれないのはまたすぐ暗い表情に戻ってしまったからで、スプーンをこちらに渡しておたまを片付ける彼女を見て、惜しい、などと思っているヴィルがいた――そんな己に驚いた。
たしかに今、彼女の笑顔をもっとはっきり見たかったと思う自分がいたことに気づいたからだ。
そして思う。これが世に言う一目惚れというやつなのだろうか、と。
けれどどうも腑に落ちないのは、ヴィルの内にある感情が今のところ喜びとは似て非なるものだという確信があるからだ。
もしこの女に惚れてしまったのなら、彼女を前にして、「懐かしい」と感じるのはおかしい。
たしかにこの身体は魅力的だし、男としてこの手で裸にしてみたい欲望がないこともないけれど、それとこの妙な郷愁の念とは明らかに結びつかないのだ。
残りのスープを飲みつつなんだかんだでパンも食べながら、ヴィルはなんとなしに訊いた。
「……おまえ、前にも俺と会ったことあるか? この家以外で」
「いいえ」
「絶対に?」
「あなたの経歴を調べました。私はあなたが傭兵として参加した戦役のいずれにも関わっていませんし、基本的に、戦士の魂を狩る目的以外ではほとんど教団を離れたことがありませんので……」
嘘のなさそうな言いかたに納得しつつ、ヴィルはスープを飲み干した。
……結局その後パンとサラダと卵と肉までしっかり完食したうえ、ちゃっかりスープのおかわりまでした程度には、アトレーゼの料理の腕には問題がない。
というか、美味かった。まずいことに。
不味くないことがまずいなんてこともあるのか、とヴィルは初めて思った。
だってそうだろう。これは餌付け以外の何ものでもない。
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