十二話 二度目の別れ

 "しあわせだった"




 ここへ帰ってきたら、否応なしにこの全てを手放すのだと思っていたのに俺の意識はまだはっきりとしている。

 アパートに戻る前は、こんなこと思わなかったのに、今は少しだけ怖い。

 こんなに鮮明に覚えている三日間の記憶は、きっと、後少しの時間で消え失せてしまうのだろう。乃々の笑顔も、匂いも…シュガーの温もりも鳴き声も…。そして俺の記憶も、意識も。


 きっともう涙なんて流れていない。身体の形すらあるのか分からない。でも胸は締め付けられるようだった。まだ、俺はちゃんと覚えている。










「シュガー」


「ミー…」


「乃々をお前に任せていい?」


「ミィ…」


「俺の代わりに乃々を守ってくれる?」


「ミィ…」


「約束な」


「ニャーン…」


「心配しなくてもお前が寂しい時も、乃々が必ず側にいてくれるから。俺たちは家族だろ」


「ミー…」


「俺は先にあっちへ行くだけで、いつかまた必ず会える。だからちゃんと飯食って大きくなれよ」


「ミー…」


「…ごめん」


「ニャーン」


「おいていってごめんな」


「ニャーン」


「シュガー、ずっと俺の側にいてくれて…ありがとう」








 泣いてはいけない。そう分かっていても、まるで二人が会話しているようで、シュガーが必死に柚希の気持ちを理解しようとしているようで、口元を押さえた手には何粒もの涙が伝い落ちた。




「乃々」


 返事をしたら行ってしまう。


「…乃々」

 

 シュガーへ向けた言葉のように、私にも別れの言葉を告げたら、柚希は行ってしまう。

行かないでなんて言ってみたところで、何も変わらなくて、柚希を想えば…シュガーを想えば、ここできちんとお別れをしないといけない。



「乃々香」


「嫌…」


「泣いていいから。おいで」


 伸ばされた腕に縋りつくように飛び込むと、柚希の腕がすっぽりと私を包み込んだ。


「我慢なんてする必要ない。一緒に泣こう」


「柚希…!離れたくない…」


「俺も」


「おいていか…ない…で」


「うん…。おいていきたくない」



 何でもっと早く好きだって伝えなかったのだろう。いつも側にいたのに。何でもっと早く柚希の夢を聞かなかったんだろう。未来を、二人で語り合えたのに。何でもっと早く柚希の痛みに気付かなかったのだろう。一人で怖くない様に抱きしめてあげられたのに。



「乃々。ネックレス見せて」


 細いチェーンに指をかけると、柚希はそのままそこに唇を寄せた。


「ここにいる」


「え…」


「姿は見えなくても、ここにずっといるから」


「柚…希」


「忘れていいなんて言ってやらないから。俺のものだったこと忘れないで」


 





 ”乃々”


 ”柚希”


 大好きだった。笑った顔も、少し不器用なところも。


 だから、その言葉を信じている。


 姿が見えなくたって、ここにいてくれるんだね。



「…好き」


「俺も好きだよ」


「ずっと好き」


「うん…俺も」



 時間は永遠ではないけれど、運命は時に残酷だけれど、それでも、私は柚希と共に生きて柚希に恋をした。



「シュガーと…生きて…いく」


「ずっと二人を見守ってる」


「また、きっと、泣くけど…心配しないで。ちゃんと前をむくから…」


「信じてる」


「柚希」


「うん」


「柚希…っ」


「うん…」


「会いに来てくれて…っありがとう」


「ミー…」


 柚希は私の頬を撫でて、シュガーの頭を優しく撫でると、持っていたブレスレットに手をかけた。





「幸せな人生だった。ありがとう」








-----------プツン‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐




 

 頭の中で小さく音が鳴った。


 胸が苦しくなって呼吸が乱れる。


 薄暗い部屋には私を見上げる白くて小さな子猫。


 夜でも朝でもない、今。


 私たち以外誰も知らない今。


 柚希は夢のように消えてしまった。


 夢だったのだろうか。


 自分に都合のいい夢を見ていたのかもしれない。


 自身を慰めるように。


 私が壊れない様に。


 私が作り上げた幻想だったのだろうか。






「ミー」


「…シュガー」


「”なかないで”」


「……?」


「”そばにいるよ”」


「シュガー?」


「”ゆずきとのやくそく”」


「…っ、シュガー!」



 この日、私たちに会いに来てくれた柚希は、ミント色のブレスレットと共に天国へと帰って行った。

誰も知らない、記憶。きっと誰にも、伝えられない記憶。


 でもシュガー。


 あなたが知っている。


 これが夢でなかったことを。


 私たちの元へ柚希が帰ってきてくれた記憶。


 それは、私たちだけの、特別な記憶。












「シュガー、ただいま」


「ニャー」


「ごめんね遅くなって。お腹すいたね」



 気付けば桜の季節から、暑い夏を経て、シュガーと散歩で落ち葉を踏みしめて、冷たい空気を肌に感じ始める季節になっていた。

 仕事から帰ってきたときにする、部屋の隅々にまで視線を彷徨わせてしまう癖はまだ直らなくて、何ヶ月経っていても私の記憶にはあの日ここで柚希と再会したときの気持ちが鮮明に残っている。


「シュガーおいしい?」


「ニャーン」


 あの時弱っていたシュガーは、柚希が消えた後驚くほど元気になって、ご飯も前のように沢山食べるようになった。やっぱり、柚希とシュガーは何らかの不思議な力で繋がっていたのかもしれない。


 あの時の出来事を私はどう受け入れて生きて行くのかずっと考えていたけれど、今現在も、ここに柚希がいてくれたことが心の支えになって毎日を生きているような気がする。


 柚希の声も、温度も、全てを、覚えている。



「明日お休みだから、一緒にお出かけしようね」


「ニャーン」


「あ、そうだ。今日満月だよ」


「”ゆずきにあいたい”」


「…うん。私も」


 柚希が消えてしまってから、一つだけ不思議なことが増えた。

 それは、シュガーの言葉がなんとなく分かるようになったこと。全ての言葉が分かるわけではないけれど、シュガーが強く想うことが…直接気持ちに入り込んできているような、不思議な感覚だけど、私たちは前よりももっと痛みを分け合える関係になった。



「ニャーン」


「ふふ、分かってる」


 服の中からいつもつけているネックレスを出すと、尻尾を揺らしたシュガーは小さな鼻を近づけた。


「ミー…」


「うん、柚希はここにいるよ」


「ミーミー」


「へへ…ごめんね…」


「"ないていいよ"」




 何度も何度も折れそうになる。後悔する。やっぱりあの時ついて行けばよかったのかもしれないと。

 冷たい布団の中で、柚希の温もりを思い出しては瞼の裏にいるあなたに会いに行くの。恋しくて、寂しくて、耳の奥に残るあなたの声を頼りに"愛してる"と言ってもらうの。


 小さな時の忘れかけていた思い出を呼び起こしては、瞼に映った景色をシャッターを切るように頭の中に焼きつけた。その写真が増えるほどに、胸が痛くて、切なくて、涙が堪えられなくなった。


 でもこの胸の痛みは、私が柚希を本当に愛していた証。


 この胸の痛みは、私が生きている証。


 そして、柚希と一緒に生きてきた証だね。



「シュガー、寝よう」


チリン。


「明日、お墓参りに行こうか」


「ミー」


「それから、柚希の職場だった施設にもお散歩にいこう?」


「ミー」


「おばさんや、洸希君にもたまにはシュガーの顔見せなきゃね」


「ニャーン」


「ふふ、嬉しい?」


「ニャー」


「…シュガー。側にいてくれてありがとう」


「ミー…」


「いつも…っ、ありがとう…」


「"ののかだいすきだよ"」


「私も…世界で一番大好きだよ」

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