十一話 二つの覚悟


 布団の中で柚希の話を聞いて、頭の中を整理しようとして、でも出来なくて。分かっていたはずなのに、実際言葉にして言われると、目の前が真っ暗になって。もう一度柚希を失うような絶望感に、全身がその事実を拒絶するように震えた。

 返す言葉を探して、何と答えればいいのか。グルグルといろんなことが回っていた頭が、一度ぐらっと揺れて、冷静さを取り戻すと柚希の吐息をすぐ側で感じた。


「柚…希…」


「何も言わないで」


 その声が耳元をくすぐると、薄い柚希の唇が私の唇に触れて、撫でられているような感触に身体の奥が熱くなった。

 何度も重なる唇からは自然に甘い吐息が漏れて、遠慮がちに隙間から入り込んだ舌が、小さな音を立てて絡み合った。身体は感じたことがないくらい熱くなって、あっという間に他のことが考えられなくなる。


「柚…っ、」


「お願い。俺のものに…なって」


 覆い被さる柚希が動きを止めて私を見下ろすと、額の上にポタリと落ちてきた雫が、私の目元から溢れた涙と混ざり合って髪の毛を伝って布団を濡らした。


「乃々を、俺のものにしたい」


 







 もしもこれが夢ならば、何て幸せで残酷な夢なのだろう。温もりを一度知ってしまえば、この先きっと幾度となくその温もりが恋しくなって、私は何度も何度も泣くんだろう。

 一度覚めると、二度と見ることが出来ない夢ならば、もう一生覚めなくていいから、あなたのいるその場所へ連れて行って欲しい。それならもう離れなくていいから。一人で泣くのはもう嫌だ。この先の人生に柚希がいないのなら、もう、生きていたって仕方がない。


 何もかも要らないから。お願い連れて行って。





「…ネックレス」


「え…?」


「つけてくれてたんだ。知らなかった」


「あ、うん…。いつも服の中に入れていたから」


 柚希の細い指がネックレスを辿ると、身体の奥がその動きに反応するように疼いた。


「乃々」


「…柚希」


「本当に好きだ…」


「私も…」



 柚希の指が素肌に触れて、余裕のない吐息が鼓膜に響く度に涙が溢れて止められなかった。私のなのか柚希のなのか分からないほど混じり合った涙は、最後まで枯れることはなかった。




 私たちはどうして離れなくてはいけなかったのだろう。当たり前にあった日常は、どうして私たちの前から消え失せてしまったのだろう。


 行かないでと縋っても、連れて行って欲しいと縋っても、きっと彼は一人でいってしまう。


 この瞬間さえも、過去になって、想い出になって、そしていずれ遥か遠くに残された記憶の一片になってしまう。

 どんなにどんなに強く望んでいたって、私と柚希は、永遠にはなれないのだから。







「俺さ、乃々と家族になりたかったんだ。乃々が奥さんになって、シュガーがいて、子供もいたら最高だって一人で考えてた」


「柚希…」


「ずっと俺のことだけ見ていて。乃々は…俺だけのものだから」


 


 私をきつく抱きしめながら漏れる、嗚咽混じりの言葉は、プロポーズなのだろうか。ならば、私の答えはイエスに決まっている。でも柚希の言葉には続きがあった。きっとこれは彼の小さな願いで、別れの言葉なのだ。



"せめて…ここに俺がいる、最期の瞬間まで…"






 どんなに朝が来ることを拒んでも、必ず朝はやってくる。一分一秒を惜しんで、その温もりを記憶に焼き付けようとするけれど、甘い疲労感に包まれた身体は、容赦なく眠りの世界へと私を誘った。

 

「乃々、おやすみ」





 柚希が生きていたのなら、私たちの未来はどうなっていたのかな。柚希が突然目の前から消えてしまったあの日から、幾度となく想像した私たちの未来。

 柚希の夢が詰まったこのアパートで、シュガーと三人で。私は柚希と自分のお弁当を作って出勤して、柚希はあの施設でピアノを弾いていたのかもしれない。お互いに疲れて帰ってきても、一緒にキッチンに立って、お風呂から上がったら寝転んでシュガーと遊んで。布団の中で、今日あったことを日課のように話したかもしれない。子供達と遊んだ話を、子供達の心の声を聞いた話を、手を繋いで聞いて、一緒に心を痛めて一緒に笑って、いつか私たちも子供が欲しいねって寝不足になるまで未来を語り合ったのかもしれない。

 そしていつか、二人の間に子供ができて、大好きな子供の声と、シュガーの声、私たちの笑い声でいっぱいの家庭を築くの。二人で夢を叶えて、家族で乗り越えて、柚希がもう耳を塞がなくていいように、ずっとずっと幸せに暮らすんだよ。


 柚希が会いにきてくれたことで、想像していた未来はより鮮明に想い描くことができるようになったのかもしれない。けれど、この気持ちだけは、あの日から何も変わらない。



 私は柚希と生きていきたかった。



 何度も考えた。どうして柚希が戻ってきてくれたのか。柚希が話してくれたように、何か不思議な力がシュガーやシュガーの親猫と繋がっていたのかもしれない。この世には理屈では説明できないものが溢れているのだから、この経験だって広い世界で見れば、もしかしたらおかしなことではないのかもしれない。

 でもきっとそれだけじゃない。時には柚希を苦しめていた、誰にも届くことのなかった音や声は、柚希に届いたことで救われていたのかもしれない。その音は、何かの誰かの、孤独に震える音だったのかもしれない。

 そんな寂寥感のある世界と向き合ったあなたに対する、見えない沢山のものたちからの恩返しだったのかもしれないよ。


 私たちに明日はないけれど、私の明日は続いていく。

 あなたの想いを知って、あなたの孤独を知って、あなたの愛を知って。


 私はまた生きていくんだね。










「フーッ」


「大丈夫だから」


 

 恐らく眠ってからまだそれほど長い時間は経っていない。身体は眠っていたけれど、頭は起きていたような、夢なのか現実なのか分からない思考の中でふと目を覚ますと、尻尾を逆立てて柚希と向き合うシュガーの姿が見えた。


「な…に、してるの?」


「ミー…」


 私の声に気付いて返事をするシュガーはとても悲しそうだった。何かを訴えかけるように私を見つめると、その視線を目の前に座る柚希へ向けた。


「ごめん、乃々起こして」


「どうしたの…?なんでシュガーが怒って…」


 まだ薄暗い部屋に、ハッハッと苦しそうなシュガーの荒い呼吸の音がする。



「シュガー…?苦しいの?」


 慌てて身体を起こすと、シュガーはその場にへたり込むように倒れてしまった。


「乃々。このままだとシュガー死ぬ」


「え…?」


「首輪がもう切れそうだ。多分切れたら…」


 寝る前に見た時はほつれているだけだったのに、たしかに今は少し引っ張ると切れてしまいそうだった。


「な、なんで!?シュ、シュガー…!」


 返事をせずうずくまるシュガーは、顔だけを上げて柚希を見つめている。


「…シュガー。だめだ。言うことを聞け」


「フーッ」


「シュガー!」


 二人のやりとりを見ていると、シュガーの身体の下に事故で切れかかっていたブレスレットがあることに気がついた。このブレスレットは、シュガーと柚希を繋いでいるものだって昨日…。


「乃々。俺がここに少しでも長く居られるように、シュガーが自分の命を捨てようとしてる」


「な…に…?」


「多分、このブレスレットが切れたら俺はこの世界からは消える。俺の世界とこの世界を繋げていることで、シュガーには負担がかかっているんだ。早くあっちに戻らないと、シュガーの首輪の方が先に切れて、シュガーも死んでしまうかもしれない!」


 浅い呼吸を繰り返しながらも、シュガーはそのブレスレットを柚希に渡すまいと、身体の下にひいて動こうとしない。




「シュガー…。柚希に…行ってほしくないんだよね…?」


「ミー…」


 泣きそうなその鳴き声は何度も聞いた、柚希を恋しがる声だ。シュガーが何度も空を見上げて零した、柚希を呼ぶ声。


「俺は遅かれ早かれもうすぐ消える。それは間違いない。たった数時間延ばすために、お前の命を無駄にするな!」


「たった…数時間でも…側にいたいんだよ」


「乃々」


「シュガーだって…っ、ふ…寂しかったんだよ。柚希に…会いたくて、恋しくて…たった数分でも…数秒でも長く側にいてほしいんだよ」


「ミー…」


「シュガー大丈夫、ちゃんと分ってるよ…」


 柚希のそばにいられるなら命だって惜しくないんだよね。親猫が居なくなって、一人になったシュガーにとって、自分の声に気付いて手を差し伸べてくれた柚希は、命よりも重い大切な存在なんだよ。



「シュガー、怒鳴ったりして悪かった。無理にブレスレットを取ったりしない。身体辛いんだろ…力抜け」


「ミー…」


「分かってくれ。お前の命を奪うわけにはいかないんだ。お前はやらなくちゃいけないことがあるだろ」


「ミー」


「乃々の側に…居てやってくれよ。お前以外に誰に…頼めるんだよ」


 柚希を見つめていた丸い瞳は、ゆっくりと私に向けられた。


「シュガー、私がいるよ…。シュガーの側にずっといるから。だから…っ、シュガーもどこにもいかないで…」


 

 チリンと鈴が小さく鳴る。



 柚希の手が、シュガーの身体の下にあるブレスレットを掴むのを、シュガーは抵抗せずに見つめていた。

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