十話 蘇る記憶

「柚希、シュガーやっぱりご飯食べない」


 アパートに着いて一番に乃々が準備した飯の前で、シュガーが耳を垂らして座っている。


「腹減ってないの?」


「ミー」


「今日連れ回したから、疲れたのかな」


 確かに久しぶりに外に出られて、楽しそうによく動いていたように思うけど、鞄の中にいる時はずっと眠っていた気がする。


「明日は部屋でゆっくり過ごさせてやろう。シュガーのことはやっておくから風呂入ってこい」


 乃々が風呂場へ向かったのを確認してから、餌が入った器を持ち上げようとするとシュガーがその手を押さえるように飛びついてきた。


「ニャー」


「食わないんだろ?」


「ニー…」


「食うの?」


 もう一度その場に器を置き直すと、シュガーはゆっくりと口をつけ始めた。いつもは餌の時間を楽しみにしていたのに、今はまるで心配かけまいと無理して食べているように見える。


「無理しなくていいって。具合悪いのか?」


「ミー」


「休み明けたら乃々に病院連れて行ってもらえ」


 それ以上食べられそうにない器を片付けてからシュガーを膝の上に乗せて、乃々が風呂から上がるのを待っていると、ふとシュガーの首輪がほつれていることに気が付いた。

 まだ新しい首輪なのに…不自然にほつれていてこのままでは切れてしまいそうだった。


「何でこんなほつれてんだ。せっかく…」


 シュガーの首輪を眺めていると、なんとなく視界に入ったソレ。

 この部屋に戻って来れた時、まだ乃々は仕事から帰っていなくて、シュガーだけがいたこの場所で小さなチェストの上に置かれたソレを一番に見つけた。

 シュガーが見せてくれた映像の中で、乃々が握りしめて泣いていたボロボロになった俺のブレスレット。シュガーと共に生きていく小さな誓いを立てたあの日、新しくおろしたブレスレットは地面と擦れたせいか、もしくはタイヤが擦れたせいか、辛うじて輪っかの形を保っているものの、少しの力を加えるだけでプツンと切れてしまいそうだった。

 ずっとそこに置いてあるそのブレスレットがぼんやりと視界に入る。改めて見ると、色と形がシュガーの首輪とそっくりだった。確かに似ているから買ったけれど、見たことのない露店だったし、ペットショップで買ったシュガーの首輪と全く同じデザイなはずがない。でも、それは見れば見るほど似ている。

 どんな露店だったっけ…。あの日バイト帰りに駅前で見つけて。普段はそんな店目に止めることもないけれど、何故か気になって、これを見つけて。

 よく思い出してみると、少し不思議な体験をしたようにも思えた。なんとなく引き寄せられたような。

 ふと何かを思い出しそうな感覚に頭の中がモヤッとする。なんだっけ。少し前の記憶の一片が頭の中に映像として広がるけど、それが何なのか分からない。




「シュガーご飯食べなかった?」


 後ろから声がして振り返ると、心配そうにシュガーを覗き込む乃々が影を落とした。


「うん。明日も食べないようなら病院連れて行った方がいいかも」


「病院…?どこか悪いの?」


「いや分からないけど。念のため」


「ど…どうしよう。何かあったら」


「疲れてるだけかもしれないし大丈夫」


「でも!シュガーも居なくなったら私…っ」


 そこまで言うと乃々はハッとしたように口元を押さえてキッチンへ向かった。

 もう誰も乃々を置いて行ったりしない。そう言ってやりたいけれど、現実はそうではない。何が起きるか、どうなるかなんて誰にも分からない。その闇に突き落とした俺が、かけてあげられる言葉は頭の中のどこを探しても見つからなかった。


「乃々。シュガーの首輪がほつれてるんだけど、何でか知らない?」


「どこ…?」


 気持ちを落ち着かせる為に手にしたであろう水を飲み干した乃々が、膝の上にいるシュガーの首元に手を伸ばすと、眠っていたシュガーは気持ち良さそうにその手に擦り寄った。


「本当だ…。どしたんだろう」


「なんか不自然なほつれ方してるから気になって」


 その違和感が、何かのヒントかもしれない。そもそも俺はどうやってここへ来たのか。シュガーが呼びに来てくれたのは間違いない、でも今ここにいる時点で理屈で説明できるものは何一つとしてない。ただ、何となく感じる、シュガーと不思議な力で繋がっている感覚。何か俺とシュガーを繋いでいるものがある。その一つがこのブレスレットと…首輪?


「どこかで引っ掛けたりしたのかな。新しい首輪に変えた方がいいかな?」


 何気なくシュガーの首輪に乃々が触れると、気持ちよさそうに細めていた目をシュガーがカッと見開いたのと同時に、乃々の小さな悲鳴が響いた。


「いっ…!」


「乃々!」


 咄嗟に乃々の手を握ると、指を伝う赤い血が見える。


「シュガー!お前、何して…」


 噛み付いた張本人は、泣きそうな顔で俺の顔を見ている。


「柚希!叱らないであげて!大丈夫だから」


「ミー…」


「シュガーごめんね。私が急に触ったから驚いたんだよね」


「とりあえず洗おう」


 洗面所で傷口を洗い流す後ろで、シュガーは申し訳なさそうにその様子を伺っている。今までじゃれつくことはあっても、こんな風に噛みつくことはなかった。乃々の触り方が悪かったとも思えない。やっぱりあの首輪に何か…


「柚希、ありがとう」


「あ、あぁ…。消毒液あるのか?」


「うん、引き出しにあると思う」


「ニャー」


「ふふ、大丈夫だから心配しなくていいよ」


 消毒をして絆創膏を貼り終えるまでシュガーは耳を下に垂らしながら心配そうに乃々の側に座っていた。その姿を見て愛しそうに笑う乃々とシュガーには、しっかりとした信頼関係ができているように見える。やっぱりどう考えても、首輪に触れただけでシュガーが乃々に噛み付いたとは思えない。

 

「…もうこんな時間だね。柚希そろそろ寝よう」


 部屋の明かりが消えて、また昨日のように部屋が月明かりに照らされる。けれど今日は少し雲がかかっているせいか、昨日はよく見えた乃々の顔が暗くてよく見えない。

 視界が塞がれているせいかシュガーの小さな寝息と、乃々の呼吸する音、心臓の動く音、布団が擦れる音、どこかで生き物が鳴いている声、心地いい音だけがより深く耳に響いて、ここがどれほど幸せな場所なのか嫌というほど思い知った。



 そしてそれと同時に、もうここへは長くいられないということも、感覚として分かり始めてしまった。思い出せなかった記憶が、ジワジワと広がっていく感覚。頭の中でぼやけていた映像がどんどんクリアになっていく。



「乃々」


「…ん?」


「少しだけ、俺の話聞いて」



 小さな頃から音に敏感だった自分は、不思議な経験をしたことが実は今回が初めてではなかった。捨てられている動物を見つけるのは得意だったし、時にはまだ冬眠して土の中にいる生き物の場所が分かる時もあった。それが特別だとは思っていなかったけれど、成長するにつれてやっかいな能力だなと思うようになって、耳を意図的に"閉じている"こともよくあった。そうすることであらゆる音に気付かない振りをして生活することができて、楽だったから。

 そんな生活を繰り返す中で、シュガーを見つける一ヶ月程前、俺はまた不思議な出会いをした。

 学校帰り、ふと聞こえた"特別な声"。弱々しくて今にも消えてしまいそうな声は、一番苦手な音だった。俺を呼ばないでくれ。耳を塞いでその場所を通り過ぎて、いつものように気付かなかった振りをすればよかったのに。直接鼓膜に響く小さな声は、俺に助けを求めているようだった。もし俺がここを通り過ぎれば…そう考えることは、この能力を持って生きていく上で生きにくくなる要因の一つだったのに、結局俺はその声に導かれるようにして草むらの奥へ足をすすめた。


 やっと見つけたそいつは、はぁはぁと短い呼吸を繰り返しながら草の上に横たわっていた。


「…大丈夫か?」


 俺の声に耳をピクリと動かして、無い力を振り絞って小さくニャーと鳴いたその猫は、身体は痩せ細っているのにお腹が大きくて、明らかに身籠っていることが分かった。野良猫だろう。食べるものもなくて、体力がなくなってしまったんだろうか。手を伸ばすと、警戒することもなく、すっと口元を擦り寄せてくる。


「悪い…。俺じゃ助けてやれない」


 こういう時にこの能力が心底嫌になるのだけど、不思議とこの時は気付いてやれて良かった、なんて思ってしまった。きっとこの猫の先は長く無い。

 お腹にいる子を産めるかどうかも分からない。きっと誰にもこの苦しさに気付いてもらえず、この寂しさを知ってもらえず、一人で逝くのだろう。


「…一人でよく頑張ったな」


 誰にも気付かれず、ここに生きていたことすらなかったかのようにその命が尽きる前に、俺が気付いてやれた。お前が母猫になろうとしていたことを、知ってやれた。


「ニャー…」


「あぁ、よく頑張った」


 もしここで子を産んだら…そんな心配までして持っていたタオルを下に引いてやって帰ったけど、次の日見に行くとそこに猫の姿は無かった。昨日の姿を思い出すと、どこかで元気に生きていて欲しいというよりは、どうかこれ以上苦しむなよ。そんな気持ちだった。

 しばらくその猫のことが忘れられなかったけれど、沢山の声が聞こえる毎日では自然に記憶が塗り替えられていくように、その記憶は頭の片隅にある箱の中にしまわれてしまった。だから、シュガーに出逢ったあの夜も、その猫と繋がりがあったなんて思いもしなかった。

 でも思い返せば、シュガーとの出逢いは運命的だった。雨の降り頻る夜、あんな小さな声はきっと他の誰にも届いていなかったはずだ。小さな身体で嵐のような雨の中、体温は下がって、あのままでは命がいつ消えてもおかしくない状況だったけれど、その小さな声は俺に届いて、俺はシュガーを見つけてやることができた。

 猫が飼えるような家でもなければ、こんな風に助けていたらキリがないことを誰よりも分かっていたはずなのに。それでも俺は何の迷いもなくシュガーを抱きしめた。こいつは助けてやらなきゃいけない。ただ、それだけだった。





「…もしかして、その時の猫の子供がシュガー…?」


「分からないけど。そんな気がする」


 今のこの状況に何か理由をつけたいだけなのかもしれないけれど、時期的にもそう考えるのが自然だと思う。


 シュガーはあの時の猫が産んだ子供だ。

 他の子猫たちが無事だったのか、シュガーだけが無事だったのか、分からないけれど、あの猫が俺にこいつだけはって送り届けたのかもしれない。それは、俺が乃々に思う気持ちと同じ"残していかなければならない者"に対しての最期の願い。どうか強く、幸せに生きて欲しいと。


「もしくは…知っていたのかもしれない」


 これは今になって思うことだけど。あの猫は俺が同じ運命を辿ることを知っていたのかもしれない。俺があの猫に感じたように、あいつも俺のこの先の運命が見えていたのかもしれない。

 同じ運命を辿る俺に、あの日のお礼でもしてくれたのか?情けをかけてくれたのか?

 俺が残していく乃々が、強く生きれるように…シュガーを俺たちに託してくれたのだろうか。


「シュガーを、私たちに…」


「それで…多分だけど、俺のブレスレットとシュガーの首輪が繋がっている気がする」


「ブレスレット…?」


「俺が来てから、シュガーの元気が段々なくなっている気がするし、俺はそれと首輪の傷みが無関係だとは思えない」


「…どういうこと?」


「ここに俺が存在していることで、シュガーの何かを削っているのかもしれない。首輪が切れたら、シュガーもどうなるか…」


 それが何を意味するか分かった乃々の震える指先が、冷え切った俺の指先に重なる。


「ま、待って…それって…」


「いや、可能性の話。正直何一つ確かなものなんてないんだ。今ここに俺がいること自体おかしなことなのだから」


 でも理屈なんかではない。理由も確信もないものが、そうだと言っている。俺がここにいることで、シュガーに何か影響を及ぼしていることは間違いない。



「柚希…」


「乃々」


 俺たちは分かっている。この時間が永遠ではないことを。






「俺、もう戻らなくちゃいけない」

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