九話 柚希の夢

「シュガー、ご飯もういいの?」


「ニャー」


まだ器に半分くらいご飯が残っているのに、シュガーは尻尾を振って柚希の膝に飛び乗った。


「おいシュガー、ちゃんと飯食えよ」


「ミー…」


「この缶詰飽きたのかなぁ。新しいの買いに行こうかな」


「贅沢な猫だな」


 柚希はシュガーを抱き上げると、ベランダの窓を開けた。

窓から入り込む風が柚希の髪の毛とシュガーの長い毛を揺らすと、部屋の中に心地よい春の匂いが広がる。優しくて、温かい柚希みたいな匂い。


「乃々、散歩行くか」


「散歩?行く!」


「シュガーも外出たいよな」


「ニャー」





 花風…っていうのだろうか。散りかけている桜の花びらが舞うように、柔らかい風が頬を通り過ぎていく。

もう散ってしまう桜を惜しんで、その姿を見に沢山の人が行き交っているけれど、私の少し前を歩く柚希に気付く人は一人もいない。この世界であって、この世界ではないようで、私の日常に馴染んで見えるその姿は、現実なのか夢なのかすら未だに分からなかった。

この瞬間でさえ桜の花びらに紛れて消えてしまうかもしれないし、消えてしまっても誰も分からない、きっと泣くのも私一人だね。


「柚希…」


「おい喋るなって。変に思われるぞ」


差し出した私の手を見つめる柚希の目は悲しそうだった。


「皆には見えてないから、手なんか繋いだら不自然に見えるだろ」


「いいの」


「良くない。てか乃々髪に花びらついてる」


 髪の毛に触れる柚希の指が、そのまま頬に降りてきて、目から溢れる涙をすくった。

こんなに近くにいるのに。こんなに好きなのに。その姿は幻のようだ。


「…乃々、俺行きたいところあるんだ。付き合ってくれる?」







「シュガー。ここなら歩いていいぞ」


「ニャー」


 チリンと音を立てて地面に降りたシュガーは嬉しそうに、草むらの方に走っていく。

その先に見える開けた敷地の中に白い建物がポツンと建っていた。


「…幼稚園?」


「児童養護施設。親と暮らせない子供たちが生活してる」


「どうしてここに?」


「ここで働く予定だったんだ」


「柚希…児童養護施設の先生になりたかったの?」


「…まぁ。いずれはそうなれたらと思ってた」


「知らなかった…」


「誰にも言ってなかったからな」


 遠くに聞こえる子供たちの声に耳を澄ませるように、柚希はそっと目を閉じた。


「…中に入ってみる?」


「いやいい。もう、俺には関係のない場所だから。迷惑かけた職員の人に謝りたかっただけ」


そう言うと柚希は目を閉じたまま建物に向かって深く頭を下げた。




「シュガー?」


「ニャーン」


「やっぱり!お前なんで…」


頭を下げたままの姿に声をかけられずにいると、建物の方から聞きなれた声がする。


「乃々香ちゃんも!ここで何してるの!?」


声の主に気付いたシュガーは走りだして、差し伸べられた手に躊躇うことなく飛びついた。




「洸希君!」


「兄ちゃん…」


シュガーを抱き上げながら驚いた様子でこちらへ向かって来る洸希くんの姿に、柚希が一歩後ずさる。


「何でここにいるの?」


「あ…えっと、洸希君は何で…」


「ここ、柚希が働く予定だった場所なんだ。今日はご挨拶に伺った」


「そうなんだ…。私は、えっと、シュガーと散歩に」


「こんなところまで?アパートからかなり離れているけど。帰り車で送ろうか。そろそろ父さんたちも来るから」


「おじさんたちもいるの?」


 洸希くんのその言葉に思わず柚希に視線を移すと、不安そうな瞳に私が映った。柚希がおじさんたちに会える。一度は混乱させるから会わないと言っていたけれど、私とシュガー以外の人には柚希の姿が見えないことが分かっている今、一方的にだけど柚希がおじさんたちに会うことはできる。

嬉しさというよりは戸惑いを強く感じているように私を見つめる柚希は小さく震えていた。


「うん。挨拶も兼ねて柚希が働こうとしていた場所を見てみたいって」


「父さんと…母さんが…?」


洸希君には届かないけれど、私には確かに聞こえる、震える柚希の声。その声から感じられる不安。でもそれ以上に感じられる恋しさ。自分の両親に会いたくないはずがない。会わせてあげたい。


 洸希君に抱かれているシュガーの耳がピクリと動くと、白い建物から出てくるおじさんとおばさんの姿が見える。


「の…乃々、俺…会っていいの」


柚希の手が私の手に触れて、私はその手を力強く握った。大丈夫。そう言葉を込めて。





「乃々香ちゃん!」


 私がいることに驚いたような声で名前を呼んでくれるおばさんは、最後にあった日から更にやつれたように思えた。


「こんにちは。今偶然ここに散歩しに来ていて」


「そうだったの。久しぶりね。一人暮らしは大丈夫?不便していない?」


「はい…。」


 私を心配そうに見つめるおばさんの目を見ると涙が溢れそうになる。ずっと繋いでいる右手は震えていて、小さな嗚咽が聞こえているから。


「元気そうで良かった…。ここね、柚希が働く予定だった施設なのよ」


 おばさんがおじさんに視線を向けるとおじさんは目尻を下げて建物を見つめた。


「恥ずかしいことに僕たちは柚希がいなくなるまで、どこで働くかすら知らなかったんだよ。こんな場所で働こうとしていたなんて、想像もしていなかった」


「沢山のお子さんがいてね、素敵な場所だった。園長さんから、ここで柚希がどんなことをしたいと思っていたかということを…聞いたの。柚希の夢を私たちは今日初めて知ったのよ」








「本当に送らなくていいの?」


 おじさんとおばさんに挨拶をして、二人が車に乗り込む姿を見送ると洸希君が運転席から走ってくる。


「うん、今日は歩いて帰りたくて」


「そうか。気を付けて帰るんだよ」


「ありがとう、洸希君たちも」


「乃々香ちゃん。帰る前にひとつだけ聞いてもいい?」


「うん…?」


洸希くんは子供達が元気に園庭を駆け回る声を背にして目を細めた。


「僕は…柚希にとってどんな兄だったと思う?」


「え…?」


「真面目で堅物で、悩み一つも聞いてくれないと…そう思わせていたのだろうか」


「洸希くん…」


「柚希、ピアノは別に好きじゃないと言っていたのに、ここでは子供たちに弾いてあげたいと言っていたらしいんだ。将来の夢もないと言っていたのに、柚希にはやりたいことも目標もちゃんとあった。僕は…家族は、誰も柚希のことを分かっていなかった」


何も答えられず、また目の奥から込みあがるものを抑えようと視線を地面に落とすと、背中から涙交じりの声がする。


「…兄ちゃんは俺の憧れだった。自慢の兄ちゃんだった」


柚希のその言葉を一度心の中に染み込ませて、私は唇を震わせた。


「柚希は…洸希君のこと自慢のお兄ちゃんだって言ってたよ。憧れだって…」


目の前の洸希君の顔は苦しそうに歪んで、目から溢れた涙が何粒も何粒も地面に落ちていった。


「…僕は、柚希が…羨ましかった。不器用だけど、真っすぐで、いつも自分の得より周りの為に…と生きていて、僕の方こそ憧れていたんだ」


「兄…ちゃん…」


「僕は良い兄だったんだろうか…僕たち家族は…柚希を幸せにしてあげられていたのだろうか」


ここにいるのに。目の前に柚希がいるのに。抱きしめて、その思いを伝えることができたのなら、後悔の涙を流さなくていいのに。会わせてあげたい。それが叶わないのならば、伝えてあげたい。


「…洸希君。柚希いるよ」


「何…?」


「今ここに柚希いる。私には分かるの…。ね、シュガー」


鞄の中に入って眠そうにしていたシュガーは、そこにいる柚希を見つめた後ニャーと小さく鳴いた。


「シュガー本当か…」


「ミー」


「はは…お前もそう言うなら信じちゃいそうだよ」


「大丈夫だよ。全部届くよ洸希君の気持ち」


信じてくれたのかは分からない。でも洸希君は、静かに目を閉じた後深く息を吐いた。


「柚希…。そこにいるのか…」


「兄ちゃん…、いるよ」


「柚希ごめん。お前の気持ち聞いてやれなくて。一人で悩んで、苦しんでいたんだろう。気付いてやれなくて…本当に…ごめ…ん。もっと…話したかった。柚希の夢の話、趣味も、好きなものも、恋愛の話だって…っ、もっともっと、兄弟で話がしたかったよ。」


「俺…も…」


「柚希、お前は自慢の弟だった。離れていても…僕たち家族はずっと、柚希を誇りに思っているから」








 昼間は沢山の人で賑わっていた桜並木は、この時間になると、風の音に耳を傾けられるほど静まり返っていた。

座った土手で川に映る月を眺めながら、疲れて眠るシュガーの毛を撫でると昼間感じた気持ちと全く同じ気持ちが蘇ってきて、今にもこのまま消えてしまいそうな柚希の肩に頭を預けた。


「…俺、家族といる時間が苦手だった」


「うん…」


「小さな時から音に敏感で、好きな音と嫌いな音があったんだ。好きだった家族の声は、いつしか諦めや、落胆みたいな悲しい音に感じるようになって、側で聞いているのが辛くなった」


「だから…家を出ようとしたの?」


「それもあるけど。成長するほどに、苦手な音が増えて、もっと好きな音に囲まれて生活したいと思うようになって。子供の声や、生き物の音が好きだから…そんな仕事がしたいって自然と思うようになった」


 確かに柚希は小さな時から音に敏感だった。周りのみんなは聞こえていないのに、近くにいる生き物の音に気付いたり、何かに怯えて耳を塞いでいる姿もうっすらと記憶に残っている。


「どうして児童養護施設に?」


「俺みたいな子がいるような気がして。周りの音に怯えて、胸の内にある気持ちを話せず苦しんでいる子。話す術を知らない子に…この世にはいい音も沢山あることを教えてやりたかった」


「柚希、ずっと…辛かったの…?」


 洸希君たちだけじゃない。私だって何も知らなかった。

柚希は、口数が少なくて、何を考えているのかも分かりやすいとはお世辞にも言えない。でもそれが私にとっては心地よかった。何をするわけでもないのに、柚希を取り巻く空気はいつも柔らかくて、私に向けてくれる優しい眼差しがたまらなく好きだった。柚希の側は…安心できる場所だった。でも、その柚希を作る全てがいつも何かと戦っていたんだね。


「いや、乃々の側は幸せだったよ」


私を覗き込む柚希の瞳は、川に映る月が反射してキラキラと揺れている。


「乃々の声も、小さな時聴いていた乃々のピアノの音も、大好きな音だった。でも…泣き声だけは、苦手。胸が苦しくなるから。だから、泣くな」


 柚希の耳に心地よい音だけが届くように、そう思って必死に口元を覆うけれど指の隙間からどんどん嗚咽が漏れていった。私が、その耳をずっと塞いでいてあげれば良かった。


「悪い。俺が泣かせてんだよな」


「そうじゃ…」


「乃々。今日乃々が俺と兄さんを繋いでくれて、父さんと母さんの言葉を聞けて、自分で耳を塞いでいただけで、俺の周りはいい音で溢れていたのかもしれないことを知ったんだ。だから、俺はもう辛くないから」


 桜並木で聞いた、柚希の心の声。それは私の涙を止める慰めの言葉だったのかもしれない。でも確実に一つ一つ柚希の未練は消えていっている。それが何を意味するのか考えることすら怖い。真っ暗な波が目の前まで迫っているような感覚に、触れる肩に顔を押し付けて強く目を閉じた。

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