八話 通じ合う想い
死に対しては鈍感な方ではなかったと思う。記憶を呼び起こすと、”死にたい”衝動的にそんなことを考えた夜も確かにあったはずだ。だからなのか、自分が死んだのだと実感したときは、割と冷静だったような気がする。冷静という表現が合っているのかは分からないし、ただ単に、その世界ではそう受け入れるようにできているだけなのかもしれない。
でも、最初に抱いた感情は、あぁ、死んだのか、という諦めに近いようなものだった。
俺は生きているときに何をやっていたんだろうな。此処がどこかも、どこに向かっているのかも分からない。ただ、身体が浮いているような水に流されているような感覚を感じながら、確かに俺はそんなことを考えた。
ピアノ、本当は弾きたかった。誰かの為に。子供たちに囲まれる仕事がしたかった。決まっていた仕事先は個人が経営する小さな孤児施設、バイトのような手伝いのような仕事だけど、子供たちの心の声を聞けるそんな人間になりたかった。父さんと母さんに認められて、親孝行がしたかった。そして、乃々の自慢の恋人になりたかった。いつか乃々と子供とシュガーと一緒に幸せに暮らしている未来を、柄にもなく想像したりもした。
此処は静かだった。嫌いな音がない。きっともう、苦しむこともない。耳を塞ぎたく音からも、胸を押さえつけられるような劣等感からも、何もかもから解放されるんだ。そう思うと、眠りに入るように意識が遠くなっていった。もう何も考えなくていい、もう全て終わったのだから。
ただその意識を手放すギリギリまで気になっていたことがあった。真っ白な世界の遥か遠く。微かに光っている場所がある。あそこはどこなのだろうか。確かに流されているはずなのに、あの場所は同じ場所にあるような気がする。俺を追いかけて来ているのだろうか?
でもそんなことを考えていたのも、ほんの一瞬だったのだと思う。直に声を出す必要も、音を聞く必要も、目を開ける必要もなくなった。まるで水に溶けていくように、全ての感覚を一つずつ失っていって、少しずつ楽になった。きっともう「そこ」は近いんだ。
チリン。
もう意識はなかった。正確にいうと、意識があるのかすら分からなかった。それでも確かに聴こえたその音に、もうなくなっていたであろう感覚が波を立てるように蘇っていく。
”これシュガーの目の色と同じ”
初めて行くペットショップで、俺はミント色の首輪を手に取って確かにそう思った。鈴を揺らして、この音を鳴らしながら走ってくるシュガーを想像して思わず笑ったんだ。聞き間違うはずがない。そうだ、俺はお前をおいて死んだのだ。一緒に暮らすと約束したのに。
近くにいるのか?会いたい。俺をあの空き家でずっと待っていたんだろう。行けなくてごめん。一緒に暮らす約束をまもれなくてごめんな。もう一度抱いてやりたい。シュガー…。
どうやって目を開けるんだった…どうやって声を出すんだった。耳は聞こえるのに。もう遅いのか。何とか感覚を取り戻したくて開いているかも分からない口を必死に動かした。その顔が見たいと、強く望んだ。
フッと光が戻ってきて、ぼやける視界の中確かに見えた。真っ白な長い毛に、ミント色の丸い目。シュガーだ。
「ニャーン」
あぁ、もう抱いてやれない。名前を呼んでやれない。ごめん。許してくれ。
この思いが伝わるように必死にシュガーの目を見つめると、丸い目は悲しそうに揺れている。お前も…俺に言いたいことがあるのか…?
今あるすべての意識をシュガーに向けると、頭の中に荒い映像が映る。
どこだ…?
小さな部屋。誰かいる。すすり泣くような声。
乃々…?
映像の中には、俺が住むはずだったアパートですすり泣く乃々がいた。俺のブレスレットを握りしめて泣いている。
乃々…、泣くなよ。そう声をかけたくてももう何も届かない。
ザザっと映像が乱れるとまた泣いている乃々の映像が映る。何度も何度も映像が切り替わって、その映像の度乃々は泣いていた。
これは…シュガーが見ていた景色なのか…?これを俺に伝えに来たのか?
俺はこのまま死んでいいのか…。乃々に会いたい。ちゃんと別れを言いたい。せめてもう泣かなくてもいいように。涙が止まるまで。
俺は自分の運命から逃げたりしない。必ずここへ帰ってくる。だから…、神様お願い。乃々に会わせて。地獄に落ちてもいいから。もう一度だけ、もう一度だけ……
「柚希が好きだった」
乃々は、夜空を見上げる度、俺を思い出せるようにこの場所で伝えたいことがあると言った。
これは、告白ではなくて、別れの言葉。未来へ続く期待を込めた言葉ではなくて、過去に伝えられなかった後悔を未来へ残さないための言葉。これは、始まりの言葉ではなくて…終わりの言葉。
「…うそだ」
「ほ、本当だよ!」
「そんな素振り…なかっただろ」
「だ、だって、ずっと幼馴染だったのに今更そんなこと言えるタイミング無くて…」
バカみたいだな。ちゃんと別れを伝えるために来たのに。未練を残さないために来たのに。
乃々が同じ気持ちだったことが、こんなにも嬉しいなんて。
この先の自分たちの運命がどういうものなのか分かっているに。それなのに俺は…今幸せだとさえ感じている。
「柚希の…好きなとこ全部伝えたい。全部聞いて」
「え、いや待て…」
「無口だけど優しくて、分かりにくいけど周りのこと大切にしていて、ぶっきらぼうだけど、本当は誰よりも温かくて…」
「おい、悪口も混ざってる」
「まだあるよ。白い肌も、長い指も、サラサラの髪の毛も…すぐに逸らすその目も…」
”好き”
乃々口がそう動くのと同時に自分の腕の中に乃々を閉じ込めた。
「俺も好き」
「え…」
「俺の方が好きだ」
あの日、事故にあった日、本当は伝えたかった言葉があったんだ。就職祝いを部屋で渡して、その日こそ必ず伝えようと思っていた。
”ずっと一緒にいてほしい”と。
でももうその言葉は伝えてやれない。俺たちに”ずっと”はないから。だから…
「乃々側にいて。消えるその瞬間まで」
「柚…希」
「約束してよ」
「っ…約束する。私が、側に…いる」
好きだ。泣き虫で、怖がりで、年上のくせに俺の後ろをついてくるのが可愛かった。公園を走り回って、日が暮れるまで遊ぶ時間も、俺を男だと意識してくれずに遅くまで部屋でゲームをしていた時間も、乃々の家でおばさんの得意料理の肉じゃがを食べる時間も、空き家で二人でシュガーに餌をやる時間も、今この瞬間も。
乃々と過ごす時間はいつも幸せだった。
もっと一緒にいたかった。その笑顔を隣りでずっと見ていたかった。
「乃々…好きだ…」
「…クシュッ」
「悪い。冷えたな」
「柚希、身体は…?」
「何ともない」
長い時間抱き合っていた身体を離して、確認するけど身体には何の変化も起きていない。不思議とまだ消えそうになる感覚はない。
神様は、俺たちにもう少し時間を与えてくれるのだろうか。
「乃々、部屋入ろう。風邪ひく」
「うん…」
乃々を抱きしめながらふと自分に置き換えてみると、そこは地獄だった。俺が生きていて、乃々がこの世にいない。俺の人生は続くのに、乃々の人生は終わってしまう。想像するだけで吐き気がした。それなら、俺が死んだ方が幾分マシだ。
「シュガー、珍しくぐっすり眠ってる」
「ほんとだ」
「ずっと柚希を探しに行っていたから疲れていたんだよね」
シュガーを撫でる乃々を見ながら、こみ上げそうになったものを口を結んで飲み込んだ。それが目から溢れ出ない様に強く目を閉じるけど、小さく唇は震えていた。
吐き気がするような地獄を…俺は乃々に味わわせていたんだ。おいて行かれた方は、その経験を背負ったまま生きていかなければならない。俺はそんな大きなものを、乃々に背負わせてしまったんだ。
「柚希?どうしたの」
「いや。…今日も疲れただろ。もう休んで」
「うん。柚希は?」
「俺も、今日はもう寝る」
「じゃぁ…三人で寝よう?」
そう言うと乃々は歯磨きをしてくると、その場を離れた。
三人で寝る?シュガーが気持ちよさそうに身体を丸めて寝ている布団はもちろん一組しかない。シュガーは数に入れないにしても、とても二人で寝れるとは思えない。
いや、そもそも物理的な問題じゃなくて…。
「柚希」
「…っえ!?」
「ご、ごめん驚かせて」
「いや別に驚いてない…。何」
「柚希が置いていた服捨てられずに持っていたの。着替える?」
乃々が手に持っていたのは、引っ越しの時に最低限持ってきていた私服だった。そうだ…事故の当日、学校はなかったはずなのに、何故か今制服姿なんだった。別にこれで構わないような気もするけど。
「…じゃ着替える」
「うん!」
嬉しそうな顔。着替える必要も、食べる必要も恐らくないんだろうけど、そうすることでここに日常があるかのように感じられる。文字にしてしまうと虚しいような寂しような気持ちにならないこともないけれど、乃々が笑ってくれんならきっとこれでいい。
「…ねぇ柚希寝た?」
オレンジの電気もついていない真っ暗な部屋に差している月明かりを目を細めて辿っていると、布団が小さくよれる音と乃々の声が鼓膜を揺らした。
「いや」
「もったいなくて眠れないね」
何も答えずにいる俺の胸元に擦り寄ってくる乃々の髪の毛が、口元に触れてくすぐったい。
「甘え方がシュガーみたい」
当の本人は俺と乃々の間にある窪みの上で、スヤスヤと眠っているけれど。
「シュガーみたいに撫でてもいいよ」
「…いいから」
「ふふ、柚希照れてる?」
「照れてない」
「あ、だめ。これ以上動いたらシュガー起きちゃうよ」
身体を捩る俺を止めようと掴んだ乃々の指で、着ていたシャツがグシャっとなる。
「乃々、あのさ」
「キスしたい」
「は…」
「柚希と、キス…したい」
馬鹿な俺は、断る理由を必死に探したけれど、そんな理由どこを探したってなかった。
月明かりに照らされた部屋で、俺は乃々と初めてのキスをした。
自分からキスしたいって言ったくせに、重ねたその唇も、シャツを握る手も、小さく震えていた。言葉なんて交わさなくても分かる。同じ気持ちなのだから。
これが最後のキスになるかもしれない。
お互いの存在を確かめるように、その夜俺たちは何度も唇を重ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます