七話 伝えたい気持ち
「お疲れ様でした」
オフィスのエントランスを抜けて、ビルの外へ出てから携帯を開くと定時丁度。
ビルの外はいつもより沢山の人が行き交っているように思えた。そうか…今日は金曜日だからか。
昨日までの私には、今日が何日で何曜日なのかはあまり意味がなかったせいか、週末に向かう日にこの道が賑わっているなんて知らなかった。
当たり前のように朝が来て、夜が来る。やらなければいけないことに没頭して、生きていかなければと言い聞かす。それを毎日繰り返していた。仕事をする時間、シュガーにご飯を上げる時間、それ以外は時間も曜日も関係なかった。
でも今日は違う。何度も時計を見ては終業時間までの残りの時間を確認した。昨日、シュガーを早く探したくて不安の中過ごした時間とも違う。もしかしたら消えてしまっているかもしれない…そんな不安は何故か感じなくて、私を待ってくれているであろう彼の元へ帰れるこの時間が本当に待ち遠しかった。
”早く会いたい”
この気持ちはなんて甘く切ないんだろう。ずっと感じていた”もう一度だけ会いたい”それとはまるで別物だった。
柚希がいてくれるから…だからこそ感じられるこの気持ち。会いたい。早く柚希に会いたい。
「乃々香ちゃん」
「洸希くん!」
アパートの前に停まっている見慣れた車から降りてきた洸希君の姿に、バス停から小走りで帰ってきたせいで乱れていた前髪をとっさに直した。
「なかなかメッセージが既読にならないから今日も残業なのかと思った」
あ…。そういえば昨日メッセージが届いていたのに、開いていないことを思い出した。シュガーが見つかったことすらまだ伝えていない。
「洸希君ごめんなさい。シュガー…見つかったの」
「うん、乃々香ちゃんのお母さんから今朝仕事行く前に聞いたよ」
「あ…お母さんから。でも一晩心配かけたよね。ごめんなさい」
「大丈夫。それよりシュガーは怪我していなかった?気になって会いに来ちゃったよ」
洸希君は私に見えるように、前にシュガーに持ってくると約束していたおやつが入った袋を揺らした。
「ふふ、ありがとう。どうぞ入っ…」
鍵穴に鍵をさそうとするとチリンと音がする。
「乃々香ちゃん?」
そうだった。中にはシュガーと…柚希がいる。
昨日おじさんとおばさんを混乱させたくないからと、会には行けないと言っていた柚希の言葉が脳裏に浮かんだ。
それは、洸希くんに対しても同じだよ…ね?
「こ、洸希君。少し待って。あの…私朝バタバタ出ちゃって、散らかっていて」
「そんなの今更気にするような仲じゃないけど」
洸希君は小さく笑った後、分かったと素直に頷いてくれた。
ゆっくりとドアを開けて、中が見えない様に後ろ手にドアを閉めると、チリンという音共にいつものように玄関に座って私を出迎えてくれるシュガーがいる。
「ニャー」
「シュガー、ただいま」
しゃがんだ私の手にすり寄ってくるシュガーを抱き上げて、辺りを見渡すけど、部屋はシンと静まり返っていた。
「…柚…希?」
静かな部屋からは何の返事もない。急に足元が揺らぐ感覚がした。何で。まさか。まだ消えないって。待ってるって、そう言ったのに。
話したいことがあるって…
「シュ…シュガー、柚希は?…どこ…」
「ミー…」
私の手からピョンと床へ着地したシュガーは、六畳の部屋へ歩いていく。
靴を脱いでその後に続くと、一度振り返ったシュガーが左右に尻尾を揺らした。
「…柚希」
目の前には身体を丸めて小さな寝息を立てている柚希がいる。
「ニャーン」
「…寝てるの?」
「ニャー」
「本当に…寝てるだけ…?」
恐る恐る指で柚希の頬に触れると、柚希の睫毛が小さく揺れた。
「…あれ、乃々?」
何度か瞬きをした後ゆっくりと身体を起こす柚希に飛びついたシュガーを、長い腕が難なく受け止めた。
「ごめん寝てたみたい。乃々おかえ……おい、どうしてまた泣いてんだよ」
「…っ、何で…寝てるの…っ」
「いや、シュガー抱いていると眠くなって。昨日寝ていなかったし…てかこの身体でも寝れるみたい」
「いなく…なったかと…」
「…あぁ。見えなくて驚いたのか。悪い」
シュガーが目を覚ました柚希に甘えて飛びついたのと同じように、泣きながら柚希の首に腕を回した私は幼い子供のようだった。
「…行かない…で」
「まだ行かないって」
「柚希…っ」
「行かないから」
小さな子をあやす様に優しく上下する柚希の掌を背中に感じていると、突然カチャリと鳴るドアの音にシュガーの耳がピクッと反応した。
「乃々香ちゃん?」
その声に反応するようにシュガーが柚希の元から玄関へ走っていった。
「シュガー!お前どこ行ってたんだよ。あんまり乃々香ちゃんを困らすなよ」
「ミー」
玄関で聞こえる洸希君の声に、柚希の瞳が激しく揺れ始める。
「兄ちゃん…」
「柚希、会う…?」
迷っているのか答えを求めるかのように、揺れていた瞳が私に向けられた。
「乃々香ちゃん、今日は疲れているだろうからやっぱりもう帰るよ。急に来てごめんね。ここにおやつ置いておくから。じゃぁ、シュガー、沢山食べろよ」
袋を床に置く音が聞こえて、思わず柚希の腕を掴んだ。洸希くんが帰ってしまう。
「柚希…!」
「兄…ちゃん…」
「っ洸希君待って…!」
「兄ちゃん!」
二人でドタドタと玄関に向かうと、しゃがんでいた洸希君が立ち上がった。
「あれ…?乃々香ちゃん泣いてる?」
「え?」
今、洸希君の目の前には柚希がいるはずなのに。その視線は交わらない。
「もしかして、片づけているときに、また柚希のこと思い出した?」
「洸希君、見えない…の?」
目の前に柚希がいるのに。
「何が?」
「兄…ちゃん!」
涙交じりの声がこんなに近くで聞こえるのに。
「聞こえ…ないの?」
「ニャーン」
「柚希、ご飯食べよう」
「…飯食えんのかな。でもお腹すいた」
昨日の今日でお互いに分からないことだらけだけど、この二日で分かったこともある。
柚希は今の身体で、生きていた時と同じように空腹や眠気を感じて、食事をとることも睡眠をとることも出来る。
いつ消えるかは定かではないものの、まだその時ではないことが柚希の中では感じられているようだった。
そして、私とシュガー以外の人は柚希の姿を見ることも、声を聞くことも出来なかった。
洸希君が帰った後、試しに思い切って外へ出てみたけど、柚希は誰かに気付かれることも、誰かに触れることも出来なかった。
「乃々って飯作れんだな」
「少し練習したんだよ。柚希が一人暮らしするようになったら、作りに行くって約束したし」
「そういえば約束したな」
「…美味しい?」
「うまい」
食べられるとはいえ、食事という行為が今の柚希にはあまり重要ではないせいなのか、洸希君と会った後だからなのか、柚希の箸はあまり進んでいなかった。
洸希君に見えていないのなら、二人は"会えた"わけではない。
混乱させるだなんて思っていても、家族に会いたいに決まっている。
目の前に居たのだから、会って話がしたかったんだよね?
会えるけど会わない、と、会いたいのに会えない、は全然違う。柚希があの時洸希君に向けた声は、会いたいという声だったのに。
「乃々」
「うん?」
「…よく来てんの?」
「何が?」
「何って。兄ちゃん」
「洸希くん?」
「なんかよく来てるような口ぶりだったから」
柚希が箸を置くから、なんとなく自分の箸も箸置きへ戻した。
「心配してくれているみたいで、たまに…」
「部屋に入んの?」
「た…まに?」
その言葉に柚希が小さく眉を寄せる。
「不用心」
「な、なんで?洸希くんだよ?」
「兄ちゃんだって男だろ」
「そ、それなら柚希だって…」
「ニャーン」
「…なんだよシュガー」
「ニャー」
「…別に虐めてないだろ。あ、おい。乃々何笑ってんだよ」
柚希の目を見て低い声で鳴くシュガーが何を伝えようとしているのかがなんとなく分かって、思わず吹き出してしまう。
「シュガー、柚希が虐めるんだよ。もっと言ってよ」
「ンニャー」
「おい」
「ミー…」
「……」
「柚希?」
急に目を伏せた柚希は立ち上がって、食器をキッチンへ運び始めた。
「シュ、シュガー。柚希になんて言ったの?」
「ミー…」
「…柚希!ごめん冗談だよ。色々と気をつけるね」
慌てて追いかけてその背中に謝るけど、蛇口から流れる水にお茶碗をつけたまま柚希は振り向いてくれない。
心配してくれたのに茶化したのがいけなかったのだろうか。私の足元にすり寄るシュガーは心なしか申し訳なさそうな顔をしているけれど、シュガーが柚希に酷いことを言ったとも思えない。
「柚…」
「そうだった。俺死んでるんだった」
「え…?」
水をキュッと止めると、目を真っ赤にした柚希が振り返った。
「乃々のこと俺は守れないんだから、とやかく言う筋合いなかった。悪い」
「柚…希」
「…皿、俺洗うから。乃々、風呂入ってきたら」
「柚希…私…」
「お願い、見られたくない。風呂入ってきて」
笑ってくれたから。
会えた時私のことを抱きしめて、涙を拭いてくれたから。
”会いに来た”と言ってくれたから。
私は自分のことばかりだった。
死んでしまったことを一番受け入れたくないのは柚希で、未練があるのも、後悔があるのも柚希で、怖くて不安で寂しいのは柚希なのに。
私の涙を止めに来たと言ってくれたけど、それだけじゃない。私たちがもう一度出会えた意味がきっとあるよね。
シュガー…ねぇ、そうでしょ?
今この瞬間にだって私が柚希にしてあげられることがきっとある。
お風呂の中で散々泣いて、目は赤く腫れていたし、ノーメイクに、パジャマ姿。本当は一生思い出に残るように、可愛いと思ってもらえる万全の状態で伝えたかった。でももう私たちに何かを待っている時間はない。今、一緒にいられるこの時間の一分一秒が奇跡なのだから。この時間こそが、私たちにとって、永遠に刻まれる奇跡の時間なのだから。
「柚希」
「風呂あがったの?てかベランダ出てくるなよ。湯冷めする」
「少し、話していい?」
「いいけど。部屋で話そう」
部屋に入ろうとベランダの窓に手をかけた柚希の手に、指を重ねると、驚いた柚希と視線がぶつかり合った。
部屋の中では予めひいてあった布団の上でシュガーが気持ちよさそうに眠っている。
温かそうな部屋とは対照的に、春の夜風が冷たく感じるこの空間だけ時間が止まったようだった。
「ここで話したいの」
「じゃ、なんか羽織ってきて」
「いらない」
「乃々…」
会社に行ったり、眠ったり、よく分からない状況でどうするべきか考える時間も無かったけれど、本当はもう一秒だって無駄にしてはいけないんだ。
「…寂しい夜は、柚希は星になったんだってシュガーと夜空を何度も見上げたんだよ」
今日も空には沢山の星が輝いているけれど、柚希は今、その広い空のどこかではなく私の目の前にいる。どんなに手を伸ばしてもあの星には届かないけれど、柚希の手は今、私の手の中にある。
「いつかあそこへ帰ってしまうのなら、夜空を見上げる度に何度も何度も柚希を思い出せるように、ここで伝えさせて」
「…乃々」
「私…」
これが神様が与えてくれた、最後の時間ならば。
「私ね…」
この言葉を伝えることで、もしもう二度と会えなくなるのだとしても。
「小さな時からずっと」
私は柚希にこの言葉を伝えなくてはいけない。
「ずっと、柚希のことが好きだった」
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