六話 奇跡の時間の始まり

 ハンガーにかかった汚れたスーツの前で小さくため息をついた後、沸騰したことを知らせる音が鳴るヤカンの元へ急いだ。

 柚希が一人で住むために準備していた白いマグカップは”柚希のもの”のような気がして、使うことが出来ずにずっと棚の奥で眠っていた。

そのマグカップがいつも使っている自分のマグカップと並ぶ。

白い湯気が上がるヤカンを傾けると、コーヒーのいい香りが部屋中に広がった。


柚希…飲み物は飲めるのかな…。


 冷静に考えると、あり得ない状況なことは分かっている。

まるで一人暮らしの私の家に、柚希が遊びに来ているみたいだけれど、そんなことは現実世界であり得るはずがない。


だって柚希は…もうこの世にはいないのだから。

確かに夢であることを何度も願ったけれど、病院で見た真っ白い顔も、氷のように冷たかった手も、嫌というほど頭も身体も覚えている。

この世で会うことなど、絶対にありえないことなのに。



「…柚希、飲み物ってのめるの?」


「分かんない。俺もさっきこの身体になったばかりだし」



それでも柚希は今、たしかに私の目の前にいる。


 お風呂に入るのも、着替えるのも怖かった。目を離すと消えてしまうんじゃないかって。

”たぶんすぐには消えないと思う”

そう答える柚希に理由を聞いても、柚希もよく分かっていないようだった。

現に、お風呂に入って、くたびれたスーツをハンガーにかけて、コーヒーを入れた後も、テーブルの前に座ってシュガーをあやす後ろ姿は、目の前から消えることはなかった。

幽霊にしてはリアルで、夢だと考える方が今は正しいような気がするけれど、非現実的な状況に何とか理由をつけようとする頭とは裏腹に、不思議と心はこの状況をすんなりと受け入れようとしていた。


「寒くない?」


「全然。乃々こそ風呂でちゃんと温まったの?」


「うん…」


マグカップから上がる湯気をしばらく眺めた柚希は、ゆっくりとカップの淵に薄い唇をつけて、お世辞でも大きいとは言えない目を見開いた。


「…飲める!うまい」


「飲めるの。よかった…」


 その会話を交わした後、小さな部屋は、柚希の膝の上で気持ちよさそうに眠るシュガーのゴロゴロという音しか聞こえない程静まり返った。

何も話さない柚希の横顔を見ると、また、涙が溢れそうになる。



「…乃々」


優しい声は、耳から全身を巡って目の奥に涙として溜まっていく。


「寂しかった?」


「あ…当たり前でしょ…」


「そっか。俺、死んだんだよな」


愛おしそうにシュガーの毛を撫でる柚希は、どこか他人事のようにそう呟いた。


「気が付いたらさ、真っ白な世界にいたんだ。最初はここがどこか、自分が何してんのかも分からなかったんだけど、なんか段々と…あ、もしかして、俺死んだんじゃないかって」


「…天…国にいたの?」


「分かんない。そこが天国なのかも。ただ、じわじわと色んな感情を思い出すみたいに記憶が蘇ってきて、シュガーと乃々をおいて死んだんだって分かって。…そういえばあの子は?」


「あの子…?」


「俺多分、子供が車に轢かれそうなのを庇ったような…」


「…少し怪我をしたみたいだけど、もう完治して退院しているって」


「そか…よかった」


「よく…ないでしょ…?」


 いいわけがない。だって、分からない。もし柚希がその子を庇わなくても、もしかしたらその子は轢かれていなかったかもしれない。もし轢かれていても打ちどころが良ければ生きていたかもしれない。

でも、柚希は死んでしまった。

私にとってはそれだけが事実で現実なのに、良かったなんて思えるはずがない。


「…。父さんや母さんは大丈夫そう?」


「そ、そうだ!柚希、おばさんたちにも会いにいこう!きっと…」


「いや、混乱させるだろ」


「そ、そりゃ最初は…でもそれ以上に喜んでくれるはずだよ!」


「…いい。俺がいなくてほっとしているかもしれないし」


「そんな…」


 柚希がいなくなってからのおばさんたちを見てきたけど、そんなことあるはずがない。

おじさんもおばさんも、柚希を失った悲しみから抜けられないまま必死に今日を生きようとしている。

いつ消えてしまうのか分からないのなら、今すぐにでも柚希の顔を見せてあげたい。


 でも柚希の顔を見ているとそれ以上は何も言えなかった。


「俺は、乃々とシュガーに会えただけでも十分だから」





 その後空が明るくなるまで、柚希がここへたどり着くまでにした体験を詳しく話してくれた。


 柚希は天国か何処か分からない場所でフワフワ浮いているような、どこかへ流れているような感覚がしていて、そのどこかへ流れつけば、後悔や不安などの負の感情から解放されて楽になるんだとなんとなく感じていて、早くその場所に行きたいと思っていたと。

でも微かに見える小さな光が自分を追いかけてきていて、それが何か気になっていたと。

長い時間が経って、思考が薄れてきて、感覚的に楽になれる「そこ」がもう近いと感じた時に、鈴の音が聞こえて手放しかけていた意識がはっきりしたと。

声の出し方も忘れていて、必死にその名前を叫ぶように口をパクパクさせると、鳴き声が聞こえて自分の側までシュガーが走ってきてくれたんだと教えてくれた。


「思い出したんだ。シュガーをおいて死んでしまったこと。でももう抱き上げてやることも、名前を呼んでやることもできなくて、心の中で何度も謝って別れを伝えようと思ったらさ、頭の中に映像が流れたんだ。この部屋で…乃々が泣いていた」


「私…?」


「乃々と別れる準備をする時間が欲しい、せめて涙が止まるまで、その後は必ずここへ戻ってくるから。自分の運命を受け入れるから、そう願ったら気が付いた時にはここにいた」


「…っ。じゃぁ…ずっと泣いていなきゃ」


「何言ってんだよ」


「涙が…止まるまでは側にいてくれるんでしょ…?」


「…乃々。何日まともに寝てないの。もう休んで」


「だめ!まだ私、柚希に伝えていないことがあるの」


「明日聞くから」


「明日消えちゃうかも…しれないよ」


「消えないから」


「…なんで分かるの?」


「なんとなく」


「柚希…私…」


「乃々。ここにいるから。大丈夫。目閉じて」


その言葉が催眠術のようで、吸い込まれるように目を閉じてしまった気がする。寝るのが怖くて必死に意識を保っていたのに、頭を撫でてくれた柚希の手が優しくて、この温もりの中眠りたいと、深い息を吐くのと同時に意識を手放した。









 そんなに長い時間ではなかったはずだけど、深い深い眠りについていたような気がする。

その眠りから呼び起こされるように聞こえたアラームの音に徐々に意識を取り戻して、重い瞼を開けた先に見えたのは、カーテンから差し込む明るい光と、大好きなミント色のまんまるな目。

そして、そんなシュガーと一緒に私を覗き込む、クールで無口な二歳年下の幼馴染柚希。


 交通事故でこの世を去った柚希は、不思議な力を持つ猫、シュガーに導かれて私に会いに来てくれた。

いつ消えてしまうのかは誰にも分からない。

どうしてシュガーが柚希を連れて来ることができたのかも分からない。

幽霊なのか、幻想なのか、夢なのかすら分からない。




「おはよう」


でも柚希は今日も私の側にいてくれた。


「柚希…おはよう」



 この日から私たちに与えられたほんの僅かな時間。不思議な三人だけの暮らし。

この時間が長く続かないことは分かっている。

神様がくれた、柚希が私とシュガーにお別れをする、本当に最後の時間。

伝えたくても伝えられなかった気持ちを伝えられる、奇跡のような時間。


それなのに、伝えたい言葉を伝えるのが怖かった。


その言葉が本当に最後の言葉になるような気がして。


好きだと伝えると、柚希が消えてしまうような気がして。


「ねぇ柚希…」


「何」


「ニャー」


「シュガーが俺の名前も呼べって」


「ふふ…柚希はシュガーの言葉が分かるの?」


「分かる」


「ニャー」


「ほら早く呼べって」


「シュガー」


「ミー…」


「…うん俺も」


「…?今シュガーなんて言ったの?」


「男同士の秘密」


「何それ…!」



 

神様。

もう少しだけ。あと少しだけ時間をください。


「待ってるから仕事行ってこいよ」


「本当に…?」


「待ってる」


「私、柚希に伝えたいことがある」


「…俺も」




あと…もう少しだけ…

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