五話 再会
「乃々香!」
「お母さん!」
「空き家にはいた?」
「いない…」
今朝シュガーがいなくなっていることに気が付いて、部屋の中も家の周辺も出勤時間ギリギリまで探したけど見つけることが出来なかった。
窓の鍵も、玄関の鍵もかかっていて、外に出られるような場所なんてないはずなのに。
このまま出勤したって仕事になんてならない…何か理由をつけて休んで見つかるまで探したかったけれど、昨日迷惑をかけたばかりでそんなことできるはずもなく、お母さんと洸希君に連絡をして涙を飲んで出社した。
住んでいるアパートと実家の近くの空き家は、そんなに離れているわけではないけれど、子猫が一人で移動できるような距離ではないし、ましてや車通りの多い大きな道をいくつも越えなくてはいけない。
そう考えるとここにいる可能性は低かったけれど。
それでも思いつく場所は全て探したくて、退勤と同時に実家へタクシーを走らせた。
「乃々香の家の周りや公園も昼間ずっと探したんだけど…」
「どうしよう、車に轢かれでもしていたら…」
最悪の事態を想像するだけで目の前が真っ暗になりそうだった。
柚希を失って、シュガーも失ったら今度こそ私は生きていけない。
「…乃々香。シュガーは乃々香を悲しませるようなことはしない」
「お母さん…」
「きっと気分転換したかったのよ。乃々香が忙しくて相手してあげないから」
「で…でも…」
「大丈夫。すぐひょっこり帰ってくるわよ」
久しぶりに実家でご飯を食べていくように言ってくれたお母さんに、週末もう一度来ると約束してタクシーで走った道を歩いて帰ることにした。
突然一人暮らしをしたいと言い出した私を、理解して送り出してくれたお父さんにも心配をかけるわけにいかない。
今会っても笑って話せる自信がない。
柚希がいなくなってから、私の心の支えは紛れもなくシュガーだったのだから。側にいてくれないと、私は何を支えにして生きていけばいいの。
気まぐれでどこかに行ったりしないでよ。シュガーは誰よりも、私が泣き虫で寂しがりやなこと知っているでしょう。
一人じゃ眠れないこと知っているでしょう…?
帰り道、暗い脇道も公園も歩き回ったけどシュガーはいなかった。
まだ真新しいスーツは土や草だらけになって、少し奮発して買ったパンプスも、明日は履いていける状態じゃなくなった。
どうして、大切なものが離れていくの…。私が何をしたの?
柚希…柚希どうしよう。私がシュガーの側にいるって約束したのに。このままじゃ柚希のことも安心させてあげられない。
どうしたらいい?…ねぇ誰か教えてよ。私はどうすれば…。
桜が咲くのを楽しみにしていた。アパートの窓から満開に近づいている桜の木が見えて、シュガーとお花見したいねって何度も話した。本当は三人で見たかったけれど、もうその願いは叶わないから、二人でって…。そう約束したのに。
頭の中に桜の木の下で笑っている二人の姿がぼんやり浮かんで、歩くのも辛いほどなのに、その姿に幸せな気持ちになった。
私も、二人のそばへ行きたい。
どうやって帰って来たのかも分からず、アパートの前まで辿り着くと部屋に灯りが点っていることに気が付いた。
あんなに慌てた朝だった。点けっぱなしで出かけてしまったのかもしれない。
でも、真っ暗な部屋に帰るのは怖かった。独りだと思い知らされるのが怖い。
消し忘れた電気にさえ縋るような思いで、古くて汚れたドアに手をかけた。
チリン。
それは私が帰宅すると聞こえるいつもの音。
私の帰りを待っているシュガーが、鍵を開ける音に気付いて玄関までやってくる音。
はやる気持ちを抑えられず少し乱暴にドアをあけると、そこにはいつものように私を出迎えてくれるシュガーが座っている。
「…っシュガー!」
「ニャー」
「ど…どこに行ってたの?心配…心配したんだよ!」
抱き上げて怪我や変わったところはないかくまなく確認するけど、真っ白な毛は昨日寝る前に見たまま綺麗でフワフワしていた。
「ミー…」
「も…本当…良かった」
抱きしめたまま玄関に座り込むと、シュガーは申し訳なさそうに私の頬に顔擦り付ける。
温かくて、優しいシュガーの匂い。それを胸いっぱいに吸い込むと、もうボロボロの靴や服なんてどうでもよくなった。
無事でいてくれてよかった。
…でも一体どこにいたんだろう。
このアパートにある部屋は小さなキッチンから繋がる六畳の一部屋だけ。あとは、トイレと一緒になっているお風呂。
隠れる場所なんてどこにもないし、窓もドアも間違いなく閉まっていた。
部屋の中はくまなく探したし、呼んでも側に来ないことなんて一度もなかった。
だから朝は気が動転していたこともあって、部屋から出て行ってしまったと思い込んでいたけど、冷静になるとこの空間からシュガーが逃げ出すことは難しい。
「シュガー今までどこにいたの…?」
ふと我に返ると、玄関のすぐ側にあるキッチン、その先にある部屋から何故か人がいるような気配がする。
チリン。
「あ…シュガー!そっちに行っちゃだめ…!」
玄関の鍵はかけていた。今開けたところだから。誰かいるはずがない。
そう分かっていても感じる違和感にとっさにシュガーに手を伸ばしたけど、その手をすり抜けたシュガーは小走りでその部屋に向かった。
「ニャーン…」
甘えたようなシュガーの鳴き声の後、確かに見えたシュガーを抱き上げる長い腕。
誰かがそこにいる恐怖に、一瞬後ずさった後、心臓がすごい速さで動き出した。
逃げなきゃいけないという気持ちと、シュガーを助けなきゃいけないという気持ちが同時に湧き上がって、すぐに身体が動かない。
「…っ、シュ…シュガー…!」
「…乃々」
「……え?」
部屋から聞こえた声は確かに聞いたことがある声だった。
聞き間違えるはずがない。私はこの声をよく知っている。私の名前をそう呼ぶ人は…家族にも友達にも一人もいない。
世界で一番好きな声で、求めてやまなかった声。
でも、その声はもう永遠に聞くことはできなくて、どんなに神様にお願いしたって叶わない願いだと分かっていたのに。
「乃々」
それでも何度も何度も願った。
幽霊でもいいからと。夢の中でもいいからと。もう一度だけ会いたいと。もう一度名前を呼んでほしいって…。
「柚…希…?」
シュガーを抱いて立っているのは、紛れもなく柚希だった。
今目の前にいる柚希は、生きていた時の姿で私の最後の記憶になっている柚希のままだった。
高校の制服の下に来ているパーカーも、色白な肌も、シュガーを抱く長い指も。
幻覚でも夢でも妄想でも何でもいい。
会いたかった柚希が目の前にいる。
腰が抜けているのか、立ち上がることはおろか声もうまく出なくて、鉛のように重い腕を上げると一歩ずつ柚希がこちらへ歩いてくる。
触れたい。消えないで。行かないで。伝えたいことが沢山あるの。
あと少しで触れることが出来る。
震える腕を最大限伸ばすと、冷たい指先が触れ合った。
「柚希…っ!」
「乃々!!」
今目の前にいる柚希が私の作り出した幻想なのか、幽霊というものなのか分からない。
でも今、私は柚希に触れている。
掴んだ手首を引き寄せられて、そのまま柚希の胸に顔を埋めた。
「乃々…ごめんな」
「柚希…っ酷いよ」
「ごめん…」
違う。こんなことが言いたかったんじゃない。
「私とシュガーをおいていくなんて…酷いよぉ…」
「ごめん。ごめんな乃々」
「ふ…ぅ…っ、柚希…柚…」
もしももう一度だけ会えたら、伝えたいことが沢山あった。
叶わないと分かっていても、一晩中、伝えたい言葉を考えたりもした。
なのに、この瞬間に溢れ出したものは、用意していた言葉なんかじゃない。寂しさと恋しさ以外の何ものでもなかった。
寂しかった。柚希が目の前から突然いなくなったあの日から、暗闇の中にいるようで。
柚希が生きていたことが過去になるのが、柚希と過ごした日々が思い出になることが怖かった。
眠れない夜は柚希の声を探して、一つ思い出しては消えていくのではないだろうかと惜しんでいた記憶を一つ一つ呼び起こして、その中にいる柚希に思いを馳せていた。
何日経っても、何週間経っても、溢れ出る涙が、柚希が恋しいと言っていた。恋しくて、恋しくて、もういっそこのまま朝が来なくていいと何度も思った。柚希のいない世界ならば、二度と目が覚めなくてもいいって。
「乃々…顔見せて」
冷たい指が頬を撫でる。
「…泣くなって。会いにきただろ」
「あ…会いに…来たの?」
「うん。会いに来た」
「どう…やって…」
柚希は片手に抱いてるシュガーを私の頬に寄せた。
「ミー…」
「シュガーが、呼びにきた」
「シュガー…?」
「うん。俺のこと、探しにきてくれた」
どういうことなのかと、必死に頭を働かそうとしたけど、そんなことどうでもいいと心が思考を捨てようとする。
「…乃々」
ここにいる柚希を感じたくて頬に触れると、目を伏せて笑う柚希が「会いたかった」と小さく呟いた。
夢なら覚めないで。
そう思いながら何度目を閉じてもこの夢から目覚めることはなかった。
柚希の言葉の通り、柚希は私に会いに来てくれたのだ。
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