四話 夢の続きは…

「よし…こんなもんかな」


 部屋を見渡して息をつくと、足元でチリンと可愛い音がする。


「乃々香ちゃん本当に大丈夫?」


柚希がシュガーと住むはずだったアパートで、洸希君がテーブルの上に部屋の鍵を置いた。


「うん、お父さんを説得するに少し手間取ったけど、今日からやっと住めるよ」


「…柚希のためにありがとう」


「私がここに住みたいんだよ。ここには…柚希がいてくれるような気がするの」


「柚希、乃々香ちゃんのこと大切に思っていたから、一人暮らしなんて危ないって反対しそうだけど」


「そうかな…」


「じゃぁ僕はもう帰るけど困ったことがあったらすぐ連絡して」


「うん、本当にありがとう」


「ニャー…」


「シュガーもまたな。今度はおやつ持ってくるよ」


「ンニャー」


「お前本当に可愛いな」


 洸希君は柚希と同じ白くて長い指でシュガーの頭を撫でた。

そのままポンっと私の頭に手を移動させて、僕は柚希のこと何も知らなかったのかもしれないって寂しそうに笑って部屋を出ていった。

 私も…ずっとそう感じている。

柚希がいなくなってから知ったことが多くて、その一つ一つに柚希の想いや生きていた証が刻まれていて、喪失感を感じずにはいられない数週間だった。

みんな柚希の側にいたのに。その思いを聞く機会も、知るチャンスもあったはずなのに、私たちはいったい何を見て生きていたんだろう。

 この部屋を出るとき、どんな気持ちだったのか知りたかった。

少しの不安と決意と、責任。迷い、寂しさ、期待。今の私が感じていることをあの時の柚希も感じていたかな。


「ね、シュガー。これ開けてみようか」


 洸希君が置いてくれた鍵の横に置かれている小さな箱。

乃々香ちゃんにだと思う。事故にあった当日から置いてあったその箱を、洸希君から受け取ったのはお葬式から数日経ってからだった。

お葬式が終わって数日。重い身体を引きずって新しい職場の研修へ行った帰り、洸希君に突然呼ばれた場所は、柚希が住む予定だったアパートだった。


「部屋はあの日のままだから、これは乃々香ちゃんに渡すものだったと思う。就職祝いだったのかな」


 ミント色のベッド、ミント色の首輪、そして小さな箱。

そこは柚希がいたままで、まるで時間が止まっているようだった。

このままの状態で私に知らせたかったと言ってくれた洸希君は、アパートを片付けるのが辛いと泣いていた。

柚希の想いが詰まっていると。

ここには…柚希の想いが生きている…。

 

 この頃から始まっていた新しい職場で覚える仕事の量は膨大で、悲しみを乗り越える時間も無いほど毎日を必死に過ごして、この決断をするまでに少し時間がかかってしまったけど、今改めてこの部屋を自由に歩くシュガーを見てこれでよかったのだと思えた。

 

 私はあそこでシュガーと暮らしたい。

やっとそう決断できたとき、自分の両親はもちろん、洸希君にもおじさんおばさんにも反対された。

解約手続きが進んでいる状況で、そんなわがままを言うことは沢山の人に迷惑をかけるということも分かっていたし、柚希のように一人暮らしをする準備が出来ていたわけじゃない私は、両親の理解も…手助けも必要な状況だった。

まだ柚希を失ってから誰一人としてその現実を受け入れられていなくて、このワガママが誰かを傷つけていたかもしれない。

…でも、それでも、私はあの場所を失いたくない。

 あの場所は柚希が生きていた証だから。

シュガーと共に生きていこうとしていた証だから。

叶えてあげたい。姿形はないけれど、柚希の魂はきっとそこにある。

安心させてあげたい。両親を残して…私を残して…どれだけの心残りが柚希にあるだろう。

弱くて小さなシュガーをどんなに心配しているだろう。

柚希の声はもう聞けないけど、それは間違いない。なら、たった一つ、シュガーとそこで暮らしたかったという願いをどうしても叶えてあげたかった。


「ニャー」


「あ、ごめんね。開けてみようね」


 ちゃんとここに住めるようになるまでは開けないでおこうと置いていたその箱は、所々汚れたり凹んだりしていて、しばらく柚希がこの箱を持ち歩いていたことが一目瞭然だった。

きっと渡すタイミングが見つけられなかったんだよね。

どんな時も優しい柚希だけど、自分の気持ちを言葉にするのが何よりも苦手だったから。

渡したくても、中々渡せなかったこれを…あの日どんな気持ちでここへ置いて家を出たんだろう。


「ミー…」


「ご…ごめんね、また泣いてるよね…ごめんね」


震える指でリボンを解いてたどり着いた真っ白な箱をゆっくり開けると、細いチェーンのネックレスが入っていた。

沢山散りばめられた小さな石が、涙で星のように輝いて見える。


「ふっ…ぁ…」


これをどんな顔して選んだの。

まだ制服を着ていた柚希が、慣れないお店に入ってこれを一人で選んだの?

一人で早く暮らしたいってバイトばかりして、お金を貯めていた柚希にとってこれはどれだけ高価なものだったんだろう。

この石は本物のダイヤモンドでもなければ、すごく高価なものではないのかもしれない、それでも私にとってそれは何よりも価値のあるプレゼントだった。


「…シュガー、似合う?」


「ニャー」


「私たち、柚希から貰ってばかりだね」


 

 初めて柚希のアパートでシュガーと一緒に眠りについたこの夜、不思議な夢を見た。

シュガーが私の側へ来て、頬に流れた涙を舐めた後どこかへ消えてしまう夢。

行かないでと名前を呼ぶけど、暗闇の中に見えるのは左右に揺れる尻尾だけ。

シュガーの先には小さな光があって、それが何なのか必死に目を凝らしたけどやがてその光の中にシュガーは消えてしまってそこで目が覚めてしまった。

この夢をこの先何度も見ることになるけど、いつも夢の先は分からないまま目覚めるだけだった。

 チリンという鈴の音で目が覚めると、ミント色のまんまるの瞳で私を覗き込むシュガーがいて


「シュガー…あなたはどこにも行かないでね」


しばらく布団から出たくない私はいつもゴロゴロと喉を鳴らすシュガーと身体を寄せ合って時間の許す限りその温もりに寂しさや不安を埋めてもらっていた。




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「申し訳ありませんでした!」


「いいのよ、ミスは誰にでもあるから。ただ確認を怠ると皆んなに迷惑がかかることだけは忘れないでね」


「はい…本当に申し訳ありませんでした」


 もう時間は23時を過ぎようとしている。

なんでちゃんと確認しなかったんだろう。あんなに上司から言われていたのに。

自分のミスで、周りの先輩たちも巻き込んでこんな時間まで仕事をさせてしまった。

今更そんな後悔をしても、みんなから奪った時間は返ってこないけれど。


「はぁ…」


 今日一日分の深いため息をつくと、身体と頭はもうクタクタで、一秒でも早く布団に入ってふわふわのシュガーを抱きしめたいのに、歩道橋の上から足が動かなくなってしまった。

今ならまだ終電に間に合うのに。

 こんな時間なのに歩道橋の下に見える沢山の車のライトは、みんな仕事をして、家族と過ごして、恋人と過ごして、今日を必死に生きているんだと言っているみたい。

柚希がいなくなったって、世界は何も変わらなくて、どんなに眠れなくても、朝は必ず来て、私はまた会社に向かう。

人の身体は怖いくらいに無情で、私の心と身体は柚希がいない生活に順応しようとしているように思えた。

また柚希の声を思い出せなくなったらどうしよう。私の中にいる柚希が少しずつ消えていってしまったらどうしよう。

今はそれがとてつもなく怖かった。

 吸い込まれそうなほど綺麗なライトを一心に見つめていると、着信を知らせる携帯の振動でやっと意識が鞄へと向いた。



「…はい」


"乃々香ちゃん?まだ仕事なの?"


「洸希くん…。あ、えっと今日は残業で」


"まだ職場?迎えに行くから"


 

 車通りの少なくなった駅前に、見慣れた車が止まって見えたその顔に胸が少しだけホッとする。


「会いたくて家の前で待っていたんだけど全然帰ってこないからさ」


「今日は携帯を確認する時間も無くて…ごめんねすぐに出られなくて」


「いつもこんな時間まで仕事しているの?」


「いや、実は今日…その、私のミスで…」


 さっきの職場の空気を思い出して喉の奥が詰まりそうになりながらシートベルトをすると、頭に心地良い重みを感じた。


「そうか、お疲れ様。新入社員なんだからミスもあるよ。気にしなくていい」


「洸希くん…」


「ご飯は食べたの?何か食べて帰ろうか?」


 これは失礼なことなんだろうか。

洸希くんの言葉にも、表情にも、柚希を感じて、まるでその言葉を柚希が言っているかのように感じてしまう。

こうやって、柚希を感じられる洸希君の側はとても心地よかった。



「ありがとう送ってくれて」


「本当にご飯は良かったの?」


「うん、シュガーがお腹空かせて待っているから」


「そうか。あ、そうだ、今日会いに来たのはこれを渡したくて」


洸希くんが車のダッシュボードから取り出したのは、透明な袋に入った紐のようなものだった。


「何…?」


「これ、柚希が事故にあった日、腕につけていたものなんだ」


「柚希の…」


「かなり損傷もしていて、綺麗なものじゃないから、乃々香ちゃんに渡さない方がいいとずっと持っていたんだけど」


よく見ると切れてしまいそうなほど傷ついたブレスレットには、血液が付いているようにも見えて、事故の酷さを思い知らされるような感覚に足が自然と震える。


「ごめん。見たくないものだったよね」


「違う…っ、あの、」


「大丈夫、無理に渡そうとは思っていないから。ただ…」






「シュガーただいま」


「ミー」


「ごめんねお腹すいたでしょう」


「ニャーン」


”ただ、シュガーの首輪を見た時にこれに似ていて驚いたんだ。もしかしてお揃いにしていたんじゃないかってずっと気になっていて。僕が持っていていいなら持って帰るから。”


チリン…


「ニャー」


チリン…


「ミー…ミー…」


可愛い鈴の音が鞄の前で止まって、中身を見させてほしいと言わんばかりに、ミント色の瞳が私を見つめた。


「…シュガー。柚希のブレスレットだよ。お揃いだったんだね」


「ミー…」


 その夜シュガーは久しぶりに泣いていた。

外を見たいと窓を爪で掻いて私に伝えようとする小さな身体を抱き上げて、あの日と同じように二人で夜空を見上げた。

あそこにいるかもしれない柚希を想って流す私の涙をシュガーは舐めて慰めてくれた。

そして二人で気のすむまで泣いて、泣き疲れて意識を失うように布団へ倒れこんで、私はまたあの夢を見た。


 でも今日の夢はいつもと少し違っていて、いつもよりシュガーが向かっていく光は大きくて、その先が見えそうになった。

シュガーが進む先に見えた人影。

それが誰なのかは分からない。

その人影に気付いたシュガーは足を速めて進んでいってあっという間に見えなくなってしまった。

誰を…見つけたの…?


 朝、アラームの音で目覚めた私の目に映ったものはいつもと違う景色だった。


「…シュガー?」


目覚めると、私を覗き込むシュガーの姿はどこにもなくて、シュガーはこの日突然私の前から消えてしまった。

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