第8話 天使様 そして入浴
「いらっしゃいませー。三名さまですか?」
髪を後ろで束ねた20代半ばの清楚な女性が、ルブに話しかける。
年齢的にみれば、三人の中でルブが一番年上になるので、彼が保護者なのだろうと当たりをつけての事である。
それを理解した上で、紳士的な対応をみせるルブ。
「いえ、泊まるのはこの二人だけです。イルゼ……白銀の髪をした少女の方はギルマスの紹介で来ている高名な冒険者様でもあります」
「えっ!?」
それだけに年端も行かぬ少女達だけが泊まるという事と、その片方が高名な冒険者であるという事に彼女は面食らってしまう。
そしてイルゼ達をちら見する。
(大丈夫かしら)
ここには冒険者が多く泊まるので、美少女二人組は良い意味でも悪い意味でも注目を集めるからである。
しかしギルマスの紹介という事もあり、彼女は素直に了承する。
「それは失礼致しました。では一番いい部屋をご用意させて頂きます」
「ありがとうございます」
この宿屋ではギルマスは神に等しい存在なのだ。
颯爽と店の奥へ戻る女性を見送り、ルブは入り口付近で固まっているイルゼ達の元へ行く。
「一番いい部屋を用意してくれる……って聞いてませんね」
二人は宿の内装に目を奪われていた。
壁や床は穴が空いていなければ、少しの傷もついておらず、清潔そのものだ。尚且つ、宿全体に灯りがついている事にイルゼ達は驚きを隠せない。
イルゼ達、人間側は魔族との戦争時に身体を休める為、庶民の宿屋を寝床として使用していた。
しかし彼等にとって、小汚い床、穴の空いた壁、虫まみれの部屋で一夜を過ごす事は、魔族と戦う時より心にくるものがあった。
かたやリリスは、人間界に遊びに来ていた頃、興味本位で一度泊まりに来た事があった。
もちろんリリスはそこで一夜を過ごす事なく、自分の城に一目散に戻ったわけだが。
彼女達はその時見た、ボロボロの――人が快適に過ごすには不衛生な宿屋の内装を念頭に置いて入った。
だからこそ驚いてしまった。
「え、綺麗、すごい」
「なんじゃこりゃ、床がふわふわしておるぞ」
語彙力を無くしたイルゼと、地面がふかふかしている事に興味を持ったリリスがしゃがみ込み、両手でその触り心地を確かめる。
床の上にはカーペットのような物が敷かれ、中には羽毛が入っている。その為、ものすごくふかふかしていた。
そんな光景を目の当たりにしたルブは、ギルマスの口から言われていなければ、『剣聖』と『魔王』だなんて信じられないと思った。
(いや、ビルクが絡んで来た時に見せたスピードは本物だ。俺は彼女の動きを少しも捉える事が出来なかった)
それに国王陛下からの口添えもあるので『剣聖』と『魔王』である事は事実なのだと彼は無理矢理自分を納得させる。
それを裏切るかのように、イルゼとリリスの奇行は続く。
「ここ、とっても良い匂いがする」
イルゼの鼻がクンクンと部屋の匂いを嗅ぎ分け始める。
そして彼女の優秀な鼻は、ものの数秒の内に匂いの元に辿り着く。
匂いの元は、カウンターの上に置いてあった白くて丸い容器からであった。
中には花の蜜の様な液体が入れられており、独特な匂いを醸し出していた。
「これは何?」
イルゼが手にとってみるも、それが何なのかは分からなかったが、五百年前までにはなかった代物である事は確かだった。
おそらく、自分が眠っている間に出来たものだろうと少女は理解する。
各国との小競り合いはあるものの、比較的平和な現代であるからこそ発明された代物である。
「お客様ー! 大変お待たせしました。お部屋のご用意が……ってあら」
「これ何?」
イルゼが白くて丸い容器を女性にみせる。
その目は好奇心に満ち溢れており、ほんのり濡れた瞳で上目遣いをしてくるさまは、彼女の庇護欲を掻き立てた。
(え、なにこの子……可愛いすぎるんだけど!)
イルゼは意図せず一人の女性を堕としてしまった。
堕とされた彼女はイルゼに対し従順になる。
「これは魔道具の一種で、それぞれの好みに合わせた香りを充満させ、リラックスした気分を味わって頂く魔道具となっております。用意させて頂いたお部屋にも、浴場にも設置させて頂いております」
女性は丁寧に接する事で心の機微を隠した。
「そうなんだ、ありがと」
イルゼがお礼をいうと、女性は赤面した。
「いえいえ、これくらい当然でございます。あ、私はミラ・アベージュと言います。よければ名前で……」
「お主! 浴場があると言ったか!? 余を早くそこへ案内せい、五百年ぶりの湯浴みじゃあー!!」
入浴出来る事に大興奮したリリスによって、後の言葉をかき消されてしまう。
「ん? 今何か言いかけた?」
「い、いえ、なんでもありません。浴場ですね、今、ご案内させて頂きます」
名前で呼んで欲しいという企みは、リリスによって邪魔され、タイミングを失ったミラは、分かりやすく項垂れる。
逆に、帰るタイミングを見極め、チャンスを逃さなかったルブが勝利を手にした。
「それじゃ、俺の役目はここまでですね。また明日ギルドに来てください」
「うん、分かった。あと敬語いらない、大変そう」
「え、でも……イルゼさんがそう言うなら――イルゼ、また明日な」
「ん。また明日」
ルブと別れると、リリスが早く来いと手招きしていた為、イルゼもリリスと共に、ミラの後ろをついて行く。
親鳥についていくかのように、ミラのあとをひょこひょこと歩く二人。絵画から飛び出して来たかのような、端正な顔立ちをしている少女二人組の姿に宿泊客達は思わず目を奪われてしまう。
中には「今日、この宿に泊まって一番良かった」という者まで出てきた。
親鳥にあたるミラは、自分が宿の従業員である事も忘れ、宿泊客達をキッと睨みつけた。
「おっふろ、おっふろ!」
リリスはアホみたいにおっふろ、おっふろ! と連呼していた。
事実彼女はアホの子である。
「着きました。ここが浴場となります」
浴室へと繋がる扉の前には『湯』と書かれた、のれんが垂れ下がっており、女湯と男湯に分かれていた。
「では、早速!!」
リリスがガラッと女湯を開けた。そこには程よい湯気が立ち込める空間が広がっていた。
「おお、これは凄いのー!! 人間の世界の風呂もまだまだ捨てたもんではない」
「人間の世界?」
「リリス、余計な事言わない」
リリスはしまったと口を抑えた。
それをミラは笑顔で流してくれた。
可哀想な子と思われたらしい。
リリスは可哀想ではないが、残念な頭ではあった。
その後、リリスが「こっちはどうなっておるのだ」と男湯に入ろうとするひと騒動があったものの、なんとか抑え、用意された部屋へとイルゼが連行した。
その後、二人には広すぎる部屋に、少ない荷物と装備一式を置いて、浴場へと向かった。
イルゼ達の荷物のほとんどは、国王から貰ったアイテム袋に詰め込んでいたからだ。
浴場へ着くと、何故か肌着姿のミラからタオルと石鹸が渡される。
「はい、こちらが当店自慢の良い香りがする石鹸ですよー」
「ミラ、ありがとう」
「ご苦労である」
当然のように、脱衣所までついて来て、堂々と服を脱ぎ始めるミラに対し、イルゼ達はなんの疑問を持たなかった。
イルゼ達も服を脱ぎ、カゴに入れ、一糸纏わぬ姿となる。
同時にリリスの豊満な胸が姿をあらわし、イルゼが「おー」と驚嘆の声を上げる。
そしてもう一人、リリスとイルゼを一心不乱になって見ている女性がいた。
そう、ミラである。
(す、すごいわ。天使が二人いる!!)
どこからともなく感じる不埒な視線に、イルゼが背筋を丸める。
「ん、どうしたイルゼ?」
「なんか変な視線を感じた……敵かも」
そう言ってイルゼは先に浴場に入り、辺りを見渡して何もいない事を確認したあと、リリスを手招きする。
「大丈夫みたい、来ていいよ」
「うむ」
リリスを狙う輩がいる中、丸腰では不用心だと考えたイルゼの手元には純白の愛剣が装備されていた。
その事には何も触れないミラであったが……風呂の形式には厳しかった。
「あ、入る前に体を洗い流してくださいね。これは決まりですから」
早速、飛び込もうとしていたリリスに待ったがかけられる。
しかし郷に入れば郷に従えというので、大人しくミラの言うことを聞く二人。
それが彼女の狙いである事と知らず。
「ふむ、決まりならしょうがないな」
「うん。しょうがない」
大人しく洗い場に行く二人。
(ふふ、これで合法的に天使の身体に触れます)
わきわきと手を動かし、卑猥な目でイルゼとリリスの美麗な背中を見つめる。
「よければ、私がお背中お流ししましょうか?」
「ほんと? じゃあお願い」
「その次に余も頼む」
「はい、お任せ下さい」
(狙い通りです!)
同性という事もあり、いくらか油断していたイルゼに魔の手が迫る。
その時、勢いよく浴室が開かれた。
「ミラー! そんな所でサボってなにしてる!! お前は自分の仕事を忘れたのか、お客様にも迷惑をかけるな」
勢いよく現れたのは、男勝りなミラの上司であった。
「オ、オーナー!? そんな……迷惑なんてかけてないですよ。そうでしょ天使様?」
「天使? うん、迷惑はかけられてないけど仕事はちゃんとした方がいいよ」
「そうですよね天使様……ってええー!!」
「そういう事だ。戻るぞミラ」
「そんなー! 天使様のおみ足がー!!」
ミラはそのままオーナーに連れて行かれた。
ミラが消え、静かになる浴場。イルゼ達の他には誰もおらず、貸し切り状態であった。
湯気が立ち込める中、お互い無言で見つめ合う二人。
やがてイルゼがその沈黙を破った。
「……リリス、背中流そうか?」
「うむ、洗いっこじゃな」
「うん」
イルゼの提案により、『剣聖』と『魔王』がお互いの背中を流し合う事になった。
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