20話

 いよいよ本当に帰ることができるはずなのに、妙に実感が湧かない。そういえば帰ると言ってもどうやって帰るのだろう。ヴァンの後ろをついて歩いていればいつかたどり着くなどということはないはずだ。

 今更改めてそんなことを聞いたところでついていけば帰れるのだから直に分かるだろう。ヴァンも道すがらに話をする気はなさそうに見えたので黙ってついていくことに決めた。

 決めた。のだが、ヴァンは丘からどんどん離れていった。そのうちにだんだんと不安がこみ上げ、街の郊外に差し掛かったところでたまらず足を止めた。

「ちょっと待ってくれ、どこまでいくか聞いてもいいか?」

 いくらヴァンがいるからと言っても、わざわざそこら中にトロルがうろつく街中に馬鹿みたいな顔をして入りたくはない。今になってやっぱり俺を殺しておこうなどと考えているとは思っていないが、思いたくはないが、俺の小さな心臓は今のシチュエーションだけでも十分に不安を駆り立てるのだ。

「寺院だ。その奥の部屋に扉がある」

 その言葉通り俺たちは寺院にやって来た。誰もいない広場は代わりにトロルがこちらの様子を物陰から窺っている。それを抜けて無人、かと思いきや魔導士数人が出入りしている寺院に入った。おそらく老師たちが言っていた食糧を倉庫から運び出しているのだろう。

 彼らの横を通り過ぎ、そのまままっすぐ一番奥の部屋へ向かった。あまりいい記憶のない寺院だが、目的の一番奥の部屋はその嫌な記憶にある場所だった。もうずいぶん前のことに感じるが、俺の記憶が正しければここは一番最初にいた部屋だ。気づいたときにはここにいて、謎の言語を操る老人たちに囲まれていたのだ。なぜか非常に気分が悪くなりすぐに気を失ってしまったが、どことなく祭壇を思わせる内装だったことは覚えている。ここはその時と同じ、物々しさを感じる部屋だった。

「あれが扉だ」

 ヴァンが指をさした。その先には扉などどこにもない。代わりに床が裂けていた。壊れたというわけではなく、空間そのものが歪んでいるような、その奥は何色とも言い難い謎の色をしている。ずっと見ていると気分が悪くなりそうだ。何かに例えようと頭をひねった結果出てきたのは、ゲームなどでたまにある、次元の裂け目だとか、そんな表現をされる類のものだった。

 あれが扉ということは、あそこに入れば帰ることができるということだ。あながち間違ってはいないだろう。

「扉を開く。手を出せ」

「手…?」

「血が必要だ。少し切るぞ」

 言われるままに手を出したが最後、ヴァンは俺の返事も待たずにどこからか取り出したナイフで俺の指に傷をつけた。

「いっ、痛てっ!?」

「このくらいでいちいち騒ぐな」

 突然指を切られて驚かないわけがないではないか。そんな全うな意見をしようとヴァンを見て、やめた。今まであまり気にしたことは無かったが、袖の下に見えるヴァンの肌にはたくさんの傷痕が刻まれていた。正確な年齢は知らないが、俺とさして変わらない年齢でありながら俺には想像もつかない苦労をしてきたのだろうか。

 ……だからと言って痛いことには変わらない。痛いものは痛いのである。

「これであの穴に入れば元居た場所に戻れる」

 いつの間にか準備を終えたらしいが、俺には何が変わっているのかさっぱりわからなかった。裂け目が光っているとか、神秘的に存在感を増すとか、そんなことは特にない。

 本当にあっさりと、ここまで来てしまった。

「これで、帰れるんだな」

「ああ」

 一歩踏み出そうとして、ふと院長の言葉を思い出した。

 ーー君を信じて、帰してもいいと皆が思えたら

 俺はヴァンたちに信じられたということでいいのだろうか。なぜだかそんなことが気になってしまった。

 確かめようと口を開きかけて、躊躇した。

 やめておくべきだ。もう帰れるのだから、今更訊かなくてもいいではないか。その一言が原因で、ヴァンが手のひらを返す可能性もなくはないのだ。

 始めは警戒され、疑われ、冤罪を着せられたような状態だった。そこから打ち解けていった実感はあったものの、そこには確かな距離感があった。

 何を警戒され、何を疑われているかもわからない以上、俺は何も知らない人物でなければならなかった。

 それが俺にできる、唯一元の世界に帰るためにできることだったからだ。何も知らず、巻き込まれただけの無害な男。そうあるように努力したし、実際そうなのだ。

 だから俺はなにも詮索しなかった。俺がこの世界に来てしまった原因を、彼らが知っているように見えても聞きたい気持ちを抑えてきた。もし何か知ることで、自分が余計な推測をしてしまう可能性さえ極力排除したかった。

 逆に彼らから何か聞かれても、俺は何も答えなかった。よく分からない、の一点張りである。せいぜい普通に暮らしていた、とか当たり前の事しか返さなかった。無自覚に言った言葉が、彼らの警戒や疑いに引っかかる可能性を恐れたからだ。

 彼らは彼らで、俺に詳しい話をすることは無かった。警戒もあっただろうし、そもそもこの世界の人たちさえほとんど知らない情報なのかもしれない。

 それらがうまく軌道に乗った、絶妙な距離感の中で打ち解けていったのだ。そこに今更首を突っ込んでどうしようというのか。

 ヴァンが振り返って固まったままの俺を怪訝そうな顔で見ている。

「どうした?」

「いや…」

「まあいい。すぐに閉じることは無いから心の準備がしたいなら好きなだけしておけ。俺はこの後やることがあるから、もう行くぞ」

 そう言って踵を返したヴァンはさっさと外に向かって歩き出す。しかしヴァンが扉に手をかけたところで、何を言うつもりなのか自分でもわからないまま呼び止めてしまった。ヴァンはまだ何か用か。と言いたげな目でこちらを見た。

「ここまで、ありがとう。それから今までも何度も助けてくれたことも」

「仲間を助けただけだ。 じゃあな」

 ヴァンは最後に冗談ぽく笑って、今度こそ去っていった。


*


 自分以外誰もいない静かな部屋の中で、どれくらいこうしていただろうか。頼りない明かりが照らす殺風景な壁を眺めている。それだけだから、思ったよりはまだそれほど時間は経過していないかもしれない。段差がイス代わりになってちょうどいい。

 俺はまだ帰ることができずにいた。

 浮かんでは消えていく取り留めのない考えが、後ほんの少し歩くことを躊躇わせていた。

 例えば、ヴァンが言った言葉。仲間なんて、そんなことを言われたのは初めてだった。普段の俺なら、いまどきそんな言葉は田舎の不良くらいしか使わないなどと一笑に付していたに違いない。

 それなのにどうして、こんなにも後ろ髪を引かれるような気持になっているのだろうか。

 俺が居ても居なくても事態は変わらない。

 変わらず街にはトロルが溢れ、ゆくゆくは人間を探してその活動範囲をさらに広げていく。ヴァンたちはたどり着けるかもわからない遠い土地へ、少ない物資を分け合いながら旅をする。

 ロカたちは、無事でいられるのだろうか。

 このまま何もかも放り出して帰って本当に良いのだろうか。いや、放り出す役など何も抱えてないくせに、どうするというのだ。考えたところでどうしようもないのだ。そんなことを考えたところで、結局のところ帰らないという選択肢はないのだから。

 俺にできることなんてない。何か役に立つ知識の一つも持っていない。来る日も来る日も惰性でゲームにかじりつき、文句を言うだけ言って自分では何もしようとしない。そんな何の価値も認められない浪費した時間しか詰まっていない人生のおもちゃ箱をひっくり返したところで役に立つものなど何も出てこないのは明々白々。出てくるものは無駄に蓄えた半端なゲーム知識と知ったかぶりの雑学ばかり。

 やめよう。虚しくなるだけだ。今度こそ、帰る。俺は帰るぞ! 意を決して立ち上がった。

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