19話

 ヘルマの追及をかわし、そそくさと戻ってきた俺を待っていたのは、沈んだ表情で俯くロカだった。俺がいない間に何かあったのだろうか。しかし様子を見る限りではそういった感じではなさそうだ。

 ロカは俺の前から動かず、目も合わせない。

「えっと…」

「ユウと、お別れしなさいって…」

 それだけ言って、ロカはまた黙り込んでしまった。

 体を起こして座っている院長へ視線を向けると、申し訳なさそうに微笑んでいる。心なしか奥さんも寂しそうな表情に見えた。どうやら俺が帰ることを先に院長の口から聞いてしまったらしい。どう切り出せばいいか悩んでいた身からすると渡りに船、かと思ったが、これはこれでやりづらい雰囲気があった。

「そっか。昨日も少し話したけど、帰ることになった」

 あの時はたしか、ロカからそのことを切り出されて話していたら突然ロカが飛び出して行ってしまったのだ。結局なんであんなことをしたのか聞く機会がなかったが、今にして思えばなんとなく想像がつく。

 ロカは俺ともう会えなくなることを悲しんでいるのだ。自惚れだろうか。いや、そんなことはない。少なくとも俺はロカともう会うことができないと思うと、寂しく思うし悲しさもある。それなのにあの時は帰れるという話に浮かれてただ喜ぶだけだったのだ。ロカからしてみたら仲良くなったと思っていた友達が、自分と会えなくなることを大喜びしているように見えていたのかもしれない。そんなやつがいたら俺は心の中でそいつをぶん殴って、友人だと一瞬でも思ってしまった自分を深く恥じることだろう。

 しかし、だからといって何を言えばいいのかという話はまた別だ。ヘルマに言ったようにあっさり別れを告げればいいのか、院長に言ったように感謝を述べればいいのか。ロカは今も沈黙したまま口を開くことは無い。

「急にお別れとか言われてもどうすればいいかわからないよな」

 やはりロカは反応しない。無言という返事はきっとロカもどうすればいいかわからないという肯定と捉えよう。

「俺は兄弟いないけど、弟がいたらこんな感じなのかなって思ったり、まあ俺の弟にしてはロカは出来が良すぎるけどな!」

 違うのだ。こんなことを言いたいわけではない。俺がロカに言いたいことはこんなことではない。そうだ、ロカに言っておきたいことを言えばいいのだ。

 一度深呼吸をして気持ちを整えた。

「正直言って俺は、ここに来てから嫌な、一生したくない経験をいろいろした」

 わけのわからないままわけのわからない所でわけのわからない扱いを受けたり、滑稽が転じて不気味に見えるロボットに襲われたり、贅沢なことを言えば単純な生活の質だったり。誰が何と言おうと二度としたくない事ばかりだ。

 ロカはさらに深く俯いてしまったが構わず続ける。

「けど、ロカと一緒にいる時は楽しかったな。いつの間にか一緒にいるのが当たり前になってて。言葉を教えてもらった時から、毎日二人で食べ物を探しに行くのも、あとは奥…お母さんの手伝いとか。思い出したらきりがないけど……ロカと会えて本当によかった」

 ひたすら一人で喋ってると実はロカは俺の話なんか全然聞いてないんじゃないかと不安になる。しかし、伝えておきたいことは言えた、はずだ。

「なんで今なの? こんな時に、急すぎるよ……もう、会えないの?」

 やっと顔を上げてくれたロカの質問に、すぐに答えることができなかった。俺は結局最後までこの世界に来た経緯とか原因とか、詳細を知ることは無かったのだ。帰ることができれば何でもいい、余計な詮索をして疑われるのは嫌だ。身も心も弱者である俺は、何もすることができなかった。そしれそれは今も変わらない。

 つい院長を見てしまうが、静かに首を振って否定を示していた。

「わからないけど、たぶんもう会えないし、今じゃなきゃダメだ」

「そんなの、変だよ…やだ、やだよ!」

 ロカは瞳にいっぱいの涙をあふれさせ、俺に縋りついた。

 変だというなら、俺がいることがそもそもおかしかったのだ。場違いにもほどがある、居ても居なくても変わらない俺がなくなることで、元に戻るだけだ。元に戻ったところで何も変化しないし、状況は変わらない。そんな塵のような、ただの不純物がなくなるだけなのだ。

 こんな風に別れを惜しまれることなど、今までの人生にあっただろうか。いや、今後の人生も含め、これが最初で最後になりそうだ。俺を惜しむような人間は、そうそう現れるものではない。

「ロカ…ありが、とう」

 ロカの震える肩に手をのせてしまったせいで、どうやら震えが移ってしまったらしい。それでも何とか言うことができた。何に対しての感謝なのか、自分でもわからないまま。何か続けようとしたものの、これ以上、上手く喋ることができそうになかった。


*


「ばいばい」 「ばいばーい」

 ロカより幼い子供たちは大した感慨も無いのかよくわかっていないのか、あっさりとしたものだった。

「元気でね、ちゃとご飯たべて、よく寝るのよ。でもユウちゃんはちょっと寝すぎだから、程々にね」

 奥さんは優しく手を握ってと相変わらずの子ども扱いだったが、背を向けた後すすり泣く声が聞こえてきた。子ども扱いは子ども扱いでも、奥さんはいつも俺や他の子供たちもまるで自分の子供のように接してくれていたことを、今更ながら実感した。

 奥さんや子供たちとも別れを済ませた頃、見計らったようにヴァンがやって来た。

「じゃあみんな、元気で」

 手を振るロカたちに見送られながら、今自分が言った言葉に疑問を覚えた。こんな状況で元気でも何もあるはずがない。事態は何も好転していないのだ。街はトロルに溢れ、安全な場所は遠く、ここには何もない。そんなどん詰まりに思えるような状況で一人こそこそ逃げ出しておいて、何を言っているのか。

「行くぞ」

 そんな思考は淡々としたヴァンの言葉に遮られた。黙って頷きを返した。

 座り込む人々の間を通り抜けながら、ふと久しく見ていなかった顔を見つけた。いや、本当は探していた。やっと見つけた。ついに、見つけてしまった。

「少し、待ってくれ」

「すぐに済ませろよ」

 振り返ったヴァンは、俺の視線の先を察してあっさりと了承してくれた。

 名前は確か、フィン。ヘルマとよく一緒にいた子供の一人だ。そして、フォルフの息子。寄り添って座っている女性が、おそらくフォルフの奥さんだろう。うなだれて、とてもやつれて見えた。フィンは最近見かけなかったが、父親を亡くし、母親もこの状態ではとても外に出る気力は無かったのだろう。

 フィンは近づいてくる俺に、はっきりとした警戒の目を向けてきた。あの日のことを俺は院長たちに話して、それ以外何もしなかった。この親子にどのように伝わっているのかも知らない。

「フォルフさんの、家族の方ですよね」

「え…ええ。あの、何か」

 彼女は突然知らない男にフォルフの名前を出され、困惑していた。まずは俺のことを説明しようと口を開きかけたところで、フィンがそれを遮った。

「こいつだよ。こいつとヘルマのせいで父さんは!」

「やめなさい。すみません、その、あなたが?」

 彼女は突然立ち上がったフィンを宥めながらも、フィンの言った言葉で俺のことを察したようだった。立ち上がって固い表情でこちらを見ている。この親子からすればフィンの言った通り、父親が死んだのは俺たちのせいということになるだろう。今更のこのこ現れて何のつもりだと思われても仕方がない。

「フォルフさんに助けられました。ユウと言います」

 今まで考えないようにして、後回しにしてきた。この後もどんな罵詈雑言を言われるか考えると逃げ出してしまいたい。しかしもうこれが最後の機会なのだ。

「それで、いったい何の用ですか

「遅くなってすみません。フォルフさんから言伝を預かってます。

「…あの人が? 教えて、くれますか」

 俺はあの時のフォルフの言葉を思い出し、間違いなく答えた。

「約束を破ってすまない。と」

 それだけで二人には伝わったようだ。彼女はフィンを抱きしめ、泣き崩れた。フィンも嗚咽を上げている。

 どんな約束だったのか俺にはわからない。だけどきっと、生きて帰るとかそんなのではなくて、帰ったら一緒に何かして遊ぶとか、そんなありふれた約束だったのではないかと思う。

 贖罪になど到底ならないが、伝えておかなければならなかった。あの言葉を聞いたのは俺だけだ。誰かが代わりにやってくれる余地などない、フォルフが最後に俺に託した言葉だったのだ。命を救われておいて、こんな些細な事すらできないのなら、いくら恥知らずな俺でも自分を許せない。

 やがて彼女は涙を拭いて立ち上がった。何を言われるのだろうか。恐ろしく思いながら待っていると、彼女は小さくお辞儀をした。

「教えてくれてありがとうございます。でも、これ以上ここにいられると酷いことを言ってしまいそうだから、ごめんなさい」

 どんなことを言われても聞くつもりでいた。しかし彼女は、責めもそしりもせず、ただこの場から居なくなって欲しいと言ったのだ。俺は頭を下げて、あっさりと踵を返し立ち去った。内心では、安堵していた。

 あの親子が本当にフォルフの最期の言葉を聞きたかったのかどうかは分からない。傷を抉ることになっただけかもしれない。それでも俺は言っておきたかった。あのまま何もせずに自分の中で渦巻いていることに俺が耐えられなかった。ただ、それだけなのだ。

「悪い。もう大丈夫だ」

「そうか」

 待たせていたヴァンは、それだけ言って歩き出した。

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