16話
トロルの群れ。そのヴァンの言葉の意味が一瞬理解できなかった。いや、できなかったというよりは、したくなかった。しかしすぐにそれが本当だという事実を突きつけられた。
「…っ! 動くな」
ヴァンのその言葉とほとんど同時に放たれた黒光の槍が俺のすぐ横を駆け抜け、そのまま後ろにいる何かへ突き刺さった。遅れてそちらを見れば、薄闇に浮かび上がったのは槍で貫かれ、崩れ落ちるトロルの姿だった。ほんの少し前に自分もああなる可能性があったことを思い出してぞっとした。やはり後で文句の一つも言わせてもらおう。
「なんでいきなり、こんなことに」
「お母さんたちは……皆は大丈夫なの!?」
「逃げ遅れていなければ、西の丘に集まっているはずだ。悪いがこれ以上説明している時間は無い。ついてこい」
ヴァンの言い方では、逃げ遅れた人もいるということだろう。ロカの表情はみるみる青ざめていき、冷たく震える手で俺の服の裾をつかんだ。頼られるのは誇らしいが、この状況で俺という存在は最も頼りない部類の人間だ。情けないことではあるが、事実だ。幸いにも最も頼りある存在である魔導士のヴァンがこの場にいるのが救いである。存分に頼らせてもらおう。
ひとまずは街を出て、西の丘とやらに向かうべきだろう。ヴァンがいれば何も問題はないはずだ。
ロカの手を引き、どこか焦りを感じさせるヴァンの後ろについて歩きだしたところで方向がおかしいことに気づいた。
「なあ、街を出るんじゃないのか? こっちは逆方向だろ」
足を止めないヴァンは一度こちらを振り返ると、吐き捨てる様に呟いた。
「ヘルマがまだ、戻ってないんだ」
俺もロカも、少なからず動揺した。改めて周りを見渡すと、薄暗い街のあちこちに首のない大柄な人型の影が見え隠れしている。それなのに悲鳴の一つも聞こえない。ここで何が起こったにせよ、もうとっくに終わった後だということだ。戻っていないということは、もう……。
「そんな……ヘルマが?」
「どこにいるか分かってるのか?」
「分かってたらとっくに見つけている!」
苛立ちを隠しきれないヴァンの背中を見ていると、とてもこれ以上声をかける気にはなれなかった。かけたところで俺から出てくる言葉など、入れ違いでもう避難しているのでは、だとか確認のために一度避難場所まで戻った方がいいんじゃないか、だとか、そんな神経を逆なですることが分かり切った言葉しか出てこないだろう。失言が飛び出してくる前に、ロカを見た。
「ロカは、ヘルマの行きそうなところに心当たりはないのか?」
「わからないよ。パールならわかるかもしれないけど、きっと今日も一緒に……もしかしたら、あそこかも」
なにやら思い当たることがあったらしい。パールというのはヘルマとよく一緒にいた女の子だ。いつも一緒に遊んでいる印象があるので、ロカの言う通り今日も一緒にいる可能性は高い。ロカの言葉を聞いて、先行して歩くヴァンがすぐさま振り返った。
「行くぞ。案内してくれ」
*
ロカの案内でやって来たのは、広場を抜けて北側にある見晴らしのいい並木道だった。見晴らしがいいから街の各所にある灯台のいくつかが、よく見える。一番近い灯台の先端は、トロルの縄張りの証がしっかりと付けられていた。
ここにやってくるまでに時間はほとんどかかっていない。ロカに場所を聞いたヴァンは、あろうことかトロルが跋扈する街の中で、道のど真ん中を通ってまっすぐに進んだのだ。離れないよう後ろをついていくこちらは気が気ではなかった。ところがトロルは襲ってくるどころか、むしろ避けているほどだった。時折襲い掛かってくるトロルはいたものの、ヴァンは露を払うかの如く、一瞬にして返り討ちにしていた。こうなることが分かっているから、トロルは魔導士を避けるのだろう。
「パールはよくこの辺で絵をかいてるんだ。ほら、あそ…この…」
ロカは最後まで言い終わる前に言葉をなくし、指を震わせた。
ロカが指さした場所は、道の先にある休憩場所だった。ベンチが並ぶその場所は、普段であれば通りかかった人が休んだりしているのだろう。しかし今そこにいたのは、何かを取り囲むように群がる何体ものトロルだった。囲まれているのは、白い光の壁だった。離れていても暗い中で光るそれはよく見えた。しかしその奥までは、ここからでは見ることができない。しかしそれが何かなど、考えるまでもない。
ヴァンはそれを見るや否や、一切の躊躇なく走った。
「ヘルマ!!」
叫ぶヴァンの周りに、黒い光の粒がどこからともなく集まりだした。それは渦巻くように右手に集約されていく。やがて黒い光は雷を思わせる姿で力を迸らせた。ヴァンはそれを押し出す様に群れへ向けた。
解放された黒雷は縦横無尽に空中を駆け巡り、次々と敵に食らいつくように伝染した。暗い闇の中を大量の火花が弾け、眩しさに思わず目を閉じた。
一瞬にしてすべてのトロルが黒焦げとなってその場に倒れていった。改めて魔導士の力の一端を垣間見て、ヴァンと合流できて良かったと思う反面、同じ人間とは思えない一抹の恐ろしさも感じる。
虫を踏み潰すようにあっさりと群れを倒したヴァンは、すぐさま光の壁へ駆け寄った。そこにいたのは壁面の隅に身を寄せて縮こまるヘルマだった。ヴァンがそばに来たからか、弱弱しい光は安心したように消えていった。
ふらつくヘルマをヴァンは慌てて支えた。しかしその顔は厳しく、責めるようなものだった。
「お前、どうしてこんなところで!」
しかしヴァンは、ヘルマの後ろにもう一人子供がいることに気づいて途中で口をつぐんだ。そこにいたのはヘルマに縋りついて震えるパールだ。
「兄ちゃん。よかった、俺…」
ヘルマは、弱弱しい声でありながらも、やり切った顔だった。それを見て、ヴァンは少し柔らかい表情でヘルマの頭を撫でた。
「そうか、よく頑張ったな。ヘルマ」
そのヴァンの言葉を聞いて、ヘルマは満足げな顔で気を失った。ヘルマはずっと光の壁でパールを守り続けていたのだろう。それがどれほどヘルマの負担になっていたのかはわからないが、限界があることは知っている。
「パールは大丈夫? 怪我してない?」
「ロカ、それよりヘルマが! ヘルマがぁ! …いたっ!」
「足腫れてる! 動かさないで」
ヘルマならああなる前に自力で逃げることくらいできるのではないかと思っていたが、どうやらパールが歩ける状態ではなかったらしい。だからヘルマはここから動かずに、耐えることを選んだのだろう。誰かが、ヴァンが助けに来てくれるまで。確実に自分が生きる選択肢を捨ててまで。怖く、無かったのだろうか。自分だけでも逃げたいとは、思わなかったのだろうか。
「ヘルマは大丈夫なのか?」
「寝ているだけだ。安心しろ」
「そうか。それで、早速で悪いんだけど、このまま西の丘まで行くのか?」
ヴァンは視線を外して、一度ここにいる面子の様子を見た。意識のないヘルマ、足を痛めたパール、天使のロカ、そして役立たずの俺。1人でこの面子の面倒を見るのは、ヴァンがいくら強いとはいえ厳しいのかもしれない。それでももしかしたらヴァンなら、そんな甘い期待をしてみたが、帰ってきた答えは一度どこかで休むという、ごく当然のものだった。
*
「見たままだ。他と同じように、ここも突然襲われた」
俺とロカが外にいる間に一体何があったのか。それをヴァンに確かめた結果帰ってきた答えがそれだった。
今いる場所は並木道を抜けてすぐの所に建っていた酒場か何かの飲食店だ。一晩か、最低でもヘルマが目を覚ますまではどこかで休むということになり、手近なこの場所を間借りしていた。ついでに残されていた食べ物も有難く拝借した。
「魔導士がいても、追い返せなかったのか」
先ほどのヴァンの活躍を見た後だと、単純にそんな疑問が浮かんだ。
テーブルを挟んで座るヴァンの顔からは、諦めに近いものが感じられた。棚から勝手に取り出してきた酒をグラスに注いでいる姿は、ついさっき化け物を一網打尽にした姿とは似ても似つかない。ヘルマを助けたことで緊張の糸が緩んだのだろう。
「前に、お前も見ただろ。数が多ければ限界はある。無限に沸いてくる奴らを相手に、数人しかいない俺たちだけで全てを守り切るのは、無理だ。飲むか?」
ヴァンが寄こしてきたグラスには、茶色っぽい液体がなみなみと注がれていた。何の酒か知らないが、化けロボットが外をうろつく状況で、こんなに飲めるはずがないだろう。ただでさえ俺は酒に弱いのだ。
「そもそもなんでこんな危ない街にいつまでもいたんだよ。すぐ逃げればいいのに」
「逃げられる奴は逃げたさ。残ったのは長い移動に耐えられない老人や怪我人、その家族。あとは、身寄りのない子供だ」
言われてみて気づいた。ここで会った人の多くは老人や子供ばかりだった。つまり、ここにいたのは逃げ遅れた人たちだったということか。
「助けは来ないのか? その、逃げた先の街にいる他の魔導士とかが」
「魔導士の数は少ない。自分たちの守る領域を出てくるはずがないだろ」
「それじゃあこれから、どうするんだよ…」
その質問に、ヴァンは答えなかった。助けは来ず、住む場所を奪われ、別の土地に移住する体力もない。西の丘とやらもおそらく何もない本当にただの丘だろう。ここを逃げ切ったとしても、その先が全く見えなかった。
絶望的な状況下にあったことを今更ながらに知り、一度は打ちひしがれたものの、今のこの状況とあまりに乖離しすぎているせいかあまり実感が湧いてこなかった。
状況とは、男二人がすることも無くテーブルを挟んで、酒を飲んでいるまさにいまこの状況だ。
店の中は静かで、子供3人は二階に寝かせている。外にトロルは闊歩しているだろうが、ここにはそれを一瞬で屠れるヴァンがいる。よほどのことがない限りは安全と言えるだろう。
であるならば、なぜこんな夜更けに俺はロカたちに続いて床に就いていないのか。それはタイミングを逸したからに他ならない。見張りをするために起きているヴァンと同じテーブルに着いたが最後、酒が入ったせいかいつもより饒舌なヴァンの愚痴を延々と聞かされる羽目になったのである。俺たちの安全がヴァンに懸かっている以上、多少のはけ口になることはやぶさかではない。しかしながら本音を言えば、眠かった。
老師たちが繰り広げる一向に話が進まない無駄な会議の話をひとしきり聞かされた後、ヴァンはこちらを睨んだ。まずい、適当に相槌を打っていたのがばれただろうか。
「正直に答えろよ。お前、どうやってここに来たんだ?」
酒の飲みすぎで記憶が飛んだのかと疑ったが、そうではないだろう。ヴァンは愚痴を吐いていた時とは打って変わって、真剣な表情だった。聞きたいのは、俺がどうやってこの世界に来たのかということだろう。以前院長たちにも同じことを聞かれた覚えがあるが、知りたいのはこちらの方である。
「どうって言われても、俺が知りたいくらいだ。気づいたら、いや、転んだらいつの間にか老師の爺さんたちの前にいた」
「よし、分かった」
「分かったって、何が」
「いや、頭の固いジジイどもが渋ってるが、院長はお前を帰すつもりでいた。こんなことになってなければ今頃帰れてたかもな」
それではまるで、こんなことになったからもう帰れないともとれる言いぐさではないか。どさくさに紛れてもう帰れませんなんてことになってもらっては困るのだが。切実に。
どうせ他にすることも無いのだ。今こそこの件について子細に問いただすべきではないか。酒の入った今なら口の滑りもいいだろう。そう思い立った矢先、ヴァンが立ち上がった。
「付き合わせて悪かったな。お前も上で寝てくるといい」
そんな甘言ではぐらかそうというのか。しかしながら一日中酷使された我が身は、休息という欲求に抗うすべを持たなかった。なに、話を聞く機会はそのうちまたある。明日に備えて、今日の所は英気を養わせてもらおう。
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