13話
「ユウ君、こっちはダメだ。引き返そう!」
トロルに行く手を阻まれ、先頭を走っていたフォルフが踵を返す。
しかしそれを許さない二本の腕が、フォルフを突き飛ばした。それは、俺の腕だった。
フォルフは不意の出来事に踏みとどまることができず、トロルの足元で転んだ。
「わっ! 何をするんだ」
「俺は悪くない。仕方ないんだ。俺が助かるには、こうするしか」
「助けてくれ! 来るな! ユウ君、早く助け……」
悲鳴を上げるフォルフに背を向けて、俺は走った。
フォルフがいてくれて助かった。おかげで俺はこうして逃げ切ることができたのだから。汗だくになった顔が、醜くゆがんだ。
まっすぐ地下通路を走っていると、光が見えてた。きっと外に違いない。
しかしその光は暗闇の奥で星のように無数に現れ、場を赤く照らした。耳障りな軋みが聞こえる。硬質な足音がいくつも聞こえる。
いつの間にか俺は、無数のトロルに囲まれていた。
「うあああああああ!?」
どうしてこんなことに。絶叫を上げながら考える。
しかしそれさえも許さぬと所狭しと肩を並べたトロルたちの手が、俺に向かって延びてーー
目を開くと暗い天井が見えた。窓から光はほとんど差し込んでいない。まだ夜明け前らしい。
体を起こし浅い呼吸をゆっくりと整える。毛布は汗で濡れでいて気持ちが悪い。ぼんやりと部屋の中を眺めると院長の預かる子供たちが寝息を立てていた。
今のはただの夢だ。夢の中でも最悪の部類の悪夢だ。誰よりも遅くまで寝ていることに定評のある俺を、こんな空が白んだばかりの時間に叩き起こすなどおよそ許されることではない。
断固とした意思を見せるため、俺はもう一度毛布をかぶり睡魔を召喚しようと試みた。しかしながら、睡魔はその要請をあっさりと突っぱねると、あっさりとどこかへ消えてしまった。せめてもの抵抗として、俺はその後も狸寝入りを決め込んだ。
*
トロルと初めて遭遇した、あの最悪の一日から何日か経った。避難してきた住人は幾らでもある空き家を間借りして生活し、人が増えたことでこのあたりは随分と街らしい雰囲気を感じさせるようになっていた。
あれ以来俺は無茶な仕事を要求されることも無く平穏に生活している。しかし全てが丸く収まったかというとそうでもない。
「今日はもう少し遠くまで行ってみよう」
「昨日もそう言っていつもより遠くまで行ったじゃないか。あんまり離れると危ないだろ」
「集めても集めてもすぐ無くなっちゃうし、人が増えてみんな近くの物は取りつくしちゃってるんだから仕方ないよ」
院長宅のテーブルで固いパンを齧りながら、ロカと今日行く場所を話し合っていた。
今までは人数が少なかったこともあり、食糧にそれほど困ることは無かった。しかし一気に人が増えたことで明日の夕飯すら定かではないという状況にまで陥ってしまった。実際は寺院がある程度管理しているので院長宅の食事がいきなりなくなるということは無いが、そのくらい深刻な状況だった。最初は人が増えて楽ができるなんて安易に思ったものだが、人手が増えたところで残されている食料には限界がある。こんな環境では食料の生産など、ヘルマの家の小さな農園しかないのだ。
「ロカちゃんもユウちゃんも無茶だけはしないでね」
「はい、それはもう」
俺たちの話が聞こえていたらしく、奥さんが心配そうにこちらを見つめていた。
「大丈夫だから心配しないで、お母さん。皿拭くの手伝うよ」
ロカが奥さんと片づけをしているのを手伝いもせずに眺めた。どうせそのうちロカが俺にも手伝えと言ってくるのだ。それまではサボらせてもらおう。それにしてもこんな俺に比べてロカのなんと健気な事か。本当に天使の生まれ変わりなのか? 降臨してしまったのか?
そんなくだらないことを考えていると、誰かが家に帰ってきた。誰かと思い見てみると、疲れ切った顔の院長が扉を開いていた。
「あら、お話はもう終わったの? 何か食べますか?」
「ありがとう、だけど先に休ませてもらうよ」
そう言って院長は寝室に向かった。昼前という中途半端な時間に帰ってきて、そもそも一体何をしていたのかと思うが、いろいろと決め事や会議があるらしい。昨日も一日中寺院にいたようで、今やっと帰宅してきたのだ。
「ああそうだ、ユウ君。君に客人が来ているから相手をしてやりなさい」
院長は寝室に入る前に、それだけ言い残していった。
俺に客人とは。いったい誰がどのような用件で俺のもとを訪ねてくるというのだろう。疑問に感じながら玄関を見ると、そこには確かに客人が立っていた。
*
装飾された黒衣を纏い、指ぬきグローブを身に着けた男、ヴァンと庭先のベンチ代わりの丸太に肩を並べて座っていた。なぜか年のころは俺と同じくらいの彼の服装を見ていると、なんだか羞恥心が鎌首をもたげ目を覆いたくなるが、それは俺の目が曇っているせいだろう。
「本来ならすぐにでも来るべきだったんだが、あれこれやっているうちに遅れてしまった」
ヴァンとはあの日、逃げている最中にすれ違って以来会っていない。この男は俺がトロルを前にしたときどんな反応をするか確かめるために、俺が襲われているのを黙ってみていたような男だ。印象としては最悪に近い。
一体何を言いに来たのだろうかと身構えていると、ヴァンはそれを見てフッと鼻で笑った。
「そう警戒するな。もう何もしないと言っただろう。俺はお前を危険だとはもう思っていない」
それは、あれだけ情けない姿を目の前でさらせばそう思うのも当然だろう。仮にこのようなみじめな男が何かしようとも簡単に止められるとでも思っているのだろうか。その通りである。
「なんすか。それをわざわざ言うためにきたんすか?」
「いや。まあそれもあるが…歳はさほど変わらないはずだ。変にかしこまった話し方はやめてくれ」
俺の口調がしっくりこなかったヴァンは戸惑っている様子だった。もっと偉そうなやつかと思っていたのだが、意外とそうでもないらしい。
ヴァンは咳ばらいを一つして。仕切りなおす様にこちらを見た。
「ヘルマを救ってくれたこと、礼を言う。本当にありがとう」
そう言うなりヴァンは頭を下げた。今度は俺が戸惑う番だった。
「お、おい。やめてくれ。俺はたまたま居合わせただけで、救ったっていうなら……」
「フォルフのことも聞いた。あんなことになったとはいえ、他にも大勢助けることができなかった。俺たちの責任だ」
悔いる様にヴァンは目を臥せている。しかしあの混乱の中では、できることは限られていただろう。いくら魔導士の力がトロルを圧倒していても、数が違った。そのうえトロルは敵わない魔導士を無視していくのだ。対処するのにも限界がある。しいて言えば事前に察知できていればというところではあったが。
「ヘルマはどうしてる?」
「しばらくふさぎ込んでいたが、ここ数日は友人が外に連れ出してくれている。あいつならじきに立ち直るだろう」
「あいつ、あんたにいいところ見せたかっただけなんだ。もしすぐに誰かに話してればとは、少しは思う。けどそれを知ったのも偶然だし…」
あれからヘルマとも会っていなかった。しかしヴァンの話からして、すべて話したのだろう。なんとなく、ヘルマが責められるようなことにはなってほしくなかった。
「わかってる。勝手についてきたことは叱ったが、それだけだ。あとはあいつの中の問題だろう」
あいつの中の問題。それは、自分で自分を許せるかどうか。そういう意味なのだろうか。
もしそうなら、何を許せばいいのか。何が問題なのか。それが本当に問題なのか。
少なくともヘルマのことは、他人が責めたりすることではないと、そう思う。
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