11話
殊更に警戒に警戒を重ねたものの、橋を渡り切って地下水路に入るまで何事もなくあっさりと進むことができた。ここまでくればもう一安心と、フォルフや周りの人達からも余裕が伺える。俺も数時間前に直面した恐怖から立ち直り、普段通りの知性と理性を取り戻していた。
「俺のおかげでこうして一緒に帰ることができるんだ。お前の手下という話は無かったことにしてもらおうか」
「たまたまいたから声かけてやったんだ! べつにユウは何にもしてないだろ」
「そうか、なら今すぐにお前の兄にお前のことを報告してきてやろう」
「わあああ! やめろ!」
黙っていても気分が沈むだけなので、少々わざとらしいとは思ったがヘルマをおちょくってやる。今の状況は俺に有利というのがとても都合がいい。ヘルマも自分の立場をわきまえて野蛮な暴力に訴えることがない。まさしく怪我の功名というものだ。あれほどの恐怖を味わっておいてこのような大人げない優越感が見返りとは、あまりにも情けない。厳しい現実のバランス調整は一体いつ行われるのだろうか。
それを見てフォルフは愉快そうに笑っている。前を歩く他の人たちも各々、思い思いに会話をしていた。
そんな具合で、俺たちは油断していたのだ。
心細いランタンだけが光源の薄暗い水路で、悲鳴が響いた。悲鳴は反響するように次々と上がり続ける。
安心し始めた矢先である。水路とはいっても道幅はそれなりに広く、住民たちの列は縦にも横にも延びしまっており声の上がった場所はすぐにはわからない。状況もわからないまま不安のざわめきが起こる。
「みんな、一度落ち着いて状況の確認を」
「あ、あれ」
フォルフが宥めようと声を張るが、ざわめきは大きくなる一方だ。そんなとき、ヘルマが震える声でどこかを指さした。つられてそちらを見る。
壁沿いにいた住民たちのすぐ傍に脇道があった。そしてそこから、3本の白い指が伸びていた。その指は飛びつくように住民の一人を掠め取った。捕まった住民は抵抗虚しくズルズルと暗い脇道へと引きずり込まれ、助けを求めながら闇に消えていった。
一瞬だけ、場が静まり返ったように感じた。
何が起こったというのだ。一体全体これはどういうことなのだ。地下は安全ではなかったのか。そのような愚痴と何も変わらないクレームを胸中で思い描いてみたところで返事が返ってくるはずもない。
代わりにこれが答えだと言わんばかりに耳障りな軋みを鳴らして別の通路から現れたのは、薄闇の中でのっぺりとした白い姿を不気味に浮かび上がらせる頭のない家事ロボット。人を獲物のように攫って行く化け物、トロルだった。
先ほどの静けさから一転、パニックを起こした住人たちが悲鳴を上げながら我先にと走り出す。しかし道中に無数にある脇道からトロルが現れるたびに、誰かが引きずり込まれていく。
「まずい。僕たちも急ごう!」
「一度引き返した方が」
そんな腰の引けた意見は答えを待つ間もなく潰えた。すぐ後ろから聞こえた固い足音に振り返ると、後方からも一体のトロルがこちらを見据えていたのだ。
俺たちは集団の中では最後尾に位置していた。つまり、あいつが標的にするのは俺たちだ。ふいに目が合ったような気がした。薄闇に赤く光るそれが目なのかどうかわからないが、そんなことはどちらでも構わない。今問題なのは、俺の足がヘビに睨まれたカエルのように動けなかったことだった。
全身から汗が吹き出し呼吸は浅くなっているのに、足だけが石のように固まって動けない。トロルが間近に迫っているというのに!
トロルの3本しか指のない手が容赦なく迫ってくる。どうしてこんな目に何度も遭わなければならないのだ。一度は背中から、今度は正面から。恐怖に耐えかねた瞼を、ギュッと閉じた。
しかし次の瞬間には訪れるはずだった衝撃の代わりに、俺の横を猛スピードで何かが過ぎ去るような感覚を感じたことで瞼は再び開かれた。目の前では、光の壁に吹き飛ばされたトロルが、大きな音を立てて地面に叩きつけられていた。
隣に立っていたヘルマが、手を前にかざして額に汗を浮かべている。
「走れ!」
ヘルマに救われた。それを理解する間もなく、俺は声に弾かれたように背を向けて走り出した。臆病者、小心者、なんと思われてもかまわない。だって俺が一番足が遅いのだ。遅れて走り出したフォルフには追い付かれ、ヘルマに至ってはあっさり追い抜いていく。
誰もがわき目も振らず一心に前を向いて走っている。その中でも運悪くトロルに捕まってしまった者たちの助けを求める声を無視してひたすらに走る。フォルフでさえ今は足を止めることなく走っている。
魔導士だけは足を止めてトロルを迎え撃とうとしているが、暗く見通しが悪い上に住民たちが入り乱れる中では満足に動けず、全く手が追い付いていなかった。
その中に、トロルを次々と一撃で仕留めていくヴァンの姿があった。通路を崩さないためか、黒く光る槍のようなもので串刺しにしている。
次の敵を倒すため周囲を見渡すヴァンの視線が、近くにいた俺たちを捉えた。俺ではなく、ヘルマを見つけたからだろう。その目は驚きに見開かれていた。
「う、兄ちゃん」
「ヘルマ、お前どうして! …話はあとで聞く。絶対に捕まるな」
ヴァンはヘルマを気にしつつも、振り切るように新たに現れたトロルのもとへ駆けていった。
ヘルマは何か言いたげにしていたが、口をつぐんでヴァンを見送った。こんなことになった時点で隠し通すことは難しかったと思うが、帰ることができたらできるだけ庇ってやろう。
最後尾であったことが功を奏したのか、トロルたちの手は既に空きがないものが殆どだった。あちこちにそのおぞましい姿を現しているトロルだったが、細い脇道を並んで通ることはできない。そうなると自然と数は限られる。奴らの目的は捕まえることだ。手がふさがっている間は、脅威は無いと言える。
不謹慎にもそのことを幸運だと感じている自分がいた。我ながら人として最低だとは思うが、今更である。しかしそんな俺でも、礼くらいは言える。
「ヘルマ、さっきは助かった。おかげで何とかなりそうだ」
少し前を走るヘルマは、こちらを一瞥だけした。
「気にすんな。手下だからな。それにこんなことになったの、俺の…」
何かを言おうとしたヘルマの言葉を最後まで聞く前に、前を見て慌てて足を止めた。
不謹慎な幸運も尽き果てたのか、通路の奥の暗がりから現れた新たなトロルが、俺たちを標的に据えた。
トロルはどんどん迫ってくる。狭く暗い通路では、あの大柄は動きづらいのか動きは鈍い。それでもあちこちに体をぶつけながら着実に距離を詰めて来ているのだ。
「ヘルマ、またさっきの奴であいつを」
「わかってるよ! おらぁ!」
ヘルマはすぐさま光の壁をトロルにぶつけた。しかし光の壁は衝突するや否やすぐに霧散し、トロルは少々怯んだだけで殆ど効果は無かった。
何事もなかったかのように迫ってくるトロルに焦りが募る。そもそもが他人任せで自分は何もしていないというのに自然と荒くなった声が出た。
「おい! 全然効いてないぞっ! 手加減なんかしてる場合じゃ」
咎めるようにそう言って振り返ると、荒い呼吸を繰り返して膝をつくヘルマの姿がった。
「ヘルマくん! 大丈夫かい?」
「このくらい、全然平気…」
全然平気じゃない声でそれだけ絞り出して言うと、そのままヘルマは気を失った。その様子を見て、魔導の力が何の代償もなくいくらでも撃てるものではないことを今更察した。それが体力なのか精神力なのかは分からないが、こうなるのが分かっていたからヴァンはヘルマがついてくることを拒んだのだ。
しかしそうなると、この危機的状況を打開する術がない。
実際の所、ヘルマをあてにしていたのだ。もし何かあってもまたあの力があれば逃げるくらいは簡単だと、そう思っていた。
今、ここには俺たちしかいない。そもそもが最後尾だったのだ。もうこの場所には”不運”にも俺たちの代わりに捕まってくれる人はいない。
俺たちしか、いないのだ。
そこでふと、気を失ったヘルマとそれを心配するフォルフが目に入った。そしてこちらへ向かう一体のトロル。
ひらめきと呼ぶのすらおこがましい、ある種の自明の帰結。
”俺たち”の代わりがいなくても、”俺”の代わりならいるじゃないか。
頭をよぎったあまりにも邪悪な思考をすぐさま振り払った。いくらなんでもそれはない。そんなことをするほど落ちぶれてなどいない。ヘルマはいけ好かないクソガキだが、俺を助けてくれた。その結果こうなっているのだ。フォルフにしても、今日出会ったばかりではあるが、親身に接してくれた。他人の為に行動できる、優しい人だ。
しかしならばどうするというのだ。トロルは既に崩した体勢から立ち直り、狂気じみた動きですぐそこまで迫っている。ここで悠長に思考に沈んでいる時間はもうないのだ。
「ユウ君。トロルはあの一匹だけだ」
「…は、何を」
突然そんなことを口にしたフォルフに対して、なんと返せばいいか解らず戸惑った。こちらに背を向けていたフォルフの表情は伺い知れない。
しかし、続く言葉ですべてを察した。
「一人が捕まれば、あとの二人は助かる」
同じだ。フォルフも同じことを考えていたのだ。
いかに素晴らしい人間であっても、本当に追い詰められたときに優先するのは、やはり何よりもまず自分なのだ。
やがてフォルフは立ち上がり、意を決した顔でこちらを見た。なんだ、何を言うつもりなのだ。いや、フォルフも同じ考えだったのだ。ならば次は誰が犠牲になるかという話になるはずだ。よそ者である俺にその役を押し付けるつもりか。あるいは動けないヘルマに? ありえない、二人は顔なじみに見えた。フォルフからすれば今日会ったばかりの俺の方が優先順位が低いことは明白だ。
ダメだ、フォルフが何か言う前に今すぐ動くべきだ。そうすれば犠牲になるのは必然的に動きの遅い者になる。この場においてその人物は……。
そうなればフォルフにも選択の余地はない。これはあくまで合理的に考えた自然な結論だ。そう、自然なのだ。物事の道理で、自然な結果なのだから誰が悪いということも無い。
一瞬のうちに考え抜いた結論を行動に移すべく、体の重心を動かし始めた。しかしそれは一歩を中途半端に踏み出しただけで中断された。
「もし妻と息子に会ったら、約束を破ってすまないと……」
呟かれた言葉は小さく、最後まで聞き取ることはできなかった。しかしそんな言葉は、この場でフォルフの口から出てくるような言葉ではないはずだ。それではまるで……。
そこまで考えたところで、目の前で起こり始めた光景に思考は止まった。
フォルフが前に出た。そのまま迫るトロルに向かって歩き出す。間もなくトロルとフォルフは接触した。無機質な怪物であるはずのトロルでさえ、目の前で起こった状況に一瞬の躊躇いがあったように俺には映った。
「なにやってんですか! フォルフさん!」
逃げろ。言って然るべきその言葉は、すんでのところで出てこなかった。すでにフォルフはトロルに捕らえられていたのだ。抵抗することさえなく。
獲物を捕らえて満足したのか、トロルは俺たちを無視して通り過ぎていく。突然起きた予想外の出来事に体が動かない。たとえ動いたところで何も変わらないだろう。
「今のうちに、彼を連れて行くんだっ……ユウ君!」
フォルフのその声は、トロルの鳴らす軋みと共にどんどん遠ざかっていく。やがてそれらは聞こえなくなり、今までの出来事が嘘のように通路は静まり返った。
暗い地下水路を、地面に転がる小さなランタンが、ぼんやりと照らしていた。
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