9話
目的地に到着したのは、日が昇り切ったころだった。体感時間ではもう日が傾くほどは歩いたつもりだったが、思ったほどではなかったらしい。鬱屈とした地下にいたせいでもともとさして信頼していない体内時計が狂ったか。それにしても長く感じる。
あれから一度地上に出て、街を貫くように流れる大きな川にかかる大きな橋を渡った。
このあたりは中心街なのか、同じ街の中だというのにロカたちが暮らす場所よりもずっと立派な街並みだった。しかし人の気配は全くないゴーストタウン。しかしそんな些細な違いは橋の向こう側に比べれば楽園に見えた。橋の向こう側の街並みは遠目に見ても荒れ果てていた。焼け落ちた壁、道路を遮る瓦礫、何かを引きずったような跡。橋を渡った際には、さしずめ三途の川でも渡っているような気分になった。こんなところを歩くくらいならあの不潔極まる地下水路の方がまだマシだ。
そんな思いが届いたわけではないだろうが、橋を渡るとすぐにまた地下に潜ることになった。見慣れた景色が帰って来たことに安堵し、奇妙な安心感さえ感じた。
そんな数々の苦難を乗り越えてたどり着いた場所は、看板の立ち並ぶ商店街のような一角だった。もちろん商店街らしい賑わいとは程遠く、人気は一切見られない。目につくのは割れた窓や地面に横たわる看板ばかり。
ここにいるのは俺とフォルフの他には一緒に来た数人の魔導士以外の人たちだけだった。魔導士はここにはいない。
「なんか、暇ですね」
「僕たちはこんなもんだよ。魔導士の人たちが連れ出してきた人たちが来たら迷わないように地下まで案内してあげるだけでいいんだ。ほら、早速来た。行こう」
フォルフが指さした方を見ると、確かに魔導士の一人がボロボロの格好をした人たちを数人引き連れて戻ってきた。魔導士はフォルフに彼らを預けると、すぐにまたどこかへ去っていく。
「大変だったでしょう。さあ、こっちへ」
「私たち、助かったの?」
「ええ、もう大丈夫ですよ」
「……ありがとう」
そんな会話をどこか他人事のように聞き流しながらあたりを見ると、同じように次々と魔導士が住民を連れてきているのが見えた。
「みんな逃げるに逃げられなくてどこかに隠れていたんだろうね」
「隠れてどうにかなるものなんですか?」
「うん、慌てて飛び出すよりはマシだろうね」
「それもそうですね」
フォルフの冗談交じりの返事を聞いて、どこか弛緩した空気を感じながら目的もなくあたりを眺めていると、ふと気になるものが視界に入った。遠目にしか見えないが、特に飾り気のない塔、というよりは灯台か。もしそうなら特に目を惹くようなものではないが、街灯ならともかく、街の中に灯台など必要だろうか。
「あれって何ですか?」
「うん?ああ、あれは灯台だよ?」
「やっぱり灯台なんですね。それにしては上の方にごてごて何かついてませか?」
「あれはね、トロルが来ると、灯台はみんなあんな風にされちゃうんだよ。忌々しい。ああでも、ああなった灯台の見える所にしか連中は出てこないから、灯台があったら注意して見ておくといい」
動物がにおいをつけて縄張りを主張するように、さしずめマーキングのようなものだろうか。灯台には近づかないようにしよう。
他に何か話のタネになりそうなものが無いか探していると、遠くの方で小さく悲鳴のようなものが聞こえた。聞き間違いかと思ったがいまだに声は上がり続けている。一人二人ではない、かなりの人数のものだ。かすかに地鳴りのような音も聞こえてきた。他にも時折何かがぶつかる様な音も響いてくる。それらの音はどんどん大きくなっていき、やがて物音一つしなかった街を覆いつくした。
「走れ! 急ぐんだ!」
「地下へ連れて行ってくれ! 早く!」
何が起きているのか理解するまでに時間がかかった。その間に大通りは悲鳴を上げながらなりふり構わず走っていく人たちでごった返しになっている。ゆるくカーブした大通りの先からは次々と人波が押し寄せる。まるでパニック映画のワンシーンのような光景だった。
やがて人波が途切れ始め、今度は後方を絶えず確認しながら向かってくる魔導士たちが現れた。ヘルマが使っていた魔導の力など比べ物ならないほどのエネルギーを感じさせる黒い炎を次々と何かへ向けて放っている。その中にはヴァンの姿もあった。
そうして魔導士たちが少しずつ後退する中、また新たな人波が見え始めた。いや、人ではない。人の形に近いが、絶対にあれは人ではありえなかった。ロカから聞いたところによるところの 「耳障りな音を軋ませる鎧を着て、頭が体に埋まっている、大柄なやつ」 まさにその通りの存在が、大通りの向こう側を埋め尽くさんばかりの勢いで無数に現れた。
「ユウくん! 何やってるんだ、早くこっちへ」
フォルフに手を引かれ、走りながらも後ろから目は離せなかった。魔導士たちが黒い炎を飛ばすたびにトロルは消し飛んでいく。しかし次のトロルが現れ前へ進み、少しづつではあるがこちらに近づいてきていた。
「なんなんだ、あれ」
「なにって、あれがトロルだよ! とぼけてる場合じゃないだろ、しっかりするんだ」
トロル。あれがトロル? 俺の想像ではもっと、例えば中世のフルアーマーのような、そんな姿を想像していたのだ。確かにあれはに頭という頭は無く、鎧といえば鎧かもしれない。しかしあれは俺の常識に照らし合わせれば全然違うものに映った。一番近いものでいえばそれはーー
「わっ、フォルフさん?」
「まずいよ、やっぱりこんなに人がいたらそうなるよね」
突然立ち止まったフォルフの背中にそのままぶつかり前を見ると、彼の言葉の意味をすぐに理解した。つまり、渋滞しているのである。
地下水路に続く通路など、大人数が同時に通ることなど想定していない。百人は居るこの状況で全員が中に逃げ込むまでには相応の時間がかかる。
誰もかれもが焦った表情で前を急かしていた。ふと後ろを見ると、後方からは続々と人が押し寄せてくる。さらに奥、魔導士たちがトロルを食い止めている場所で、状況の変化があった。
魔導士の間を、トロルが抜けてきている。
魔導士たちとトロルの力の差は歴然で、そのぶつかり合いは戦いというには少々歪だった。魔導士がトロルを攻撃するのに対して、トロルの方はこれと言った攻撃をしていない。ただ前へ前へと進んでくる。そのせいで打ち漏らしが生まれてしまっていた。
そうして魔導士の攻撃を振り切ったトロルたちは、手足がへし折れていようが構わず進んでくる。マリオネットのような、生物として不自然な動作で素早く動くさまは不気味という他ない。
やがてトロルは逃げ惑う人の最後方に追いついてしまった。最初の一人が捕まった。その女性は耳をつんざく悲鳴を上げ、必死にもがくが、人間より一回りは大きいトロルにあっけなく捕えられた。そしてトロルは突然方向転換し、捕らえた女性を連れて細い路地の中へ消えていった。トロルの体から上がる軋む音が、喜びに笑っているように聞こえた。
それからは次々と後ろからとらえられ、路地に消えて、悲鳴が遠のいていく。中には強力すぎる腕の力でそのまま潰されたり、無理やり引っ張ったことで手足があらぬ方向へ曲がっている人もいた。しかしトロルはそんな、捕まえた人間のことなどお構いなしにどこかへと攫って行く。
目的はあくまで人なのだ。魔導士はトロルにとってただの障害でしかない。無視して進んでしまえばいいのだ。獲物はすぐそこにいるのだから。
もし捕まったら、どうなるんだ?
「フォルフさん、早く逃げないと」
「落ち着くんだ、ユウ君」
落ち着いて何の意味がある? この状況でできることなんて今すぐここを離れることだけだ。それなのに、こいつらは。
「いつまでもたついてるんだ! 早く進めよ!」
頭のどこかでは自分がパニックに陥っているということがなんとなくわかっていた。しかしそれがわかったところでどうしようもないからパニックなのだ。だから冷静さを取り戻すためにも今すぐここを離れないと。だってもう、奴らはすぐ目の前まで来ているのだから。余計なことを考える余裕は、もうなかった。
ここにいても仕方ない。別の逃げ道を探すんだ。
「どこへ行くんだ。待つんだ、ユウ君!」
大丈夫、ここでじっとしているよりはマシだ。すぐそこの路地に入って、後は、それから考えよう。そう考えてまっすぐに走り出す。そしてすぐに目的の路地へと入る。それで逃げられるんだ。
しかしその寸前で、何かに首根っこをつかまれた。振り返ることすらできない。ただ、冷たい金属の感触だけ感じた。そのまま釣り上げる様に持ち上げられる。必死にもがくがびくともしない。苦しい。痛い。死にたくない。
「いっ…あ…」
そんな言葉にもならない呻きを上げるしかできないでいた俺のすぐそばで轟音が響いた。
その直後、首の拘束が解放され、無様に地面に衝突した。むせながら振り返ると、残骸と化したトロルと、その傍らに立ってこちらを見下ろすヴァンの姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます