8話
とうとう夜が明けてしまった。ただでさえ普段から人の少ない通りはより一層閑散としている。それに加えて朝もやで視界が悪いせいでまるでゴーストタウンに迷い込んでしまったようにすら感じられる。朝の冷え込みだけではない寒々しさに身震いした。
昨晩は漠然とした不安感からか、いつの間にか眠ってしまうまで眠ることができなかった。睡眠不足の為か、あるいはほかの要因か、体調はすこぶる悪い。患部は主に我が繊細なる精神だ。ロカから見送りという応急処置を施されていなければ重苦しい体は一歩たりとも歩くことを拒んでいたことだろう。
「気を付けて、絶対帰ってきてね」
そのロカの言葉だけが今の俺にとっての心の支えだった。もちろん帰ってくるとも。気持ちの上ではそれにとどまらずそもそもどこにも行かないとまで言いたい所存だ。
まだ日も登りきらぬうちからやってきた迎えの魔導士に連れられて寺院へ向かう。こんな日は俺の体調を反映して空もどんよりと曇っていてもいいものだが、いつも通りの朝晴れだった。そういえばここに来てから一度も雨が降っているのを見ていない。降られると移動が面倒になるので天気が良いのは結構なことだ。
寺院の前には既に魔導士たちが集まっていた。整列などはしていないものの、皆静かに待機していて独特の秩序を感じる。
この集団に一般人である俺が合流するというのはぽつんと一人異物がまぎれ込んだようなものだが、迎えの魔導士に渡されていたローブを着ているおかげで見た目の上では何の違和感もなく集団に溶け込んでいる。時折痛い視線を感じなくもないが、気のせいだ。彼らは見えないものを見ているに違いない。
やがて寺院の中からヴァンが現れた。目の前の魔導士たちを見渡し、最後にこちらを一瞥してから厳かに口を開いた。
「出発だ」
その一言が合図になり、魔導士たちは歩き出した。その流れに逆らわぬようについていく。
これほどまで気分が優れないのはもちろん言って憚ることのない理由があった。普段から外に出たくないというのはその通りだが、今回に限っては違う。
これから向かうのはどこかも知れないまま、ただ危険があるとだけわかっている場所なのだ。俺にとってこの集団はそこへ導くハーメルンの笛吹き男か、そうでなければ屠殺場行きのトラックだ。そんな得体のしれない不安の塊のようなものを抱えていれば不安にもなろうというものである。ここには知らないことを教えてくれるロカも、何かと味方に付いてくれる院長もいないのだ。
「なんで俺は連れてってくれないんだよ、兄ちゃん!」
まだ歩き始めて間もない中でそんな声が先頭集団から聞こえてきた。声の方を見るとそこにはヴァンに縋りつくヘルマの姿があった。弟のわがままに悩まされているようだ。
「今はお前にかまっている時間は…」
「俺だってもう戦える! ユウなんかより俺の方が強いんだ! ユウがよくてなんで俺がダメなんだよ!」
大声で癇癪を起すヘルマの声は後ろにいてもよく聞こえる。それにしてもヘルマ、その意見には俺も完全に賛同する。今すぐこの大役を交代しよう。するべきだ。ヴァンもここはかわいい弟の意見を取り入れるべきではなかろうか。
しかしそんなヘルマの声はヴァンの怒声によってあっさりかき消された。
「ヘルマ! いい加減にしろ。今すぐ家に帰れ」
ヴァンに振り払われたヘルマは、そのまましりもちをついて目を潤ませた。そしてそれ以上何も言うことなく逃げる様に去っていった。
「いてっ!」
「馬鹿野郎!」
すれ違いざまにまったくもって理不尽にも、俺への八つ当たりを残して。
そしてまた動きした集団に大人しくついていく。殴られたわき腹を抑えながら。
*
なんとなく予想していた事ではあるが、移動は基本的に徒歩らしい。そしてその移動に使うのはやはり地下水路だった。自分たちの街だというのにこんなところをこそこそと歩き回るというのは何とも名状しがたい歪曲さを覚える。
このごろ不本意ながら見慣れた地下水路は、汚い、暗い、臭いの三拍子そろった相変わらずの景観だった。苔むした石の地面は気を抜くと転んでしまいそうになる。
「いつまで歩くんだ」
歩けども歩けどもこんな調子では気も滅入ってくる。文句の一つも出るというものだ。もう半日近く歩いているのではないだろうか。普段ロカと出かける時よりもかなりの距離を歩いている。よくもこんな広大な水路を地下に張り巡らせたものだ。
「いま大体半分くらいだね。そろそろ休憩になるだろうから、もう少し頑張ろう」
そう言って俺を励ますのはついさっき知り合った小太りの男、フォルフだ。あまりに長い競歩大会の途中で彼の方から声をかけてきたのだ。魔導士の中にもフレンドリーな人間がいるものだと思ったが、なんとフォルフは魔導士ではないらしい。この集団は魔導士だけで構成されているわけではなく、それに加えて若い男衆が何人か混じっているのだそうだ。
「僕らの仕事は助け出されてきた人たちの誘導だよ」
どこの誰とも知れない人々の為にボランティア活動に勤しむなど俺があの快適な自宅へ帰るために何の役に立つというのだろうか。そんなものここにいる誰かにやってもらえばいいではないか。と、文句を言っても仕方がない。
「それって、危ない事だったりするんですか?」
「うん、いや、僕らがやるのは本当に誘導だけだから、滅多なことにはならないよ」
どこか歯切れの悪い物言いに、不安が残る。
「トロルっていうのが、今から行くところには出てくるんですよね」
「まあね。でもそんなときの為に魔導士の人たちがいるんだから心配ないさ。いくらトロルが恐ろしいと言っても、魔導士にはかなわないからね」
やはり、出るのか。前にロカから話に聞いただけの存在は、俺の中で勝手に大量の尾ひれがついて今では何が何だかわからないおぞましい化け物の姿が脳裏に浮かぶ。
もっと詳しい話を聞こうと思ったが、しかしフォルフは暗い話題を打ち切るように話題を変えた。話題はどれも家内がどうとか息子がどうとか、のろけと親バカで純度百パーセントだった。その流れでフォルフは俺のことを自分の息子から聞いて知っていたということが分かった。おそらくはヘルマのいつもの手下のどちらかだろう。
「それで家内が息子に言ったんだ。父さんみたいになっちゃだめよって! 酷いと思わないかい?」
「はあ、そうですね」
敵意を持たれないというのは嬉しいが、こうも自分の事をべらべらと話されるのもそれはそれで鬱陶しい。それでもこの陰鬱な状況ではフォルフの脂ぎった笑顔から飛び出すのろけ話が一種の清涼剤のように感じるのだから不思議なものである。
まだ何も見ていないのに不安がっても仕方がない。今は彼の心配ないという言葉を信じておこう。
*
ロカは、少しだけ心細かった。
最近はずっとユウが一緒に来てくれてたから、きっとそのせいだ。ついこの間、ユウがやって来るまでは食料の調達なんか一人でも平気だったのに。だけど院長がこれからもっと厳しくなると言っていたから、今のうちに集められるだけ集めておく必要がある。
ここは家からそれほど離れてないから、あいつらは滅多に現れない。それでもその 「滅多に」 はロカにとっては十分に現実味を帯びたものになってしまっている。今でも連れ去られそうになった時のことがたまに頭によぎる。誰もいない街の一角で物音がするたびに反応してしまう。
ほっぺたの傷も、このままなのかな。
そんなことを考えながら、結局なんの問題もなく帰ってきた。そうだよね、べつにユウがいてもいなくてもそんなに変わらないよ。いてもあんまり役に立たないし。
門を通って庭に入ると、玄関の前に自分と同じくらいの見慣れた女の子がちょうど扉をノックしようとしていた。足音で気づいたのか、振り返ってロカだとわかると小さく微笑んだ。だけどすぐに誰かを探す様にきょろきょろしている。
「どうしたの、パール。 今日はヘルマと一緒じゃないの?」
いつもヘルマと一緒にいるパールが、スケッチブックを抱えて困ったように頷いた。
「うん。ロカも見てないの? そっちにいるかと思って来てみたんだけど」
「そういえば今日は見てないかも」
「そっか。今日も約束してたのに」
「また絵を描く約束?」
「うん」
「見てるだけだからヘルマも飽きたんじゃないの?」
「そんなことないもん!」
そう言ってパールは帰っていった。
ヘルマがパールと一緒にいないなんて、風邪でもひいたのかな。ヘルマはいっつも無茶な事ばかり言ってくるから嫌いだけど、ちょっとだけ心配だ。
そういえばユウも朝、いつもよりずっとひどい顔だった。魔導士の人たちと一緒に出掛けたってことは、あいつらがいる所に行くということだ。ユウはちょっと走っただけでもすぐ疲れてしまうくらい弱いから、とても心配だった。
「ユウ、大丈夫かな」
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