3話

 ここに来てから随分と時間がたったように思う。日の光も見えないし食事も決まった時間なのか分からないから正確にはわからないが、最低でも一ヶ月ほどは経っているだろう。

 この場所に突然放り込まれて一時はどうなるかと思ったが、何とか生きている。

「ユウ、食べ物持ってきたよ!」

「ありがとな、ロカ」

 ロカはあれからも頻繁にここに通って俺の言語学習に協力してくれた。おかげで今ではある程度の日常会話はこなせるようになった。人間やればできるものだ。わが人生を振り返ってみても稀に見る快挙である。

いちど子供がここにやって来たことが大人たちにバレた時はもうおしまいかと思ったが、その時もロカが必死にとりなしてくれたおかげで今まで通りここに来ることを許してもらったのだ。全部ロカのおかげである。もしロカがいなければ俺は今でも何もできない無力感に打ちひしがれていたことだろう。

 湿気って固くなったパンもロカが持ってきてくれたのなら銀座の高級店で出されるディナーに勝る。銀座なんて行ったことはないが。

「あ、食べづらいよね。はい」

 さらには手足が縛られている俺の為にこうして食べやすいようにちぎって差し出してくれるのだ。

 ロカは天使である。小汚いスラムのガキなどでは、断じてない。

「そうだ、院長たちが今度話聞いてくれるって言ってたよ」

「本当か! ロカ、ありがとう……!」

「うぇえ、大げさだよ。話を聞くだけだって言ってたし」

「話だけ、か。それだけでこんなに喜べる日が来るなんて俺も思わなかったよ」


*


重々しい空気を感じていた。

その原因は椅子に腰をかけてこちらを見下ろすいつかの老人たちの視線によるものだ。俺は手を縛られたまま対面するように配置されて椅子に座らされている。個室に入れられて5人の老人たちからの鋭い視線を一心に浴びるという、さながら圧迫面接を受けている気分を味わっていた。固い地面での生活で久しく感じることのなかった座り心地の良さだけが唯一の救いだ。

 ここでは皆ホームレスのような暮らしをしているのかと思っていたのだが、違ったらしい。今いる部屋は古びているもののしっかりと調度品が整えられているし、ここに連れてこられる途中もレンガ造りの立派な家々が軒を連ねていた。人通りは少なく、独特な幾何学模様があしらわれた民族的な印象を受ける服装の人たちが散見できる。ロカも似たような服を着ているのでここでは一般的な身なりなのだろう。全体の雰囲気としては、行ったことも無い伝統的なヨーロッパの街並みを連想させた。

 家があるならあんな水路に放り込むのではなくもう少しましな扱いはできなかったのかと言いたい気持ちはあるが、そんな要求をするためにここまで来たのではない。

 ロカとの交流を通してここの人たちが悪い人たちではないことはわかっている。俺を拘束しているのはおそらく何かの誤解があったからに違いない。それをなんとか解いてもらうのだ。

 ここにきてからまだ誰も一言も声を上げていない。なぜか老人たちは俺を警戒するように様子をうかがっているのだ。誰がどう見ても無力な青年にそこまで警戒心を抱くのは慎重すぎないだろうか。

 やがて一番端に座っている老人が咳ばらいを一つして切り出した。

「ユウと言ったかな。私はサーガだ。よろしくね」

「よろしくお願いします。ユウと言います」

「ロカから聞いてはいたけど、言葉は通じるようだね。安心したよ」

 たどたどしさはあるけどね。とサーガは笑った。彼からはそれほど悪印象は持たれていないのかもしれない。

「さて、まずは何の目的でここへやって来たか説明してもらえるかな」

「誤解があるようなので先に言わせてください。俺はここに来たくて来たわけじゃありません。気が付いたらここにいて、自分でも何が何だかわかっていないんです。だから目的と言われても、ただ元居た場所に帰りたいだけです」

「どうやって来たのか、それもわからない?」

 わかるわけがない。ここに来る前の最後の記憶は足を滑らせたということだけだ。あれが原因なら世界中で失踪事件が多発してしまう。当然のごとく首肯した。

「ということらしいけど、皆さんはどう思う?私としては帰りたいというなら帰ってもらってもいいと思うけど」

 そういってサーガはほかの老人たちを見た。意見を求められた老人たちの反応は悪かった。こんな怪しいやつの言葉を信じられるわけがない、帰らせるなど危険すぎる、等々。やはりあっさりと都合よくはいかないらしい。

 しかし彼らの口ぶりを見るに、俺が帰る方法を知っている節がある。それなら最悪の事態、誰も何も知らなくて帰る方法なんてないという状況は回避できそうだ。それがわかっただけでもこの話し合いには意味があったと今は思うしかない。

 いつの間にか話題は俺をどう扱うかという話に切り替わっていた。

「また水路に放り込んでおけばいいだろう」

「何かしでかす前に始末しておくべきだと言っておろうに」

「しかしなあ…」

 最初に合ったときもこんな物騒な会話をしていたのだろうか。前はわけもわからず眺めることしかできなかったが、言葉が通じる今なら交渉の余地があるはずだ。何としても待遇の改善を勝ち取らなければならない。

「絶対に怪しいことはしないと約束します。何かできることがあるならそれも、だから水路だけはやめてください。せめて人並みの環境を!」

「口先だけなら何とでもいえる。もういい、連れていけ」

 必死の懇願もむなしく一蹴されてしまった。まずい、このままではまたあのドブネズミのような生活に逆戻りだ。話を打ち切るように老人たちは席から離れだした。

 そんな中でただ一人サーガだけは仕方なさげな顔をしてこちらを見た。

「まあまあ、彼も悪い子じゃなさそうだしここは私が預かりましょう」


*


「ユウー!遅いよ」

「お前が、早いん、だよ!」

「ユウって全然体力ないね」

 ロカに連れられて息も切れ切れになりながらやって来たのは一軒の家だった。

 サーガに引き取られることになった俺はしばらくの間、ロカについていってその手伝いをするということになった。どうやらサーガは孤児院のようなことをやっており、身寄りのない子供を預かっているらしい。ロカもその一人だ。なぜか俺もその一人になってしまった。それに伴い今後はサーガを院長と呼ぶことになった。

 院長が責任を持つということで手足の拘束もなくなった。自由な手足のありがたみを思い出させてくれた対価として手伝いの一つや二つこなして見せることに否はない。意気込んで臨んだロカの手伝いは、始まる前から満身創痍だった。

 目的地である家屋に向かうだけで相当な距離があった上にロカはあろうことか走って移動するのだ。見失わないようについていくのに精いっぱいだった。

 外に出る前に靴を貰っておいてよかった。この世界の靴は何かの革を重ねて作ったブーツのような履物で、履き心地はそれほど悪くはない。寒い地下で裸足で過ごしていたことを思うと、靴というものがいかに素晴らしいものか実感させられる。

 息を整えながらロカについていくように家の中に入ると、家というよりは小規模な商店らしい内装だった。あいにくとここの店主は不在らしい。商品棚は深夜のコンビニの弁当コーナーのようにスカスカな上、カウンターには薄っすらと埃が積もっていてしばらく使われていないようにも見える。

「手伝いって買い物か?」

「何言ってるの、ユウも食べ物探して」

 ロカは言いながら手近な棚から謎の缶や得体のしれない干物と思しき物を豪快に鞄に放り込んでいく。

「おいおい、そんなに詰め込んで代金はどうするんだ」

「そんなのいいから早く。今のうちに集めておかないといけないんだから」

「いいからって、さすがにそれは…」

 いくら天使と言えども泥棒はよくないんじゃなかろうか。そう思って止めるべきかと思案していると、ロカがぼそりとつぶやくように言った。

「…この辺りはもう住めないから誰も文句は言わないよ」

 住めない?どういうことだろう。やはりここの住人は何か事情があって生活に問題があるのだろうか。移動するときもできる限り水路を使っているようだし、環境的な問題だろうか。

 そんな疑問を確かめるべくロカに声をかけようとした。しかしそのとき、家の外から何かが軋むような音がした。

「隠れて!」

 声を押し殺したロカが言いながら俺を引っ張ってすぐそばのクローゼットに入り込んだ。鬼気迫る顔をしたロカは指を口に当てて音を立てまいと身を潜めている。何が何だかさっぱりわからないがロカが黙れというなら俺は黙ろう。

「風で何か動いただけかも。ちょっと早とちりだったかな。ごめんね、もう平気だよ」

ロカは笑っているがどう見ても平気そうには見えない。物音ひとつであんな風になるのは尋常な反応ではないだろう。

「ロカ、いったい何と勘違いしたんだ?」

「院長先生から何も聞いてないの?」

 不思議そうに首をかしげるロカに俺も首をかしげるしかない。院長からはロカを手伝うようにとしか聞いてないからてっきりロカが説明してくれるのだと思っていたが、ロカは院長が俺に説明したものだと思っていたらしい。

「外はトロルが襲ってくるから、危ないんだよ」

「トロル?」

 詳しく聞いたところ、耳障りな音を軋ませる鎧を着て、頭が体に埋まっている、大柄なやつ、らしい。そんな化け物がいるなんて聞いてないぞ、院長。

「その、トロルに見つからないように暮らしてるってことか」

「うん。今住んでるところはまだ大丈夫だけど、この辺りはもうたくさトロルがいるからダメなんだ」

「襲われたら、どうなるんだ?」

「……わからない。でも院長先生は、もし見つかったら、誰にも見られない所に連れていかれて…殺されるって言ってた」

 そういってロカはそっと自分の頬に手を当てた。最初に見た時からあった怪我の跡がまだ残っている。初めて見た時は喧嘩でもしたのかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。

「あ、ユウも頬っぺた怪我してるよね」

「そんなのあるか?」

 そう言って自分の頬を撫でてみると、確かにそれらしい感触がする。最近は鏡を見る機会などないからすっかり忘れていたが、確かに以前頬を切っていたことを思い出す。

「お揃いだね」

 えへっとはにかむロカはやっぱり天使に違いない。

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