2話

 意識が戻って最初に感じたのは手と足を伝う冷たい感触だった。ざらざらとした石造りの床だ。

 四つん這いの体勢で気を失うことは無いだろうから、気が遠く感じたものの意識を失ったのは一瞬だったのかもしれない。

 しかし、押入れに飛び込んだのに石造りの床とは。普通は木とかフローリングだろう。そんな当然の疑問を抱きながら周囲を見渡した。壁も天井も石造り、まるで祭壇のような場所。そして正面には、見知らぬ数人の男たちがいた。少なくとも、ここは押入れの中ではなさそうだ。

 男たちは皆老人といっても差支えのない年齢に見える。彼らがローブを纏っているせいか、薄暗くじめじめとした空間のせいか、これから怪しい儀式でも始めそうな雰囲気があった。そうなると俺は哀れな生贄のポジションに収まってしまいそうではあるが……しかし彼らの表情を見る限りそういうわけではなさそうだ。明らかに困惑している様子が見て取れる。

 さすがにこの様子だと一人暮らしの男を攫ってきた異常集団というわけではなさそうだ。だとすると知らないうちにいわゆる異世界にでもやってきてしまったのか。あるいはそういう状況の夢でも見ているのか。

 頭はまだ少しぼーっとしていて気分も悪い。というか、まるで風邪でもひいたかのように体がだるい。

「■■■!■■■■■?」

「■■■■」

「■■■■■■■■」

 男たちが何やら会話しているようだが、何を言っているのかはわからない。本当に何かを言ったということしかわからなかった。英語や中国語ではなさそうだ。もしそうなら一部の単語やそれらしい発音でなんとなくわかりそうなものだが、彼らの話す言葉は全く馴染みのないものだった。もちろん日本語であるはずもない。

 身振りから察するに、俺の扱いをどうするか相談しているようだ。

 いったいどんな話をしているのだろう。もてなすか、追い出すか。そんな話なら気楽なものだが、もしも殺すか、拷問するかなんてことを話しているのではないかと考えると気が気ではない。理解できない言語でこちらを横目に繰り広げられる会話は不気味で、恐怖だった。これが夢なら間違いなく悪夢だ。

 

*


 結局彼らの出した結論は、縛って閉じ込めておくというものだった。九死に一生を得たと思ってもいいのだろうか。

 縄で手足を縛られて場所を移されたが、景色はそれほど変わらない。相変わらずの暗い石造りだった。しかし臭いがひどい。下水の臭いだ。どうやらここは地下水路のような場所らしい。

 あれからどれくらい時間がたっただろうか。一晩なんてことはないはずだ。定期的に投げ込まれるパンは食事ということなのだろう。衛生面は大丈夫なのかと言いたくなるが贅沢を言っていられる状況ではない。手足を縛られているせいでまるで芋虫にでもなった気分で地面に落ちたパンにかぶりつく。

 どうしてこんな目に合わなくてはいけないんだ。俺が一体何をした?

 日がな一日惰眠をむさぼり、ゲームをしていただけじゃないか。誰にも迷惑なんてかけていないのにこんな目に遭うなんて理不尽だ。

 夢なら今すぐ醒めてくれ。何度もそう祈ったが、もう認めざるを得ない。これは夢ではないのだ。

 夢でないなら本当に異世界に迷い込んでしまったとでも言うのだろうか。それなら招待状を出す相手を間違えている。俺はあの生活に十分満足していたのだ。もしここが異世界だというのなら来たい奴を招待するべきなのだ。それができないならせめてもっと都合のいい場所に呼んでくれ。これでは野垂れ死ねと言われているのと同じだ。

 これが現実に起きている事件なら、いずれ助けが来るのではないか。一瞬そんな甘い考えも浮かぶが、すぐに無理だと気づく。普段誰とも連絡を取らない俺がいなくなったことにいったい誰が気づくというのか。

 これがどんな場所であるにせよ、誰かが助けてくれるなんて期待するだけ無駄なのだ。

「帰りたい」

 自然とそんな言葉がこぼれた。


*


 ここはあの老人たち以外にも多くの人たちがいるようだ。

 決してこちらに近づこうとはしないが、時折子供や女性が通りかかるのが目に入る。

 俺を閉じ込めておくにしても人目に付くような場所に置いておくというのはどうなのだろう。身動きは取れないから逃げることはできないとはいえ見張りもたまにしかやってこないし、もしかすると彼らはあまり余裕がないのかもしれない。こんなところに住んでいるのも何か事情があるのだろうか。 仮に事情があったとしてもこの扱いに納得できるわけではないが。抗議の一つでもしたいのは山々だが、それよりももっと高くそびえる言葉という壁に阻まれれば断念せざるを得ない。

 彼らの余裕のなさはよほど深刻らしい。

 その証拠に小学生くらいの子供たちが好奇心からか、俺に近づこうとしていた。

 身なりは全員あまりきれいとは言えない。スラムのガキだと言われれば信じてしまうような姿だ。

 俺としては自分自身を人畜無害な人間だという自負があるが、手足を縛っているということはここの住人は俺のことを危険だと判断しているはず。それなのに幼い子供たちが興味本位で近づけるというのはかなり問題ではないだろうか。

 子供たちのうちの一人が涙目になりながら一人でこちらにどんどん近づいてくる。時折足を止めるが、後ろから声がかかると嫌々また歩き出す。

 どうやらいじめられているらしい。俺に近づくというのがいじめというのは忸怩たる思いだが、これはチャンスかもしれない。

 自らの不幸をいつまでも嘆いていても仕方がない。帰るためには何か行動をしなくては。今の最悪の状況を抜け出すために切実に、必死だった。

 ついにいじめられっ子が目の前までやってきた。喧嘩でもしたのか、頬の怪我が痛々しい。へっぴり腰でこちらに手を伸ばしている。おそらく俺に触らないといけないのだろうが、そんなに怖がらなくても何もしないしできない。

 なかなか進まなくなったいじめられっ子に焦れたのか、後ろで声をかけていた4人の中で一番体の大きい子供、いじめっ子が急かす様に叫んだ。

「■カ!」

 いじめられっ子はその言葉に弾かれたようにまた手を伸ばした。

 いまの言葉は聞き取れた。どんな意味かは分からないが意味のある単語のはずだ。意を決して口を開いた。

「ロカ?」

「っ……!?」

 そう呟いた途端、いじめられっ子は伸ばした手を引っ込めて後ずさり今にも泣きそうな目を向けてきた。そんなに怖がらなくてもいいだろう……いや、もし俺が手足を縛られた怪しい男に突然声をかけてきたらどうだろう。怖い。

 暢気に考えている暇はなかった。ここで逃げられる前に何とかコミュニケーションをとらないと。

 もう一度、今度はできる限り尋ねるような雰囲気で「ロカ?」と言った。次に自分の体に視線を向けて「ユウ」と名乗った。ロカというのがいじめられっ子の名前であるととりあえずのあたりをつけているが、違ったら無駄に終わるかもしれない。

 しかし手が縛られているせいでこんな奇妙な動きで意思疎通を試みるしかないのだ。

 そんな動きを何度か繰り返すうち、俺の意図を察してくれたのか、いじめられっ子は俺の言葉に合わせて指を向けた。「ロカ」と言った時には自分に、「ユウ」と言った時には俺に。そしてついにいじめられっ子が俺を指さして「ユウ?」と言った。それに対して俺はできうる限りの肯定を表すために大きくうなずいた。

 こうしてお互いの名前を呼びあうという意思疎通における大きな一歩を踏み出した俺たちは大いに喜んだ。いや、ロカの方は俺の滑稽な様子を面白がっていただけかもしれない。やがて後から気になって様子を見に来たほかの子供たちの名前も同じ要領でロカから聞き出すことに成功した。ロカはそれを面白がったのか、それとも俺が求めているものを察してくれたのかはわからないが、いろいろなものを指差してはそれらの名前を教えてくれた。俺は必死にそれらの名前を憶えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る